立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2021.09.07

立命館のモニュメントを巡る(第3回)佐々木惣一書「平和塔」

佐々木惣一書「平和塔」

モニュメント第3回-1

 

法学博士佐々木惣一書石碑「平和塔」

所在地: 大阪府三島郡島本町桜井3丁目 島本町ふれあいセンター

建 立: 昭和28324

揮 毫: 昭和281

モニュメント第3回-2

【佐々木惣一先生】

 

 法学博士佐々木惣一は、1934(昭和9)3月から1936(昭和11)3月まで立命館大学学長を務めました。

 今回の「モニュメントを巡る」は、佐々木惣一先生が揮毫した「平和塔」を訪ねます。

 この碑はもと、島本町広瀬の水無瀬神宮前にありましたが、2014年頃現在地に移設した

ものです。

 『島本町史』(1975)によれば、戦争による遺家族の生活と権利を守り、戦没者の慰霊のため1951(昭和26)年に遺族会が結成され、1953(昭和28)年に遺族会の協力を得て、町の事業として、水無瀬神宮前に建立したものです。島本では、水無瀬神宮の森や国鉄山崎駅から500名近くが兵士として出征し、118名が故郷に帰ることができませんでした。

 「平和塔」は、戦没者の慰霊と平和の永続を祈願して建てられました。碑銘の揮毫は法学博士佐々木惣一、建立者の名が裏面に島本町櫻井西村政五郎とあります。建立者の平和に対する思いが伝えられ、今も関係者による慰霊が行われます。

 なお、『島本町史』には平和塔碑の前に立つ佐々木惣一博士の写真が掲載されています。

 

 佐々木惣一博士は大正から昭和にかけて憲法学者として大きな業績を残した著名な方でした。戦後の憲法改正の際には、近衛文麿が草案を依頼し、進歩的な憲法改正草案を出しています。

 その佐々木惣一は京都帝国大学で憲法を井上密に、行政法を織田萬に学び、1903(明治36)7月法科大学第1期の卒業生となりました。卒業後すぐに講師となり更に助教授、1913(大正2)年には教授となっています。学者として大変な業績を残し、2度法学部長に就き、また2度総長選にも出ています。

 その間教育・研究のみならず、1913(大正2)から1914(大正3)年の澤柳事件(1)1920(大正9)年の森戸事件(2)1933(昭和8)年の京大事件(瀧川事件)で学問の自由・大学の自治のため先頭になって闘ったことが特筆されます。

 京大事件では、京大法学部の佐々木惣一・宮本英雄・瀧川幸辰・末川博・恒藤恭など7教授、更に5助教授、2講師、4助手、2副手が辞職しました。そして18名の教授・助教授等が立命館大学に迎えられたのです(後に6名が京都帝大に復帰、1名が病死します)

 佐々木惣一先生と立命館の関係は、そもそも1907(明治40)年から講師に就任していることに遡りますが、京大事件を機に1933(昭和8)9月に専任教授として立命館大学に迎えられ、翌年3月から1936(昭和11)3月まで立命館大学学長・法学部教授を務め、大学としての立命館を有数の大学につくりあげています。

 職制の改正により初めて3年任期の学長となりました。この時期立命館大学学位規程が制定され学位授与の権限が確立されたこと、学制改正により特に法律学科の改革が図られ、また昼間部の授業が充実し、『立命館学誌』や『法と経済』などでの研究活動も活発になりました。これら立命館の画期的な発展は、佐々木惣一教授・学長をはじめとした京都帝国大学免官・辞職により迎えられた多彩な教授・助教授陣によるものと言えるでしょう。

 学長の任期はあと1年残していましたが、1936(昭和11)3月、学長の職を辞し立命館を退職します。美濃部達吉の天皇機関説に端を発して広がった国体明徴運動(3)によるのでは、と言われます。

しかし、佐々木惣一は以降も名誉学長また立命館顧問となり、1965(昭和40)8月に87年の生涯を終えています。

 

 本稿は「立命館のモニュメントを巡る」の一稿として、佐々木惣一先生揮毫の「平和塔」を取り上げましたが、最後に現在は不明のモニュメント、佐々木先生の胸像について紹介しておきます。

 『立命館学誌』第193号には、「名誉学長佐々木博士の胸像贈呈式」の記事があります。

 1936(昭和11)102日、佐々木惣一博士の胸像贈呈式が本学で行われています。この胸像は学生の拠金によって製作され、佐々木先生に贈呈されました。胸像の題字は天龍寺管長関精拙師となっています。学生の代表が佐々木学長・名誉学長の功績と立命館の発展への寄与に謝恩の辞を贈っています。

 

 資料:『島本町史』本文編 1975(昭和50)

 『立命館学誌』第193号 1936(昭和11)1015

 『立命館百年史』通史一 1999年 

    『立命館大学法学部創立100周年記念誌』所収 市川正人教授「佐々木惣一」

20009

    田畑忍編『佐々木憲法学の研究』所収 磯崎辰五郎「佐々木惣一先生の人と学問」

      197512月 法律文化社

 

2021年9月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次







(1) 「澤柳事件」


     1913(大正2)5月、東北帝国大学総長の澤柳政太郎が文部省から京都帝国大学


総長に任命された。澤柳は教学の「刷新」を図ろうとし、谷本富文科大学教授ら7


教授に辞表を提出させ、8月に免官を発令した。


これに対し仁保亀松法科大学長、佐々木惣一など法科大学教授は教授の人事権


は教授会にあるとして抗議し辞職した。これを受けて奥田文部大臣は法科大学側


の主張を認め、澤柳総長は1914(大正3)4月に依願免官した。教官の人事権は教


授会にあるという教授会自治・大学の自治を文部省が認めた事件。


 この時辞表を出して抗議活動をした法科大学教授は、織田萬・千賀鶴太郎・田島


錦治・仁保亀松・岡村司・佐々木惣一などで京都法政大学・立命館大学でも講師を


務めていた。佐々木惣一は教授になったばかりであったが、中心になって抗議活動


をした。


 


(2) 「森戸事件」


     1920(大正9)年、東京帝国大学助教授・森戸辰男は、経済学部機関誌に「クロポ


トキンの社会思想」を発表した。この時興国同志会から無政府主義の宣伝だとして


攻撃され、東大総長山川健次郎は森戸を休職処分にし、編集担当の大内兵衛も起訴


され、有罪となった。


 これに対し、言論の自由・学問の自由を否定するものだとして、吉野作造や東大


の学生は反対運動を起こし、京都帝国大学法科大学教授の佐々木惣一は森戸の特


別弁護人を務め、法廷に立って学問の自由・研究の自由を論じた。また文化団体の


講演会で、森戸事件に関し学問の独立・思想の独立について講演した。


 


(3) 「国体明徴運動」


     美濃部達吉の天皇機関説は、大正期から受け入れられていた憲法学説であった


が、軍部が台頭してくると天皇機関説は国体に反する学説として攻撃されるよう


になった。


1935(昭和10)2月、貴族院議員菊池武夫が本会議において美濃部達吉の天皇


機関説を攻撃した。これを機に軍部や右翼団体は全国的に排撃運動を展開し、岡田


啓介内閣は政府声明を出し天皇機関説を国体の本義に反するとした。美濃部は9


に貴族院議員を辞職するが、不敬罪で告発され、著書も発禁処分となった。更に排


斥運動は広がった。この運動は当時の国体を巡る政治運動で、学問の自由を奪うも


のであった。排斥運動は佐々木惣一にも及び、神戸商科大学における佐々木の憲法


講座は休講にされた。


佐々木の弟子で立命館大学教授であった磯崎辰五郎は、国体明徴問題に関して


佐々木学長と中川総長との意見が合わず、対立を避けるため佐々木が学長を辞任


したとし、また同志社大学の田畑忍も天皇機関説問題をきっかけに中川小十郎総


長と意見を異にしたため学外に去ったとしている。






2021.07.27

<学園史資料から>80年代えとせとら

 立命館 史資料センターの展示をご紹介します。

80年代えとせとら-1

 ファッションや音楽でここ数年リバイバルが続いている80年代。今回は「80年代えとせとら」と題して保存資料から80年代を振り返ってみました。

 校友にとっては懐かしい80年代の様子も、若者にはどこか新鮮で魅力的なものに見えているのかもしれません。

80年代えとせとら2

「1986年 ボクシング部ペナント W-R」と、「消費税反対を訴えるビニールバッジ」

80年代えとせとら3

 80年代に発刊された立命館生活協同組合組合員によるコミュニケーション情報誌「RUC」

 立命館キャンパスを歩く学生が表紙を飾り、裏にはレジャー情報や編集者による手書きのイラスト等が掲載されている。

80年代えとせとら8

80年代えとせとら9


 史資料センターに保存されている80年代の立命館学生群像写真から、当時のキャンパスの様子がうかがえるものを数点ご紹介。

80年代えとせとら4

80年代えとせとら5

80年代えとせとら6

80年代えとせとら7



2021.06.30

立命館のモニュメントを巡る(第2回)「立命館草創の地」と「立命館学園発祥之地」

 

 立命館のモニュメントを巡る(第1回)「創立者中川小十郎先生之像」と「中川先生記念碑」←第1回は、こちらをクリック。



 第2回は、立命館大学の前身である京都法政学校が設置された「立命館草創の地」と「立命館学園発祥之地」の碑を訪ねます。

 

<立命館草創の地の碑>

 

モニュメント第2回-1

 丸太町通から鴨川と河原町通の間の東三本木通を北に上ると、右手に「立命館草創の地」の碑があります。住所でいうと京都市上京区中之町ですが、碑の設置されている場所は幕末の吉田屋跡といわれ、京都市の駒札も立っています。

 この碑は、立命館創立100周年を記念して建立されました。

 

 「碑」立命館草創の地  

     京都法政学校設立

        1900(明治33)519

 「副碑」

   立命館大学の前身京都法政学校は、一九〇〇年(明治三三年)五月一九日中川小十郎

によってこの地に創立された。

   ここにあった当時の有名な旗亭清輝楼を仮校舎として、六月五日から夜間授業を開

始し、翌年の移転以後は約八〇年間にわたっていわゆる広小路学舎(現府立医大の西構

)が中心になったが、鴨川畔東三本木のこの場所はまさに立命館草創の地といってよ

い。

 中川小十郎は、「世界の中の一員」としての日本を常に意識していた近代日本の代

表的政治家西園寺公望の最初の文部大臣在任中、特命による唯一の大学書記官として

京都帝国大学(現京都大学)創立に尽瘁の傍ら、京都の地でのもうひとつの「自由と清

新」の学府づくりをめざしたのであった。

京都法政学校はその後、西園寺がすでに一八六九年に御所の邸内に開いた家塾“立命

館”の名称を継承して、立命館大学(旧制)へと発展した。「平和と民主主義」の教学理

念を加えた戦後の立命館のさらに大きな展開については多言を要しない。

 なお、清輝楼は、明治維新の中心的な担い手のひとりの桂小五郎(木戸孝允)と幾松

(のちの木戸夫人)の逸話でよく知られる吉田屋のあとをうけ継いだものといわれ、そ

の後の変遷を経て一九九七年まで大和屋旅館として存続した。

 二〇〇〇年三月二十三日

                         学校法人 立命館

                           理事長 川本八郎

「碑銘揮毫 川本八郎(理事長) 2000323日」

 

 川本理事長は、中川先生による創立を振り返り、本年100周年を迎えたこと、更に立命館が高等教育機関として歴史的、社会的役割を果たしてきていることを碑の除幕にあたって述べました。(ユニタース 20004月号)

 

 立命館大学の前身、京都法政学校は今から121年前、この地に誕生しました。

 中川小十郎は、京都帝国大学の井上密、織田萬、岡松参太郎などと創立をはかり仮校舎としてここに開校するに至ったのです。

 東に鴨川、そして東山の峰々を望み、京都帝国大学にも近く、また東三本木は頼山陽や富岡鉄斎なども住んだ文人の町でもありました。江戸後期には花街としても知られていました。

 碑の京都法政学校設立の年月日は認可日で、開校式は65日となりました。仮校舎となった清輝楼は元料亭でしたが、その3階の大広間で授業が始まりました。夕方5時から9時までの夜間4時間制で、法律科と政治科合わせて最初の入学者は305名、教員は京都帝国大学法科大学の教授・助教授、校長は東京帝国大学の富井政章でした。

 実は設置の計画書(予算書)では、入学者を100名で予定していましたが、大きく上回る学生数となり、清輝楼での授業は1年半で移転することになります。

 清輝楼はその後いくつかの変遷を経て、1997年まで大和屋旅館として続きました。なお吉田屋の場所については異説もあります。

 

<立命館学園発祥之地の碑>

 

モニュメント第2回-2

 仮校舎とはいえ入学者が予想を大きく超えて手狭となったため、移転が検討され、翌1901(明治34)12月に京都市上京区広小路通寺町東入ル中御霊町に移転しました。

御所の清和院御門の東側で、412(1,360)13教室の校舎が開設されたのです。清輝楼からは歩いて78分ほどの場所です。

当時は河原町通よりも寺町通がメインの通りで、京都電気鉄道(京電)のちに京都市電となった出町線が1901(明治34)年から1924(大正13)年まで寺町通を走り、同年河原町線に付替えとなりました。

 

 「碑」立命館学園発祥之地

                  右下に揮毫者のプレートが嵌めてあります。

                  「今井凌雪(潤一) 

                    書家、日本書芸院副理事長、日展理事・審査

員、筑波大学名誉教授 1922年生、奈良市出

身、1949年立命館大学経済学部卒業

                               1992519日」

 「副碑」

    一九〇〇年、中川小十郎により創立され東三本木丸太町上ル旧清輝楼の仮校舎で

  授業を開始した京都法政学校は、翌年一二月三〇日、この地の新校舎に移転し、一九

〇五年には維新当時の西園寺公望の家塾であった立命館の名称を受け継いだ。同年に

は付属清和普通学校も開設され、翌年に立命館中学校と改称し、一九二二年に北大路

新町に移転するまでこの地にあった。

 立命館は爾来この場所で校地を約七千坪に拡張し、校舎は延一万二千坪余におよん

だ。一九八一年三月に八十年にわたる広小路学舎の歴史を閉じるまで、十万余の有為

の若人がここに学び、真理と理想を追求した。

 この地にあって、激動する世界と日本の二〇世紀とともに、立命館はその栄光と苦

難の道を歩んだ。特に第二次大戦に際し、かつてこの学舎に学んだ多くの同窓が戦場

におもむき、再び帰らなかったことは、痛恨にたえないところである。

 戦後、立命館は平和と民主主義の教学理念をかかげて大いなる飛躍をとげ、広く世

界の学術研究機関と結んで、地球と日本の現代的課題にこたえる教育と研究を推進し

つつある。

 今日の立命館の営為は、二〇世紀初頭以来この地で展開された幾多先人の業績の上

に成りたっている。

 わが学園発祥の地を記念する所以である。

   一九九二年五月一九日

                    学校法人立命館

                      理事長 西村清次

 

 529日に行われた除幕式では、大南正瑛総長が、記念碑の建立にあたって、学園の礎を築いてこられた先人諸氏に一層の発展を誓いました。

 記念碑は半円形の赤みかげ石(高さ1.6m、幅6)で旧存心館の銅版画があり、また左右に「平和主義、民主主義、国際主義」と「現代化、共同化、総合化」を表す六本の石柱(高さ1.9)が配されています。(UNITASU 19926月号)

 立命館 史資料センターには設置計画の際の原画が数点保存されています。そのうち実際に設置されたデザインのもとになったと思われる原画を紹介します。建立された石碑と少し異なる点はありますが、広小路学舎発祥とともに石碑設置時の教学理念が込められたデザインです。

 

モニュメント第2回-3

 

 広小路学舎開設以降の設置学校については、少し説明を加えておきます。

 三本木から移転した京都法政学校は、1903(明治36)9月に京都法政専門学校に改称、翌1904(明治37)9月、更に京都法政大学と改称されます。

 そして1905(明治38)9月に附属学校として清和普通学校が創設され、翌年4月清和中学校と改称されます。

 京都法政大学・清和中学校は、1913(大正2)12月、財団法人立命館が設立されるとともに、立命館大学・立命館中学と改称されました。

 (このころの学校名は正式には「私立」が冠称されますが省略しました。)

 1922(大正11)6月、大学令による立命館大学(それまでは法制上は専門学校令による専門学校扱い)となり、学生数も増加したため、立命館中学は2年かけて北大路校舎に移ります。なお、立命館中学の校名が立命館中学校になるのは1928(昭和3)8月です。

 広小路学舎は大正末年から校舎の整備を始め、1928(昭和3)年には存心館・尽心館など鉄筋の校舎が整備されました。

 戦後の1948(昭和23)4月には新制大学となり法学部・経済学部・文学部が発足し、その後経営学部、産業社会学部が設置されました。そして衣笠一拠点事業により19813月をもっておよそ80年にわたる広小路学舎は閉校となりました。

 

2021630日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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