立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2022.01.27

<学園史資料から>衣笠キャンパス校舎の泰山タイル

衣笠キャンパスと言えば煉瓦色の校舎が建ち並ぶ風景を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。実は校舎の外壁は煉瓦ではなくタイルなのです。よく見ると何棟かの校舎に、布目模様が付いた正方形のタイルが使われていることに気づきます。このタイルは京焼の製陶所が製造した「伝統的な焼きもの」で、竣工パンフレットには「泰山タイル」と記されています。今回は所蔵資料から衣笠キャンパスの校舎の移り変わりと外壁の意匠が煉瓦調タイルで統一されていく様子について探ります。


 

 

【以学館の外壁 泰山タイル 通し目地で整然と並べられている】

泰山タイル1




タイルファンを惹きつける泰山タイル

 

綿業会館 談話室タイル・タペストリー(1931年竣工)

泰山タイル2

 

泰山タイル3   

写真提供 一般社団法人日本綿業倶楽部


京都市京セラ美術館 西広間1階の床タイル(1933年竣工)

泰山タイル4 

 

泰山タイル5

                          写真撮影 202218


泰山タイルは、大量生産にはない手作りの風合いと釉薬による美しい色彩が特徴です。老舗喫茶店や公共建築など昭和初期からの建築物に使われており、京都府内でも建物の内外装にその姿を見ることができます。文献資料や先行研究の少なさにより謎が多いことからもタイルファンを魅了しています。創業者の池田泰山(1891―1950年)は京都市陶磁器試験場附属伝習所で基礎を学び、国立大阪工業試験所窯業部に勤めた後、愛知県常滑の久田工場で洋式建築陶器製造の率先者である久田吉之助よりテラコッタの技術を修得し、1917年東九条大石橋通り高瀬に泰山製陶所を設立しました。最初は清水焼の日用工芸品を製作していましたが、時代の流れによって次第に建築用装飾品の生産を本格化しました。1933年発行「窯業大観」には生産品として外壁・床、モザイク、テラコッタの記述があります。1933年に集成タイルの実用新案権を、翌年にモザイク用陶板の実用新案権を取得しています。泰山タイルが用いられている主な建築物では那須御用邸・甲子園ホテル・東京劇場・東京市政調査会館・東大病院・綿業会館などが挙げられます。1939年泰山製陶所は株式組織になり、1942年に2代目社長池田侊佑が入社しました。1962年発行の「京焼百年の歩み」には現在活躍しつつある製造者の中の一つとして企業情報が以下のように掲載されています。(注1)


1962年発行「京焼百年の歩み 付表」P106 区外の部(主要工場)抜粋

法人設立年

昭和十四年

社名

株式会社 泰山製陶所

代表者

池田侊佑

資本(資本)出資金額(払込)単位千円

1,000

事業所々在地(本店)

南区東九条河西町33

従業員数

38

主要製品名

建築用、内外装タイル

主要設備

トロンメル、土練機、フレット

コンプレッサ、乾燥炉、石炭窯二基



衣笠キャンパス校舎の変遷

1.木造から鉄筋コンクリート造へ ― 白壁の校舎 ― 

 

立命館大学は1981年の衣笠一拠点完成までの間、広小路学舎と衣笠学舎の二か所にキャンパスがありました。衣笠キャンパスは中川小十郎が1938(昭和13)年5月、上京区等持院北町に3,313坪(約1932㎡)の用地を購入し、北大路学舎にあった日満高等工科学校を移転して1939(昭和14)年11月に開校したことに始まります。(注2

戦前、戦中から引き継いで理工系学部の学舎であり、木造校舎が建ち並んでいました。1949(昭和24)年に理工学部が発足し1954(昭和29)年、衣笠キャンパス最初の鉄筋コンクリート造である3層白壁の3号館が建てられました。ついで1956(昭和31)年、3号館の西側に2号館が建てられました。その後19634月までに4号館(電気工学科)5号館(機械化学実験室)と鉄筋コンクリート造、白壁の校舎が建てられました。(注3

 

1939年頃 日満高等工科学校校舎 木造建築 現存せず】

泰山タイル6

 

1954年竣工 3号館 衣笠キャンパス最初の鉄筋コンクリート建築 2000年撤去】

泰山タイル7

 

1950年代 白壁の校舎、瓦屋根の校舎、瓦屋根の実験棟】

泰山タイル8


 

2.衣笠一拠点計画 ― 泰山タイル?が登場! ― 

 

1963(昭和38)年、施設設備改善や教育改革など大学の発展に計画性を与えることを目指して衣笠学舎を有効活用する為に衣笠一拠点志向が打ち出されました。(注4

1965(昭和40)年4月、当時では学園中最大の学舎として以学館が竣工し、広小路から移転した経済・経営両学部の学舎として利用されていました。コンクリート打ち放しと布目タイル張り(ドンゴロス・タイル)の外壁が印象的な校舎で、遠くから見ると煉瓦のように見えますが近づくと一枚一枚色が異なる手づくりのタイルであり、光の加減によって布目模様の印影が綺麗に見えます。(コンクリート打ち放しの外壁は20004月、改修工事の際に塗装されています。)設計は京都府内の公共建築の多くを手掛けた富家宏泰氏であり、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っていました。(注5)同じ時期に富家建築事務所が設計を手掛けた京都府上京警察署の外壁にも泰山タイルと思われる布目タイルが使われています。(注6

 

学園新聞には建設中の新校舎への期待が高まる様子が伺える以下の記述があります。

 

立命館学園新聞 昭和391011日 第981

「この新校舎は、経済、経営両学部の全授業と理工学部の一般教育、外国語教育の授業が行われる大・中・小の教室その他から構成され、地下は生活協同組合経営の食堂、喫茶室及び学生自治活動ボックスが設けられ、衣笠山を背景に、その近代的偉観と完備した設備をほこることとなろう。」

 

以学館から始まり、この頃から衣笠キャンパスでは布目タイルの外壁とコンクリート打ち放しの支柱を基調とした建物が建設されていきます。1965(昭和40)年9月に6号館(現在の恒心館)が、1966(昭和41)年に新1号館(現在の啓明館)と修学館(19721977年増改築)が竣工します。富家宏泰氏は新1号館の意匠について「一連の建物との調和を考え立命館衣笠学舎の完成を目ざして一歩前進したつもりです。」と述べられています。(注7

                                                               

19661967年「大学案内」より 以学館と理工学部実験室棟の瓦屋根】

泰山タイル9

 

1965年竣工 6号館竣工パンフレット表紙 現在の恒心館(2000年 改修)】

泰山タイル10

 

1966年竣工 新1号館竣工パンフレット表紙 現在の啓明館】

泰山タイル11

 

1966年竣工 修学館 アルバムの台紙一杯に引き伸ばされた泰山タイルの写真 242×296mm

泰山タイル12

 

1967年竣工旧図書館 建築中の外壁施工風景】

泰山タイル13

 

1965年竣工 京都府上京警察署(旧西陣警察署)布目タイル外壁】

泰山タイル14

                         写真撮影 202112月16日

 

3.衣笠一拠点完成 ― 受け継がれる校舎の意匠 ― 

 

1978(昭和53)年4月に竣工した学生会館の竣工パンフレットで、富家氏は泰山タイルについて末川博名誉総長の回想を以下のように述べられており、思い入れのある意匠であったことが伺えます。

 

「今やこの衣笠キャンパスの基本的な色調となった布目の薄紫のタイルは、伝統的な京都の焼物なのです。はじめて衣笠キャンパスにこのタイルを張り上げた時、私は末川先生から大変おほめの言葉を戴いたことをおぼえています。このたび竣工した学生会館にも、コンクリート打放しの柱型と、この布目のタイルを基調として採用しました。これから先もこのキャンパスに限り、このパターンで進められることを望んでいます。」(注8

 

197080年代にかけて広小路の学部は徐々に衣笠に移転し、1981(昭和56)年3月法学部の移転をもって衣笠キャンパス一拠点が完成しました。同年4月には時計塔を設けた存心館と第二体育館(2011年解体、2013年に京都衣笠体育館竣工)が竣工し、約7割の校舎の外壁が煉瓦調のタイルとなっていました。(注9

泰山タイル貼りの意匠は時代の変化に合わせて他のタイルに変わりましたが校舎の色調は受け継がれており現在までに建て替え、増改築、新校舎竣工などの変遷を経て周辺環境と調和した統一感のあるキャンパスとなっています。(注10

 

1981年度「大学案内」表紙 】
泰山タイル15

 

【衣笠キャンパス中央広場】

泰山タイル16


 

<竣工パンフレットに見る外壁についての記述抜粋 富家建築事務所設計>

以下は1965年から1978年までの竣工パンフレットにある外壁についての記述です。学生会館竣工以降、外壁についての記述はあまり見られなくなります。

 

以学館(1965年竣工)

コンクリート打ち放し一部泰山タイル貼及カラーサンド吹付/工事概要

 

1号館(1966年竣工、現在の啓明館)

75×75角窯変泰山タイル/工事概要

又此度の外装についても多くの学校側の皆様のご理解ある方針によって完成されたものと感謝しています。/設計概要

 

修学館(1966年竣工)

75×75角窯変泰山タイル/工事概要

 

旧図書館(1967年竣工、2016年解体)

殊に此の図書館は外装のタイルは勿論カラーアルミサッシやステンレスのドアー、ブロンズベンガラス、又玄関壁の大理石、床のゴムタイルと最上の材料を使用し大いに建築家としての腕をふるう事ができました。/設計概要

 

学而館(1970年竣工)

75×75角窯変泰山タイル貼/工事概要

 

志学館(1974年竣工)

立命館の建物の象徴として利用してきた外装タイルメーカーが、近代化の流れに押され、京都の手づくりのよさを残したメーカーとしての努力の炎を消すなど建設業界の発展の中でさびしい出来事でもありました。/設計概要

 

諒友館(1976年竣工)

75角窯変タイル貼/工事概要

 

学生会館(1978年竣工)

このたび竣工した学生会館にも、コンクリート打放しの柱型と、この布目のタイルを基調として採用しました。/工事概要


 

2022年1月27日 立命館 史資料センター 宮裡知代



(注1)「泰山タイルについて」参考文献

・藤岡幸二編『京焼百年の歩み』 財団法人 京都陶磁器協会 1962

・株式会社INAX日本のタイル工業史編集委員会『日本のタイル工業史』1991

・池田泰佑「陶芸家が鬼瓦を造形」博物館建築研究会編『昭和初期の博物館建築:東京博物館と東京帝室博物館』東海大学出版 2007年 p168-175 

・中村裕太「泰山製陶所の転用技術 -甲子園ホテルの集成タイル」京都精華大学紀要編集委員会『京都精華大学紀要43号』京都精華大学 2013年 p163-174 

・酒井一光『タイル建築探訪』株式会社青幻舎 2020

・石田潤一郎、前田尚武編著『展覧会オフィシャルブック モダン建築の京都100 Echelle-1

2021

・立命館大学アート・リサーチセンター「近代京都オーバーレイマップ」

 昭和2年頃京都市明細図(長谷川家版)、昭和26年頃京都市明細図(総合資料館版)

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/ModernKyoto/ 閲覧日:2022117

 

(注2)立命館史資料センターのHP記事参照

<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編

  https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=184

 

(注365年小史編纂委員会「理工学部の沿革」立命館大学理工学部『理工学部六十五年小史』1980p8-15 

 

(注4)立命館百年史編纂委員会『立命館百年史 資料二』学校法人立命館 2007年 p1452

 

(注5)・学校法人立命館『立命館大学 衣笠学舎以学館新築竣工記念』1965年 p3

・中川理「京都第二日赤病院本館―富家宏泰:もうひとつのモダニズムの実践」石田潤一郎監修『関西のモダニズム建築』株式会社 淡交社 2014年 p193-198   

 

(注6)富家建築事務所『富家建築事務所社報 一ノ木会誌 第4号』1966-1967年 

 

(注7)学校法人立命館『立命館大学 理工学部一號館 新築竣工記念』1966年 P4

 

(注8)学校法人立命館『立命館大学学生会館新築竣工記念』1978年 P2

 

(注9)久保田謙次「衣笠キャンパス略史―校地・校舎の変遷について-」立命館百年史編纂室

『立命館百年史紀要 第21号』立命館百年史編纂委員会 2013

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/common/file/publication/journal-21.pdf

 

(注10)キャンパスデザインについては立命館キャンパス計画室のHP記事参照 

   https://www.ritsumei.ac.jp/campuskeikaku/kic/chapter5-4/

2021.11.30

立命館のモニュメントを巡る(第5回)「立命館その由来の碑」と扁額「立命館由来記」

〈立命館 その由来の碑〉

 

モニュメント第5回-1

 衣笠キャンパスの正門を南に入った正面に碑が建っている。碑には次のように記されている。

 

 殀壽不貳修身以 

俟之所以立命也

立命館 その由来の碑

     今や立命館はゆるぎないものとなりつゝある この名は日本近代の幕あけとそ

    の建設に大きな役割を果たした西園寺公望が一八六九(明治二)年に同志を糾合し

    て邸内に開いた私塾にはじまる それは中国古代の革新思想を代表するひとりで

    あった孟子のことばから採られている

       殀壽貳わず身を修めて以て之を

俟つは命を立つる所以なり

生涯公望に師事した中川小十郎が一九〇〇(明治三三)年京都法政学校(後に大

)の創立後まもなく一九一三(大正二)年立命館大学としてその名称を受け継いだ

のであった わが立命館の第二世紀初頭にあたり父母教育後援会の貴重なお申出

を受けてこの石碑が建てられる

                  二〇〇一年 春 立命館総長 長田豊臣 記

 

 「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」は、今井凌雪(本名)潤一の揮毫。裏面に氏の略歴がある。立命館大学法文学部経済学科卒業(1949)、日本書芸院常務理事 日展理事

               建立 二〇〇一年 春

               贈  立命館大学父母教育後援会

                  立命館創始一三〇年・学園創立一〇〇周年・立命館

                  アジア太平洋大学開学を記念して

             初代会長 植村仁一

             二代会長 小川正義

             三代会長 垣内 剛

             四代会長 宮本郁夫

 

 「立命」の名は、『孟子』盡心章の「命を立つる所以なり」から採られた。「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」の読みと解釈については議論があり、読み方によって解釈も異なってくるという。「殀壽まどわず」「殀壽うたがわず」「殀壽たがわず」。大正212月の財団設立時の中川小十郎の演説、また大正106月号の『立命館学誌』にその読みと解釈があるが、『立命館百年史』通史一は「殀寿まどわず」と読み解釈している。

 

<立命館由来記>

 

モニュメント第5回-2

西園寺記念館に架けられているこの扁額は、「立命館由来記」とされている。大きさは縦45㎝、横100㎝であるが、実はもとの木刻大扁額がありこの倍の大きさである。

扁額には、大正21213日、本学が財団法人立命館として設立され、その発表式に寄せられた西園寺公望の祝辞を立命館総長中川小十郎が謹書したとある。中川小十郎が館長から総長となったのは昭和67月であるから、扁額は後年作製されたと思われる。

もとの木刻大扁額は「公撰文立命館大学々名由来の記」として、昭和16年の「西園寺公を偲ぶ展覧会」に出品されている。

財団法人の設立とともに、大学の名称が京都法政大学から立命館大学に、中学が清和中学校から立命館中学に改称され、文字通り西園寺公望の私塾立命館が継承されたのである。

その発表式に西園寺公望が祝辞を寄せ、その祝辞を西園寺公望の実弟で立命館の理事であった末弘威麿が代読した。

代読された祝辞は、『立命館学報』第1(大正32)に掲載されている。下記がその全文である。なお、扁額は細部でいくつか祝辞と異なるところがある。

 

祝辞

 明治の初年余私學を京都に開き名を命じて立命館と曰ひ學を講じ道を論じ以て世の進運に裨補せんことを期せり其後故ありて中絶し其名虚しく存せるのみ數年前丹波中川小十郎君京都法政大學を創むるに當り余に其匾額に題せんことを求む余仍りて立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし君の力に依りて其實の擧がるを喜ぶの意を表せり匾額は不幸祝融の災に罹りて滅せりと雖も校運は益隆昌に向ひ次で中學を附設し稍其體を成せり今次其組織を改め財團法人と爲すに及びて余が前きに書せし所の題字を采りて其名稱と爲せり余は是に於て乎益其名實倶に永く存するを喜ぶ思ふに今日の學は開物成務を以て要と爲すと雖も修身立命の工夫亦閑却すべからず必ず忠信の行ありて實用の才始めて其功を成すことを得自今斯校に遊ぶ者深く思を此に致さば其違はざるに庶幾からん法人立命館の成立に際し聊か其名稱の由来を叙し以て祝辞と爲す

               大正二年十二月十三日

                  正二位勲一等 侯爵 西園寺公望

 

 文中に「立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし」とあるのは、明治384月に立命館の名称を継承することを許諾し、寄贈した扁額のことである。この扁額は明治4112月に広小路学舎が火災となり焼失したため写真のみが『立命館学報』第1号に掲載されている。

 

モニュメント第5回-3


 立命館

 往年余興一校名曰立命館及游學泰西校廃名存頃者京都法政大學々員來請襲用其名余喜名

之得實乃書匾額以與之孟子曰殀壽不貳修身以俟之所以立命也盖學問之要在于此矣

                    明治三十八年四月

                      侯爵西園寺公望

 

 今回は「立命館」の名称の由来に関するモニュメントについて紹介した。

 

20211130日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2021.11.02

『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その2 南君遺徳碑 (南源十郎遺徳碑)

所在地: 大阪府泉佐野市上之郷 中村児童公園(茅渟宮跡)

建 立: 明治39(1906)年11月 公望58歳

 

 西園寺石碑追録その2

          【南君遺徳碑篆額】                 【南君遺徳碑】

 

 大阪府泉佐野市上之郷の中村児童公園に現存する南君遺徳碑は、2020年10月に近くの上之郷小学校から移設された。

 篆額は侯爵西園寺公望、撰文は湖南内藤虎、秋渚磯野惟秋書丹。

 南源十郎は和泉国泉南郡上之郷村出身。若くして里正、村長となり、明治18年から30年、32年から36年の間、大阪府会議員を務めた。そのほか公職に就くことも多く、また大阪で新聞の発行を行った。上之郷の地租の軽減をはかり、また上之郷銀行を設置した。

 嘉永5(1852)年9月生まれ、明治37(1904)年4月病のため卒す。享年53。上之郷村の有志によってその徳を慕い小学校校庭に遺徳碑が建立された。内藤湖南は旧知であったため碑文を記した。

 碑に関する資料として

(1)『内藤湖南全集』第14巻「湖南文存」巻14に碑文

(2)『第二回大阪府町村治績』大阪府内務部地方課 大正9年

(3)上之郷小学校校長であった新田義郎氏による書下し文がある(昭和48年)。氏によれば、南源十郎は自由民権思想普及のための新聞を通じて、西園寺公望、内藤湖南、中江兆民、末廣鉄腸、磯野惟秋等と親交があったとしている。(書下し文の資料は、上之郷コミュニティセンター提供)

 がある。 

2021年11月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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