立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2022.06.16
<懐かしの立命館>昭和9年前後の立命館大学-佐々木惣一学長の時代-
はじめに
先日、昭和9年1月に発行された「立命館大学入学案内」(立命館学生生徒募集要項)を入手した。これまで所蔵されていない資料であった。
昭和9年といえば、前年に京都帝国大学で「京大事件」が起こり、法学部の教授・助教授等が辞職、免官となり、立命館で多くの教員を迎え入れた。その結果教学においても研究でも立命館は大きな飛躍を遂げた。昭和10年には創立35周年という記念大事業も行い、立命館は発展期を迎えたのである。京大事件を経て招聘した佐々木惣一学長の時代でもあった。
今回は、この「立命館大学入学案内」、『立命館学誌』などの資料をもとにして、昭和8年度から10年度頃までの立命館大学を訪ねる。
1.昭和8年度の立命館大学
【写真1 昭和9年3月卒業アルバムより】
(1)京大事件の教員の受け入れ
昭和7年に京都帝国大学法学部瀧川幸辰教授が中央大学で行った講演や、その著書『刑法読本』が危険思想として、翌8年1月国会で問題となり罷免が要求された。5月、文部大臣は、瀧川教授の刑法学説(瀧川教授の刑法理論は客観主義刑法論と言われた)が大学令第一条に規定する大学教授の「国家思想の涵養」義務に違反するとして休職処分にした。この処分を巡って小西京都帝国大学総長は辞職、法学部教員は、文部省の措置は受け入れられないとして辞表を提出、7月、佐々木惣一、宮本英脩、宮本英雄、森口繁治、末川博、瀧川幸辰の六教授が免官となり、続いて田村徳治、恒藤恭両教授も辞職・免官となった。8月には多くの講師・助手・副手も依願解嘱となった。法学部教員の辞職・免官は41人に及んだ。
この「京大事件」で法学部教授が一斉に辞表を出したことに対し、中川小十郎立命館総長(以下、「中川総長」)は、「反対もせぬ、賛成もせぬ」(「大阪朝日新聞」(京都版)昭和8年5月27日)とし、学問の自由や大学の自治に消極的な見解をもっていたが、免官組の教員を立命館大学で受け入れることにした。
佐々木惣一によれば、中川総長が「学界の為めに、我々に学界の地盤を提供したいといふことと共に、立命館大学自身が、之に依て、今後一層立派に大学の目的を達するやう力めたい」ということであった。佐々木はこの時、中川総長が事件発生の際に新聞で語ったとされることについてその真意を確かめている(1)。
(2)立命館大学の新たな教学体制
『立命館学誌』第163号(昭和8年9月1日)は、学園の近事の記事で「京大関係諸先生の立命館学園入り略内定す」と報じている(2)。
憲法・佐々木氏、憲法・森口氏、行政学・田村氏、法理学・恒藤氏、民法・末川氏、刑法諸科目・佐伯氏、商法・大隅氏、政治学・黒田氏、政治学史・大岩氏、民法・於保氏、商法・大森氏、民法・中田氏、独法・森氏、社会法・加古氏、外交史・田中氏、英法・石本氏、英法・浅井氏および岡氏の18名であった。独り瀧川氏を洩らす、となっている。
9月3日には歓迎の晩餐会を開いている。晩餐会で迎えられた出席者は、都合のつかなかった3名を除き15名が出席している。立命館側は、中川総長をはじめ織田萬名誉総長、各理事・教授等であった。中川総長の挨拶があり、末川博が答詞を行った。この歓迎晩餐会には瀧川幸辰も出席している。瀧川は、以降も『立命館学誌』などにしばしば論文を出した。
9月16日の総長公示は、今回の招請は、本学の内容実質の向上になること、諸先生方の研究上の便宜を提供するものであるとし、学生諸君もさらに向学の志を新たにしてほしい、と訴えた。
9月17日には新講座が発表され、翌18日から秋の新学期が始まった。佐伯・大隅・黒田・大岩は教授として、田中・加古・於保・大森・中田・岡は助教授として、そして佐々木・森口・田村・末川・恒藤・森・石本・浅井は講師ということであった。これは立命館の財政的事情によるとされた。
なお、佐々木惣一、森口繁治、瀧川幸辰、大隅健一郎、佐伯千仭はこの年既に講師として科目を担当していたが、佐々木は明治40年から、森口は大正6年から、末川は大正7年から、大隅は昭和4年から、すでに立命館で講師を務めていた。
(3)立命館職制の改正と機関雑誌の発行
昭和8年11月、職制が改正され、任期制が導入されて学長の任期3年、部長の任期が2年となった。
12月12日、各学科の新部長が決定し発表された。
法律学科部長に佐々木惣一、経済学科部長に神戸正雄、商学科部長に小島昌太郎、文学科部長に高瀬武次郎、予科部長に野々村直太郎が就任した。
学長は、12月19日に当面中川総長が学長事務取扱を兼務して就任した。
1月にはそれまでの立命館機関雑誌『立命館学叢』を廃刊し、新たな機関雑誌『法と経済』および『立命館文学』を発行した。『法と経済』創刊号では、田島錦治、佐々木惣一、小島昌太郎、末川博の論説など、『立命館文学』創刊号では、中川小十郎、吉澤義則、佐保田鶴治、小泉苳三などの論文が掲載された。ともに学界に大きく寄与する雑誌となった。
(4)佐々木惣一、学長に就任
そして3月9日、佐々木惣一学長が文部省から認可され、就任した。
昭和9年3月10日から13日までの4日間の佐々木惣一の日記が残っている(3)。学長就任4日間の動静を知ることができる。
【昭和9年3月10日(土)】
竹上立命館理事午後来宅、文部大臣の余の立命館大学長就任の認可ありたる旨を報ず。
余時に上阪不在中、家人代て之を聴く。夜大阪より帰京の汽車中大阪朝日新聞夕刊にて
同上認可の記事を読む。帰宅、今夕竹上理事来宅 明十一日立命館中学校並立命館商業
学校卒業式に於て大学長として祝辞を述べて…(以下略)。
【11日(日)】
午前八時半立命館中学校、立命館商業学校卒業式に参列。立命館大学長として祝辞を述
ぶ。かかる式にて祝辞など述べること初めてである。午後板木教授電話、立命館大学部、
専門部、予科の主任教員諸氏十三日又は十四日に余を歓迎するの茶話会を催さんとて
余の都合をたづねられたので、御受の意を答ふ。
【12日(月)】
朝磯崎教授来宅、十三日茶話会のことを告ぐ。田島名誉大学長、跡部教授に挨拶、田島
名誉学長は不在。午後一時大工原同志社総長の葬式に参列。三時登学、中川総長の登学
を待て就任の挨拶を為す。総長より懇篤なる依頼の辞を受く。…(一部略)…今日大学に
て辞令を受く。今回立命館大学長に就任実に余の志に反するも仕方なし。天の命と観ず
るの外ない。
【13日(火)】
午後二時東洋亭の茶話会に赴く。大学部、専門学部、予科の専任教員諸氏の懇篤なる歓
迎を受く。諸氏の援助を以てせめて一任期だけなりとも無事につとめんとおもふ。夜、
板木、磯崎、太田三教授来宅、立命一般のこと、商学部、高商部のことについて事情を
聴く。
(5)京大復帰問題
1月20日には、招聘歓迎の全国校友大会が盛大に開かれた。
ところが、3月初めから招聘教員の京大復帰問題が表面化した。連日復帰を巡る様々な交渉があった。そして、3月17日、黒田覚、大隅健一郎、佐伯千仭、於保不二雄、大森忠夫、中田淳一の六氏が佐々木学長を訪問し辞職を申し出、立命館としても辞表を受理することとなった。同日京都日出新聞も京大復帰を報道、25日まで連日にわたって「復帰の内幕」を掲載報道した。
3月22日には緊急校友大会も開かれ、校友会は復帰教員を糾弾した。
長谷川如是閑は、『立命館学誌』(第170号)に、京大復帰問題について「社会的正義だけは、何時の世にもはっきりと光って居て欲しい」と談話を寄せた。
(6)昭和8年度の卒業生
昭和8年度の卒業式は昭和9年3月18日。京都法政学校から数えて第32回の卒業式である。大学昼間部法律学科83名、経済学科21名、商学科17名、夜間部法律学科66名、経済学科5名、商科6名、専門部法律学科107名、経済学科15名、文学科16名、高等商業科18名、合計354名が卒業した。
佐々木学長は、卒業生に次のように訓示を贈った。
「真に社会の進歩、国家の発展を欲する者は、先づ以て社会に於ける自己を直接の任務即ち自己の職業の為に、最も誠実に尽くすことから着手しなくてはならない。」(『立命館学誌』第170号)
先立つ1月3日の京都日出新聞は、
「わが世の春!陣容誇らかな立命館 満洲国に期待」「ここほど最近有卦に入っている学校は一寸他にあるまい。天下の絶讃を満身に浴びつつ……天下に名だたる顔ぶれを以て編成し他校の羨望をよそにいまこそわが世の春を讃えているが、今春勇ましく同学園を巣立つ人々は……今年こそ見事就職戦線に君臨せんと……今年は満洲国方面の就職戦線に全力を傾注し……相当期待しうるようである」と。
2.昭和9年度の立命館大学
【写真2 昭和10年3月卒業アルバムより】
(1)昭和9年度の入学試験
昭和9年1月発行の「立命館大学入学案内」によると、以下のように昭和9年度の入学試験が案内された(4)。実施されるのは大学部、予科、専門学部の入学試験。
大学部は法律学科・経済学科・商学科の甲(昼間)、法律学科・経済学科の乙(夜間)で、試験日は4月10日、予科は第二部(2年制)の甲(昼間)乙(夜間)、第一部(3年制)昼間で試験日は第二部甲が4月5日、第二部乙と第一部が4月6日であった。専門学部は第一部(昼間)法律学科・経済学科・高等商業科、第二部(夜間)法律学科・経済学科・文学科で、試験日は第一部が4月3日、第二部が4月9日であった。
このうち、大学予科と、専門学部第一部(法律学科・経済学科・高等商業科)は九州帝国大学(工学部)で試験を実施している。
学費についても掲載されている。
大学部昼間部147円50銭、夜間部144円50銭。大学予科昼間部137円50銭、夜間部134円50銭。専門学部昼間部132円50銭、夜間部111円である。いずれも年額(3期分割)。
入学試験では、学業成績および人物考査を行い、特に人物の考査に重きを置いた。
この概要は、『立命館学誌』第168号および第169号の掲載広告「立命館学生生徒募集」のほか、昭和9年2月19日の京都日出新聞にも入学案内・学生募集の広告が掲載されている。
この年の入学試験は、大学部法律学科の志願者が354名(前年度は229名)、専門学部法律学科が274名(前年度は204名)と大きく増加した。また地方試験場(出張入試)が実施されたことである。前年度と次年度は実施した様子がない。昭和8年、昭和9年、昭和10年の受験者数を比べて昭和9年の九州地域の受験者が特に増加したとはみられない。
法律学科の志願者が大幅に増えたのは、京都帝国大学法学部の多数の教授・助教授が立命館大学に移ったことによると思われる。
なぜ九州帝国大学で実施したか不明であるが、講師として立命館大学に出講していた谷口吉彦経済学博士は京都帝国大学教授と九州帝国大学教授を兼務していた。
(2)昭和9年度の入学式
昭和9年度の入学式は、甲班予科と第一部専門学部が4月11日に、第二部専門学部が5月5日に挙行された。
入学者は、法経学部法律学科250名、経済学科67名、商学科14名、研究科4名。大学予科第一部(3年制)52名、第二部(2年制)158名。専門学部法律学科241名、経済学科88名、高等商業科130名、文学科43名、別科29名であった。
佐々木学長は、予科及び第一部専門学部の入学式において「其の第一歩に於て、自覚をもち立志の精神をもってもらいたい」と、また専門学部第二部においては、「学問を愛しなくてはならない。学問を愛するという事は社会科学の研究者に於て特に心がくる必要がある。また、本学に於て、一人修学修養するのではなく、他人と一緒にしていることを忘れてはならない」と、訓示・訓話をした。(『立命館学誌』第171号)
(3)夏期講座
この夏、夏期講座が行われた。佐々木学長は、大学の本来の任務は内において研究修養の実を上げることであるが、同時に社会的にも役立つ任務を尽くすことが望ましい、と言っている。法経講座の聴講者は中等学校・小学校の教員のみならず本学外の官私諸大学の学生が少なからず来て、東京・京都のみならず福岡などの学校からも来た。国語講座も盛況で高瀬部長が日本精神の勃興のせいであるとのことであったが、佐々木学長は京都精神として見たいと述べた。(『立命館学誌』第173号 )
法経科は8月1日から8日まで、聴講者600余名、国語科は1日から6日までで120名であった。法経科は夜間講座を含み佐々木惣一、谷口吉彦、恒藤恭、末川博など13講座が開かれ、終講日には中川総長、佐々木学長などと聴講者の談話会が開かれた。
また、国語科は、夜間を含め吉澤義則、清水泰、江馬務など12講座が開かれ、御所拝観、洛西名所遺跡見学、湖南名所遺跡見学も行われた。こちらも聴講生との茶話会が開かれた。
(『立命館学誌』第173号)
(4)様々な活動
夏期講座のほか、法律問題研究会、経済問題研究会や文学会の公開講演などが実施された(5)。
学生生徒の科外活動も活発であった。
体育会には、総務部・剣道部・柔道部・弓道部・馬術部・相撲部・射撃部・野球部・庭球部・蹴球部・陸上競技部・水泳部・端艇部・スキー部・卓球部・航空研究会があった。
体育会以外の学生団体は、立美会や映画研究会があった。
学校は卒業を迎える学生の就職にあたっては、専任教授から委員を選出し、随時斡旋の労をとった。
学内に医務局を設置し、学生生徒及び関係者の保健衛生に務めた。また附属図書館は、教職員・学生生徒はもとより、卒業生や一般の希望者の閲覧にも供した。
(5)昭和9年度の卒業式
昭和10年3月24日、第33回の卒業式が挙行された。当時の卒業式の様子を式次第から見てみよう。
卒業式次第:式場着席、御真影奉拝、明治天皇聖像奉拝(開扉、敬礼、教育勅語奉読、卒業証書授与、敬礼、閉扉)、賞品授与、大学長訓示、立命館総長訓辞、京都帝国大学総長祝辞、校友総代祝辞、卒業生答辞(大学部卒業生、専門学部卒業生)、休憩室に於いて記念図書贈呈並接待。(『立命館学誌』第180号)
佐々木学長は次のように訓示した。「……養性館、存心館、之は言うまでもなく我々の人物を練るの根本の目標である。…諸君は今や複雑なる実際社会の生活に入るのであるが、矢張学園生活に於て養はれたる純粋さを維持し、健実なる人物として、雑然たる社会現象に処し、以て真に価値ある社会の進歩を来さしめなくてはならない」(『立命館学誌』第181号)
【写真3 昭和10年3月、佐々木学長授与の卒業証書】
(6)昭和8年度から昭和10年度の学生・生徒の状況
3.昭和10年度の立命館大学
【写真4 昭和11年卒業アルバムより】
(1)創立35周年記念事業
1)諸事業
昭和10(1935)年は、前身の京都法政学校を明治33(1900)年に創立して35周年を迎えた。創立者中川総長の古稀祝賀記念と合わせ、盛大な記念事業を行った。
教育面では専門学部文学科に歴史地理学科を設置した。
学術面では、「国宝 御堂関白記」の複製頒布、『美妙選集』上下を発行、また『立命館35周年記念論文集』法経編(28編)・文学編(20編)を発行した。これまで発行してきた立命館出版部による書籍は200点に及んだ。
施設面では、卒業生・教職員・縁故者が寄付を集め、中川会館を建設した。
2)記念式典
11月23日には、創立35周年祝賀式を挙行した。西園寺公望は、「明治の初めに於いて余が建設する立命館の名称と精神を継承する貴学がますます発展して国家の進運に貢献すること大なるべきことを祈る」と祝電を寄せた。
中川総長の式辞、織田名誉総長の祝辞に続いて、佐々木学長は次のように述べた。
「我学園の規模は大であってその過去の発展の跡の著しいことに驚く。現在大学の学生数は二千五百に近く、中学校・商業学校は千五百に近い。卒業生の数も四千に達しようとしている。これは中川総長を始めとした学園関係者の努力の賜物である。立命館学園は国家有用の人材を養成すること、社会各方面に奉仕の精神をもって活動する人材を養成することが使命である。この使命を遂げるには精神的努力とともにその施設を完備する必要がある。中川総長をたすけて学園関係者、学生生徒一致協力して奮励することを切望する。(要旨)」
(『立命館学誌』第186号)
同日夜、校友会は中川総長古稀祝賀会を開催し、「中川会館」の贈呈式を行った。
3)記念大運動会
翌24日、大学、中学・商業生徒で編成された全軍(禁衛隊)は、統監中川総長、副統監佐々木学長等を先頭に、自動車・サイドカー・トラック等に分乗して広小路校門から河原町通りに出て深草練兵場に向かった。午前は飛行機、高射砲、機関銃、小銃、煙幕などで数万の群集を魅了した。午後は高等飛行、高射砲射撃、馬術、砲兵教練、側車教練、杖術、槍術、自動車教練、野試合などを演じて人気を呼んだ。(『立命館学誌』第186号)
(2)昭和10年度の卒業式
昭和11年3月22日、第34回の卒業式が行われた。
佐々木学長は卒業生に対し「一昨年第32回の卒業式では他人を以て代ふ可からざる底の人物になれと述べた。昨年第33回の卒業式では、底力を養ふの必要、ということを説いた。今年は余裕のある心持を養うようにせられたい、そして反省を為す人となってもらいたい。とともに立命館人としての自覚を求むるものであります。(要約)」と訓示した。(『立命館学誌』第189号)
この年卒業したなかに、のちに立命館総長となった武藤守一(大学部甲班経済学科)、のち久保田鉄工(現・クボタ)社長・立命館校友会会長の廣慶太郎(大学部乙班経済学科)、昭和44年から5期20年にわたって神戸市長となった宮崎辰雄(専門学部二部法律学科)、東洋学者で立命館大学教授となった白川静(専門学部二部文学科)などがいる。
【写真5 昭和11年3月卒業アルバムより】
(3)佐々木学長の辞任と学園の元学長・理事長の逝去
昭和9年6月28日に佐々木学長の前任であった田島錦治名誉学長が、昭和10年9月14日には初代校長・学長を務めた富井政章が亡くなった。
この年6月、寄附行為を改正し、理事長職を新設し、池田繁太郎を初代理事長に選任した。ところが就任わずか1か月後の10月27日、病気のため逝去した。池田は第3期の卒業生で弁護士であったが、中川総長が嘱望し、学園運営の後継者として理事長に選任していた。
学園はこの間、草創期から興隆期の重職者を次々と失った。
昭和10年2月、貴族院において美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、国体明徴運動が全国的に展開された。天皇機関説は立憲主義に基づくものであったが、軍部を中心に否定され、天皇が統治権の絶対的主体であるとし、文部省や政府も国体明徴声明を出すに至った。
とりわけ天皇機関説にたつ憲法学者は排撃された。美濃部は不敬罪で告発され著書は発禁処分となった。京都帝国大学の渡辺宗太郎教授の4月からの講義は停止され、佐々木惣一は講師として神戸商科大学に出講していたが、5月にはその憲法講座を突如休講にされ、講師を解任されてしまった。
佐々木学長はこの状況下で、昭和11年3月、3年の任期を1年残し、学長を辞任した。
3月22日の卒業式を最後に辞職を決意したという。
25日に教授・助教授を招集し告別の挨拶を行った。立命館は佐々木学長にその貢献を深謝し名誉学長とした。
「国宝ともいわれる学殖と玲瓏珠の如きわれらが学長佐々木惣一博士は、卒業式が済んだあと、引退の旨を学校に伝えた。京大問題後、幾多の俊秀な少壮学者を引き連れて本学の教壇に立たれ、学長となられて学園の充実に努められ、京都の立命館大学は日本の立命館大学としてその輝かしさを謳われるに至った」(『立命館学誌』第189号)
後任の学長が決定するまで、名誉総長織田萬が学長事務取扱となった。織田は京都帝国大学で佐々木の師の一人であった。
4月15日には、大阪在住の昭和9・10・11年の卒業生など約50名が佐々木学長の送別会を開催している。
また、10月2日には、立命館の教え子が佐々木博士の彫像を完成し、贈呈式を行っている。博士の彫像はどこに行ったのであろうか。
おわりに
本稿では、昭和8年度から10年度の間の立命館大学について述べてきた。この時代、年表風にごく一部の事項を取り上げると次のようなことが起こった。
昭和7年3月 満洲国建国宣言
昭和8年3月 日本、国際連盟脱退
〃 4月~7月 京大事件
昭和9年6月 文部省、学生部を拡充し思想局設置
昭和10年2月 貴族院で美濃部達吉の天皇機関説攻撃(天皇機関説事件始まる)
〃 4月 文部省、国体明徴を訓令
〃 8月 政府、国体明徴を声明
当然こうした動向は、国家の「政策」として、大学やその教育にも及んだ。
大学令第一条は「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スへキモノトス」と規定していたし、この間の立命館大学の学則第一条は、「本大学ハ教育勅語ノ聖旨ヲ奉体シ国家有用ノ人材ヲ養成スルタメ法律経済及ヒ商業ニ関スル学術ノ理論及ヒ応用ヲ教授シ並ニ其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」であった。
資料
(1)『京大事件』七人共編 岩波書店 昭和8年11月
七人:佐々木惣一、末川博、瀧川幸辰、田村徳治、恒藤恭、宮本英雄、森口繁治
(2)『立命館学誌』第163号 昭和8年9月1日
以下本稿は、『立命館学誌』各号に多くをよっている。本文中で個別に挙げていない場合があるが、(6)以下の各号による。
(3)「佐々木惣一博士旧蔵資料」京都府立京都学・歴彩館所蔵
(4)「立命館大学入学案内・立命館大学職員表」昭和9年1月
(5)「学事年報調書 昭和9年度」京都府立京都学・歴彩館所蔵
(6)『立命館学誌』第164号 昭和8年10月1日
(7)『立命館学誌』第168号 昭和9年2月15日
(8)『立命館学誌』第169号 昭和9年3月15日
(9)『立命館学誌』第170号 昭和9年4月15日
(10)『立命館学誌』第171号 昭和9年5月15日
(11)『立命館学誌』第173号 昭和9年9月15日
(12)『立命館学誌』第180号 昭和10年4月15日
(13)『立命館学誌』第181号 昭和10年5月15日
(14)『立命館学誌』第186号 昭和10年12月15日
(15)『立命館学誌』第189号 昭和11年4月15日
参考資料
(1)松尾尊兌「瀧川事件以後―京都大学法学部再建問題」京都大学大学文書館研究紀要 2004年
(2)小野恵美子「父・岡康哉と京大事件」立命館百年史紀要第13号 2005年
(3)末次峯『追憶 末次仁小傳』昭和12年
2022年6月16日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2022.06.09
「資料保存の現場から」中川小十郎の旧邸 白雲荘の春
立命館創立者中川小十郎の旧邸「白雲荘」は、京都市上京区の閑静な住宅地にあります。周囲には、織田信長の墓所である阿弥陀寺や中川小十郎が長く仕えた西園寺公望ら西園寺家の菩提寺である西園寺(寺名)があります。
白雲荘は立命館が1954(昭和29)年2月に買収し校宅として活用され、1959(昭和34)年「白雲荘」と命名され校友、教職員、学生の福利厚生施設として使われてきました。その白雲荘も2007(平成19)年3月31日に閉室されましたが、現在も立命館が管理しています。
1 白雲荘とは
「白雲」は創立者中川小十郎の号であり、その号は明治時代の歌人天田愚庵(あまだぐあん)(注1)が詠んだ詩から中川小十郎自身が名付けた号のようです。その号名をとって、この中川小十郎の旧邸は「白雲荘」と名付けられました。白雲荘は1923(大正11)年頃に造られた数寄屋造りの京都では数少ない建造物です。約四百坪の敷地に本屋、座敷、茶室、会議室が庭園を囲むようにコの字型に配置され、特に茶室・松の間などに面皮(めんかわ)材の柱が使われており、数寄屋造の派手な装飾を排した無駄のない建物です。建坪は百坪少々ですが、残る敷地は虬園(きゅうえん)(注2)と名付けられた庭園となっています。この虬園には、桜をはじめ百日紅(さるすべり)の巨木、愚案和尚がくれた野梅(やばい)の老木(注3)、郷里の丹波(亀岡)から持ってきた山茱萸(さんしゅゆ)(注4)をはじめ多種多様な樹木が少なくありません。
春になると大きく育った桜の木が邸前の道路までいっぱいに花をさかせ、山茱萸の黄色い花も咲き、茶室にもなっている松の間で茶を嗜みながら風情を楽しむことができました。初夏になると庭の真ん中にある大きな百日紅(さるすべり)木に鮮やかな紅色の花を咲かせます。
この白雲荘の四季折々の風情は立命館とともに歩んできました。
現在白雲荘の門前(2020〈令和4〉年5月撮影)
白雲荘平面図(1979年12月1日現在)
2 閉室前々日(2007年3月30日)の出来事
その日、1本の電話に旧百年史編纂室(以下、編纂室)はざわつきました。その電話は、白雲荘の住み込み管理人さんからのものでした。
「明後日(2007年3月31日)で私たちは白雲荘の仕事を終えます。4月以降は、白雲荘は閉鎖され、解体されると聞いています。編纂室の皆さん、特にM先生(室長)、Iさん(次長)にはお世話になりました。それで最後に電話をさせていただきました。みなさん、本当にお世話になりました。」
編纂室全員が誰も知らずに事が進んでいることに驚きました。急遽、編纂室会議を開き、取り敢えず正確な情報を収集することと、関係部局にお願いして白雲荘に飾ってある学宝や書画など重要な資料となるものを、編纂室に移管し調査・保存することを了承してもらいました。電話を受けた翌日、早速I次長と私(齋藤)は白雲荘に行って諸資料を引き上げる段取りに入りました。白雲荘そのものは、解体を免れて今日に至っています。
3 白雲荘の春 ―最後の日2007年3月31日―
その日は桜が満開な穏やかな春日和でした。前日の風で虬園(きゅうえん)いっぱいに桜の花びらが敷き詰められていました。この美しい風景を取り壊される前に記録として残したいと思い、素人ですがカメラを撮りました。これらの写真は、白雲荘が閉室される前日に筆者が撮影した写真です。
白雲荘の門前
白雲荘入口に咲く桜
白雲荘玄関と敷き詰められた桜
白雲荘玄関と敷き詰められた桜
会議室から見る庭の草木
松の間(茶室)と虬園
虬園から母屋を望む
虬園に敷き詰められた桜
虬園に敷き詰められた桜
虬園に敷き詰められた桜
虬園に敷き詰められた桜
虬園に敷き詰められた桜
虬園に敷き詰められた桜
4 大切にされてきた白雲荘
白雲荘は1923(大正11)年に建てられ、1954(昭和29)年以来、校友、教職員、学生の福利・厚生施設として使われてきました。その建物は、玄関脇の洋室を除いては「すべて数寄屋造りであるが、堅実な造作で、そこにはいささかの気負いや、てらいなどない。」(注5)立派ではあるが、庶民的な気負いのない建物と評価されてきました。白雲荘は、中川小十郎の人柄を感じさせる建物です。
2022年6月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤重
<注釈>
(注1)天田愚庵(あまだぐあん)1854(嘉永7)年―1904(明治37)年は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士、歌人。漢詩や和歌に優れ、俳人正岡子規、中川小十郎と交流があった。中川小十郎は、天田愚庵が京都桃山に転居するとその隣に自身の寓居を作り交流を深めました。
(注2)虬園(きゅうえん) 虬(きゅう)とは、龍の子で、角のある架空の動物である。龍は縁起のいい想像上の動物とされ、その庭園に虬園(きゅうえん)と名付けた。 虬が戯れ遊ぶ、そんな庭をイメージしたのかも知れません。
(注3)野梅(やばい)の老木 野生の梅の木、またその花をいう。
(注4)山茱萸(サンシュユ)は、ミズキ科ミズキ属の落葉小高木。 朝鮮半島原産で、日本では庭木として植栽される。春先に葉が出る前に鮮やかな黄色い花を咲かせる。秋にグミに似た赤い実をつける。 別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる
中川小十郎は、「曾祖父が家を再興した折に植えた木であり、私の家にとって記念すべき木」であり、「曾祖父から祖父の時代頃まで其の花を売って生計の一助ともした。(それで)わざわざ郷里の丹波から京都にもってきた」と話しています。
(注5)『先賢の住まい』前久夫著 京都新聞社発行 引用
2022.05.31
<懐かしの立命館>西園寺公望と北越戊辰戦争-付:濱崎直全「北越御陣中日記」について-
はじめに
慶応4(明治元)年正月3日、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見において交戦、戊辰戦争が勃発した。西園寺公望はその翌日山陰道鎮撫総督を命ぜられ、5日、軍勢を率いて山陰道に向かった。
その最初の宿陣が亀岡馬路村で、中川・人見両姓が西園寺の陣に参じたことにより、のちの西園寺公望と中川小十郎および立命館との関係がここに生まれた。山陰では大きな障害もなく各地を鎮撫し、最大の問題といわれた松江藩も鎮定して、3月27日に帰京した。
しかし戦火は東日本に拡がり、新政府は山陰から帰った西園寺公望を閏4月5日に東山道第二軍総督に、続いて同4月23日に北国鎮撫使に任じた。
更に翌24日には三等陸軍将に任じ、奥羽征討越後口出張を命じた。
この命により西園寺は山陰道に引き続き、北越に向けて出陣することとなった。公望満18歳のことである。
本稿は、北越戊辰戦争における西園寺公望の足跡をたどるものである。
1.京から越後直江津今町へ
慶応4年5月10日、西園寺公望は御所公家町の本邸を出陣。まず軍法局に出頭し、続いて御所に参内して天盃・太刀を賜わり暇を言上した。そして堺町御門から竹屋町・寺町通・三條通を東上した。
【堺町御門】
その陣容は、諸大夫濱崎和泉守、芦田大和守、御用人山口筑後介、小谷左京、近習人見彦太郎、中川城之助(のちの中川謙二郎)、御旗奉行中川秀之助らを始め、薩摩藩兵など100人に及ぼうとするものであった。
出陣初日は大津の大塚嘉右衛門本陣に宿陣し、翌11日には守山の宇野忠右衛門本陣に陣を張った。宇野本陣では大雨のため足止めとなり15日まで滞在した。
16日には守山湖岸赤野井の庄屋諏訪家(現在大庄屋諏訪家屋敷)に泊まり、翌日快晴となったため船にて琵琶湖を渡り、海津の寺(願慶寺)に宿泊した。18日に海津を発ち敦賀に着き、敦賀には20日まで滞陣した。
本陣は船町(現蓬莱町)の丸屋・荘司半助宅であった。荘司半助は敦賀の有力な町家で、船問屋を家業としていた。
当時敦賀にはイギリス船が開港を求めて来港しており、前年の慶応3年4月には公使パークスが敦賀視察に訪れていた。そのことが契機となったものか、西園寺公望はイギリス商船を千両で借り5月21日に敦賀港より出船、三国を経由し船中で1泊したのち、22日に直江津今町港に到着した。
2.高田・柏崎にて
(1) 直江津今町にて
今町港は関川河口にある。現在直江津港は関川の右岸にあるが、当時今町港は河口から左岸にかけて開けていた。河口には遠見番所があり、港には台場が備えられていた。日本海を往来する商船の寄港地であった。
【関川河口…今町港付近】
西園寺公望一行は港に近い福永弥兵衛本陣に北越最初の宿陣をした。現在の直江津郵便局の地である。新政府軍は直江津に上陸すると今町一帯に陣を張った。薩摩・長州兵を中心とした先発隊は閏4月16日には到着していたが、北陸道鎮撫総督高倉永祜(ながさち)と副総督四條隆(たか)平(とし)が越後再攻のため江戸から今町に到着したのは5月7日であった。続いて北陸道鎮撫使越後大総督西園寺公望が5月22日に宿泊、その後7月9日に会津征討越後口総督仁和寺宮嘉彰と参謀の壬生基(もと)修(なが)が北越に入り宿陣した。
今町新町の福永家は直江津の大肝煎で、新政府軍総督・副総督の本陣として使用された。慶応4年の今町屋敷絵図は新政府軍の宿陣に備えて部屋の間取りなども正確に描かれたものであるが、福永家だけは空白になっている。間取りを秘す特別な場所であったことが窺える。長州藩は同じ新町の信濃屋市右衛門宅に、薩摩藩は川端町の川合善吉宅に宿陣した。
西園寺の到着にあたっては先に高田に陣営を置いていた高倉・四條の使者が出迎え、5月19日の長岡城落城を注進した。
福永家に宿陣した西園寺公望一行は、翌日高田に向けて出発した。
(2) 高田にて
西園寺は5月23日高田に到着し、大手道と呉服町の四つ角の町年寄森又右衛門宅に陣を張った。この四つ角の町年寄は特別な家格で四つ角役と呼ばれていた。
高田藩は徳川譜代の名門で、越後最大の石高15万石を有した藩であった(越後では次いで新発田藩が10万石、長岡藩7万4千石、柏崎藩6万石であった)。しかし徳川慶喜が大政奉還をするも、戊辰戦争が激しくなる状況のなか、藩主榊原政(まさ)敬(たか)は譜代の名門の立場と勤王の立場の間で旧幕府側に付くか新政府側に付くか揺れていたが、4月26日の旧幕府軍古屋隊との川浦での戦いと、閏4月8日に東山道総督府軍監が列藩代表者会議で強硬な態度に出ると、勤王の立場を明確にして新政府軍の先鋒として戦うことを余儀なくされた。
新政府軍は閏4月17日、高倉永祜以下、参謀黒田了介、山縣狂介(のちの山縣有朋)が高田に入ると、寺町の極楽寺を会議所にして北越再攻の態勢を整えた。そして閏4月21日には長岡城への進攻を開始した。寺町は高田駅の西側にあり、現在も65ヵ寺がある。極楽寺は廃寺となっているが、5月29日に野戦病院となった来迎寺は今は静かな佇まいのなかにある。
【来迎寺】
これにより高田は新政府軍の北越における拠点としての役割を負うことになった。
西園寺は高田到着の翌日24日には高倉の本陣に行き、25日には高倉が西園寺の本陣を訪ねた。下旬は高田に滞陣、5月28日には諸大夫芦田大和守ら20人ほどを率いて上杉謙信の春日山城址を訪れた。武運を祈ったのであろうか。
上越の城は春日山城が廃城となったあと関川河口に福島城が築かれ、そののち高田城が築城されている。2014年は高田開府・高田城築城400年である。現在の高田城は三重櫓と石垣、堀を残しているが本丸はない。
【高田城】
5月29日には高倉永祜の本陣に行き、高倉、四條と今後の体制について協議した。そこで副総督四條隆平は軍務を西園寺と高倉に委ね、自らは民政に専念することにした。これにより西園寺は諸軍総督を布告した。
6月9日に西園寺は高倉本陣に移り、西園寺本陣には四條隆平が移った。高倉本陣は高田下小町の加賀屋与四郎宅で、加賀藩前田家の本陣が置かれていた。
6月29日には西園寺は来迎寺にある野戦病院を慰問して、医師や患者に見舞いの品を贈った。
総督仁和寺宮は7月10日に高田に着陣、森家に4日宿陣したのち14日柏崎に宿陣した。
西園寺公望は高田に滞陣中も、柏崎や関原に出陣するが、ここでは高田滞在中の6月28日に対面した東條琴臺(きんだい)との交流について記しておこう。
東條琴臺は高田藩の藩校修道館の筆頭教官を務めていた。もともと江戸の出身であるが、謹慎のため高田藩に預けられて、藩主榊原家に仕えた漢学者で勤王家であった。
東條琴臺との対面は小泉三申の『随筆西園寺公』で語られている。
「高田へ着いた時に、高倉(永祜)が前に行ってゐて、ある日高倉を訪ねると、此所に東條琴臺といふ者がゐる、逢てみないかと言ふから、高倉の所へ呼んで初めて逢ふと、山陰道の鎮撫をされた西園寺さんは、あなたの御尊父さまでありますかと聞くから、わたしが其西園寺だと答へたら、これは何とも恐れ入った事でありますと、遽かに容を改めたのがをかしかった……」
このとき西園寺は琴臺が編纂していた「明史稿」について話をし、また琴臺から「先哲叢談続編」を借りて読んでいる。その「先哲叢談続編」は、7月22日に四條隆平を通じて返却した。
琴臺は山陰道鎮撫総督が公望本人だと知って驚き、この若さで明史稿を知っていることに舌をまいた。公望満18歳、琴臺73歳のことであった。
戦地での東條琴臺との交流であったが、のちに琴臺の碑が建立されるにあたって、西園寺は琴臺の孫の下田歌子の依頼で篆額を揮毫している。「琴臺東條先生之碑」である。撰文は森鷗外で、高田城大手門跡前の榊神社境内に建っている。建碑は大正9年9月であった。
【琴臺東條先生之碑】
(3) 柏崎にて
6月13日、西園寺は高倉とともに極秘裏に柏崎に向けて出発した。途中柿崎に泊まり、柏崎には翌日14日に到着した。西園寺は柏崎では相沢彦兵衛宅を本陣とした。相沢本陣は北国街道沿いの大町にあった。相沢宅は丁子屋という問屋で、店の前に高札場があった。
新政府軍は6月15日には大黒村で旧幕府軍と戦争になり、加賀藩と高田藩によって勝利した。
西園寺は6月16日には柏崎を発ち関原・長岡に出陣するが、このときのことは後に記す。
6月19日には柏崎に滞陣したが、翌20日仁和寺宮は西園寺公望を越後口大参謀とし、高倉・四條は免職となった。そのことは西園寺から山縣・黒田にも伝えられた。
山縣は西園寺公について、「仁和寺宮が総督となって以降西園寺は参謀となり、同じ職務(参謀)ではあるが、これまで我々の総督であったうえ、我々とは身分の異なる人であるので、その後も総督として待遇した」と語っている。
西園寺は6月下旬は高田に滞陣したが、7月に入り再び柏崎に向かい2日に相沢本陣に着陣した。陣容は70人ほどであった。着陣の際には大風雨となり、夜に入って雷雨となった。柏崎滞陣ののち更に関原、長岡と転陣している。
柏崎では新政府軍の本営は妙行寺(みょうぎょうじ)に置かれた。妙行寺には現在も新政府軍が滞在した際に兵が記した落書がある。
「仁和寺宮御旗本兵隊三番分隊休所 慶応四辰年七月十五日ヨリ八月十一日迄御滞陣之事」
と本堂の柱に墨痕が残っている。
【妙行寺と落書(部分)】
柏崎は桑名藩の領地で、会津藩主松平容(かた)保(もり)の実弟松平定(さだ)敬(あき)が江戸を引き上げて3月30日に柏崎に入り、会津とともに奥羽北越における旧幕府軍の拠点となっていた。新政府軍は、柏崎を押え、長岡を攻略し、更に会津へと攻め入る戦略であった。旧幕府軍の勢力下にあった柏崎であったが、京都や各地と交流のあった大商人星野藤兵衛ら町人の一定層は勤王の思想をもち、新政府軍に好意的で財政的援助をしたことも新政府軍に有利に働いた。そうした状況もあり新政府軍は柏崎を勢力下に治めた。
松平定敬は柏崎を逃れ、奥羽・蝦夷地などを転々としたのち江戸に蟄居した(明治41年没)。
現地に伝わる西園寺公望の逸話がある。仁和寺宮に従って柏崎に来陣した西園寺の馬が何かに驚き、町の共同井戸に落ちたという(『柏崎郷土史話』)。
【柏崎陣屋跡】
3.長岡藩との戦い
そもそも北越戊辰戦争が熾烈になったのは、柏崎が旧幕府軍の桑名藩領地で藩主松平定敬が柏崎を防衛の拠点としたことや、長岡藩主牧野忠訓のもと筆頭家老河井継之助がとった「中立」政策にあった。
5月2日、新政府軍は小千谷に諸藩会議所を置いた。小千谷は商業の盛んな町で、ここでも新政府軍に協力的な商人が少なからずいた。その日河井は近くの慈眼寺において新政府軍軍監の岩村精一郎と交渉に臨んだ。小千谷談判である。河井は「中立」を訴えようとしたが、岩村にはそれまでの長岡藩の態度は反新政府以外の何物でもないと映っていて河井の言を受け入れず会談は決裂、新政府軍と長岡藩の戦闘が開始された。
【慈眼寺】
長岡藩には恭順派の藩士もいたが、河井はこれらの声を押し切り、摂田屋の光福寺に本陣を置き新政府軍に対抗した。新政府軍は5月19日早朝、本大島から梅雨のため濁流溢れる信濃川を渡り寺島(大手大橋の北付近)に上陸し長岡城下になだれ込んだ。上陸地近くの西福寺では新政府軍の奇襲に長岡藩士が鐘を突き鳴らし危急を知らせたが、城下に主力を欠いていた長岡藩は守り切れず、長岡の城は落ちた。鐘は「維新の暁鐘」と言われ今も西福寺境内にある。
【西福寺 維新の暁鐘】
西園寺はこの日、敦賀にあったが、21日に出港、5月22日直江津今町に着き、長岡城落城の報告を受けた。
しかし河井による反撃はすさまじく、戦闘は続いた。
西園寺公望は6月16日、新政府軍の本営柏崎を発ち、長岡西方の関原に着陣した。関原会議所では参謀山縣狂介と軍監岩村精一郎に会った。17日には西妙寺に負傷者を慰問した。18日にはこの間の戦闘に参じた諸藩に慰労の書簡を渡し、長岡に赴いて参謀黒田了介に会っている。翌19日には関原で再度山縣狂介に会った。この間、山縣、黒田らと長岡攻略の軍議をこらしたと思われる。
関原の新政府軍本陣近くには山縣が兵に登らせて長岡の様子を窺った物見の松があり、山縣が題額を揮毫した「物見松」の碑が建っている。案内板には伐採前の物見の松の写真がある。
【物見松碑、案内板】
7月に入ると新政府軍は関原を発ち、再び長岡に入った。この頃の西園寺の本陣は戦況により移っている。信濃川を挟んだ西岸では大島本町の庄屋長谷川家を本陣とした。現在の長生橋の南側である。大島本陣から撃った砲弾は信濃川を挟み1.5㎞ほど先の長岡藩の御用菓子商大和屋の蔵に届いたという。大和屋は日本三大銘菓の一つ「越乃雪」やパンを商っていたが、戊辰戦争の際には長岡藩の命で軍需品としてパンを製造し、また新政府軍の長州藩や加賀藩からもパンの注文を受けた店があったという。
【大島本陣跡、越乃雪】
信濃川を渡り、7月11日長岡城下に入り城のすぐ近くに会議所を置き、西園寺公望はその会議所に本陣を置いた。神田二ノ町の絹屋五兵衛宅で、城とは指呼の間にあった。この地(現在の神田2丁目)には「北越戊辰戦争西軍本陣跡、西園寺公望宿所」の碑が建っている。
薩長諸藩はそれぞれ別に本陣を置いたが、山縣・黒田・前原・吉井らの参謀はしばしば会議所に詰めた。
【新政府軍長岡本陣跡】
7月24日から25日にかけての深夜、突如長岡軍は長岡北方の八丁沖を渡り長岡に在った新政府軍を奇襲した。八丁沖は人が渡ることはとうていできないと考えられていた大湿地帯で、不意を食らった新政府軍側はあわてて撤退をした。
山縣狂介は参謀・長三州に西園寺を関原まで退却させるよう命じ、西園寺は長三州と濱崎直全を連れて野戦病院に行き傷病兵を避難させて、草生津の渡しから信濃川を渡り大島から関原、宮本へと退却した。
このとき西園寺が宮本から柏崎本営の壬生基修宛てに援軍を求めた7月25日の6半時(午後7時頃)に認めた書状が、長岡市大黒町の北越戊辰戦争伝承館に展示されている。
この戦いについて、西園寺は後に、敵軍で指揮をした一人千坂かとん斎に会って話をしたことがあり、その奇遇を笑ったと語っている。千坂かとん斎とは千坂高雅太郎左衛門のことで、米沢藩軍事総督を務め明治後期に貴族院議員となった人物である(大正元年没)。
山縣も後に、「富士川の水禽に驚きて敗走したる平家の軍勢をのみ笑ふべきに非ずと思ひたり」と語った。
小千谷に退却した山縣狂介率いる新政府軍は各方面から猛烈な反撃を開始し、一旦長岡藩に取り戻された長岡は7月29日、再び新政府軍の手に落ちた。
河井継之助はこの時の戦闘で負傷し、それがもとで会津に逃げる途中の八十里越えで落命した。8月16日のことであった。辞世に「八十里腰抜け武士の越す峠」と詠った八十里越えは、北越戊辰戦争伝承館から八丁沖越しに連なる山並みの中にある。
【伝承館から八十里越を望む】
8月に入ると新政府軍は長岡を完全に平定し、更に中越から下越へと軍を進めたのである。
4.見附・三條・新津・村松
8月1日、西園寺公望は関原を発ち大島に滞陣した。大島を発ち長岡に移ったのは5日であった。その間新政府軍は8月2日に三條を、4日には加茂と新津を占領した。また見附でも交戦し、村松城を落した。これらの戦いによって新政府軍は中越全域を支配することとなった。
西園寺は長岡には8日まで滞陣し、同日見附に向けて発ち、見附では松村陣屋を本陣とした。9日には見附を発ち三條に入り、村役人の渋谷友助宅を本陣とした。陣容は50人ほどであった。10日は三條に滞陣し、参謀山縣狂介の来訪を受けた。
12日には総督宮が三條御坊(東掛所)に来陣した。西園寺公望は13日に本法寺を訪れ、総督宮の本営として使えるか境内を見分した。14日は総督宮の本陣を訪ね、三條を発ち新津の町年寄方を本陣とした。この日は11人で止宿している。ここでも山縣狂介と会った。
15日に新津を発ち村松に入った。城内家老の家に本陣を置き、村松藩の反主流・勤王派に擁立された藩主堀(奥田)貞次郎を五泉会議所に呼び、村松藩勤王藩士や大庄屋から8月6日に提出されていた弁解書に対し、村松藩の存続を裁可した。
五泉では、8月4日に新政府軍が制圧して以降人夫の動員や物資の調達が相次ぎ11月までの間にそれらの経費が5,340両余りに及んだため、新政府に請求し、新発田の会計局から支払われている。新政府軍は会計局をもち、五泉以外でもこのように各地で戦費を支払っていたようで、直江津今町でも経費請求の証文がある。
新政府軍は8月半ばには越後で最後まで残った村上藩を攻撃し、越後全域を平定するに至った。
西園寺は8月16日に村松藩五泉を発ち、三條に戻った。三條では17日に総督仁和寺宮が来陣し、西園寺は18日、19日と仁和寺宮本陣を訪ねた。20日に仁和寺宮が出陣すると本陣を東掛所に移し、更に小須戸を訪れ、8月29日の朝には再び新津の町年寄方で賄いを受けた。
越後を軍事的に平定したこの時期、総督宮や参謀西園寺公望は各藩の恭順と民政の安定のため次々と各地を巡覧した。
5.会津若松城への進撃
幕末期、会津藩主松平容保は京都守護職の任にあった。しかし大政奉還・王政復古によって幕府が消滅、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると徳川慶喜が大坂城から海路江戸に逃れ、容保も弟の松平定敬らとともに慶喜に従った。江戸にあっても旧幕府側に利無く慶喜は閉居、容保は会津城に戻った。会津藩は奥羽越最大の23万石、徳川親藩であった。
新政府は慶喜を敵対行為第一等、容保・定敬を第二等の処分、会津に戻った容保は奥羽越列藩同盟の中心となり新政府軍と戦う決意を固めた。
新政府は正親町(おおぎまち)公(きん)菫(ただ)を奥羽追討総督に任じ、平潟口、白河口から会津若松を攻略する計画を立てていた。8月に入り参謀板垣退助率いる新政府軍は藩境母成峠を陥し、十六橋を占領、23日には若松城下まで進軍した。
一方越後を平定した新政府軍は続いて会津若松へと進攻し、日光口の新政府軍とともに越後街道を押えた。越後からの最初の部隊が若松城下に到着したのは9月10日であった。
西園寺公望は8月29日、三條を発陣し、その日は石間村に泊まった。翌9月1日に石間村を発ち、津川の赤岩屋傳吉宅に本陣を置いた。2日には津川を発ち、野澤に到着した。
3日野澤を発陣し天野村に至ると目指す若松城が束松峠から見えた。天野村には7日まで滞陣した。7日に天屋村を発ち、塔寺に着陣、本陣は重勝院に置いた。塔寺は若松城が見通せる地勢にあった。
新政府軍は白河口、平潟口、津川口、藤原口などの各方面から若松城を包囲し、総攻撃の時期を探っていたが、在陣参謀は、9月12日、いよいよ若松城攻撃の通達を出した。
9月13日は雨のため攻撃を順延した。山縣狂介が本陣に来て、また仁和寺宮が新発田の本営を出陣し津川に着いた。
9月14日、新政府軍は若松城に進撃し、二ノ丸まで軍を進めた。仁和寺宮は壬生基修を伴って15日に塔寺に着き、16日に西園寺は塔寺の仁和寺宮を訪れた。
会津各地で激しい戦いが続いたが、新政府軍の総攻撃により、藩主松平容保は20日から21日にかけてついに降伏を決意し、22日に降伏・開城、24日に城を明け渡した。
その日西園寺は荒尾駿河を伴い若松城の検分を行った。
会津若松での戦いについては後に西園寺自身が語っている。
「会津侯の帰順がかなって城が明け渡された後、白河口から入った正親町と陥落した会津城に入ったが、惨状を極めていた。」
正親町公菫と若松(会津)城に検分に入ったのは9月28日という。
【会津若松城】
また、「落城前、藩士か誰かの家に滞在していたが、飲んでいた井戸水が日に日に臭気が増してきたので調べてみると屍骸が5体ばかり出て来た。一週間ばかりその水を飲んでいた」と語っている。
その家はどこか定かではないが、西園寺公望は若松藩士の小出鉄之助宅に滞陣したと言われている。小出鉄之助は新政府軍に藩の処遇について陳情したことがあり、石塚観音(現在のJR西若松駅の近く)の裏にその住まいがあった。
会津の戦闘は壮絶を極めた。新政府軍の本営は融通寺に置かれていたが、寺に隣接して西軍墓地がある。
【会津若松新政府軍本営 融通寺】
新政府軍は会津を平定し、西園寺は10月1日に発陣、越後街道を進み塔寺に着いた。野尻、津川、山内、そして諏訪峠を越えて、10月5日に新発田に帰着した。
6.新発田と西園寺公望
(1)新発田藩の動向
新発田藩は京都に藩邸を置き、新政府の動向にも明るく、先々代の藩主溝口直諒は勤王家であった。
慶応4年2月15日、北陸道鎮撫総督高倉永祜は諸藩に対し勅書を発し、新政府軍に恭順し王事に勤労するよう求めた。勅書は藩から藩へ順にと手渡されたが、新発田藩は請書を渡すため家老溝口半兵衛と用人宮北郷左衛門が越中高岡まで赴き恭順の意を表した。しかし藩は奥羽越列藩同盟の強い圧力で一時同盟軍に加わるなど、新政府側と列藩同盟の間で激しく揺れ動いた。
7月に入り新政府軍は再度長岡を攻略し、同じ日、新発田藩の内通もあって同盟軍米沢藩の管理下にあった新潟港を攻略し、越後の戦いを優位に進めた。
8月1日、藩主溝口直正は柏崎の新政府軍本営に赴いて仁和寺宮に拝謁し帰順した。同月22日、新発田藩は仁和寺宮を新発田城に迎え、越後口本営は柏崎から新発田城に移った。
(2)新発田における西園寺公望
新発田における新政府軍仁和寺宮本営は新発田城二ノ丸に置かれ、西園寺は新発田城や用人宮北郷左衛門宅に宿陣した。
【新発田城】
10月5日、会津を平定し新発田に帰営した西園寺公望は総督仁和寺宮に戦争の終結を報告した。このとき新政府軍の要請でイギリス公使パークスから派遣され傷病兵の治療にあたっていた医師ウィリアム・ウィリスも総督に拝謁した。ウィリスは戦争における傷病兵の治療は新政府軍に留まらず、敵味方の区別なく旧幕府軍側の傷病者も治療すべきことを進言した。
西園寺公望と壬生基修は連名で仁和寺宮に代わってウィリスあてに書簡を出し、その治療活動に感謝し、更に両軍の傷病兵の治療を要望した。
ウィリスは治療活動のため会津にも滞在しており、藩主松平容保が江戸に護送される光景を目にし、藩の人々は会津侯が国を出て行くところを見ようともしない、と報告をしている。
10月7日には壬生基修と連名で越後府知事四條隆平あてに、打合せをしたいことがあるので参営願いたいとの書簡を出した。
10月9日、御親兵が会津口より新発田本営に引き上げると、総督仁和寺宮は慰労の宴を行い、その席には西園寺公望と壬生基修が連なった。更に10月13日、仁和寺宮は西園寺・壬生とともに北越戊辰戦争の戦死者慰霊の招魂祭を執行した。
こうして新政府軍は北越奥羽の平定を終え、10月15日、仁和寺宮は西園寺公望に兵備を委任し江戸に向けて出発、西園寺は引き続き新発田に留まることとなった。
10月下旬、村上藩家老の鳥居三十郎から村上藩内藤家の存続、捕虜の身柄受取の嘆願書が西園寺あてに提出された。しかしこの嘆願がどう措置されたかは明らかでない。鳥居は戊辰戦争終結の後、戦犯として処刑されるところを、翌年6月25日切腹した。
10月28日、西園寺公望は越後口総督府付大参謀を免ぜられ、新潟府知事に任命された。
しかし、西園寺が府知事の職を遂行した形跡は見当たらない。
府知事に任じられた前日の27日、公望は師伊藤輶斎にあてて、現在の民政の状況を悲憤し、仁和寺宮や壬生基修、久我通久らが東京に戻ったので、自分も来年早春には出立したいと新発田城中から書き送っていたのである。
11月12日には東京に帰った仁和寺宮から西園寺宛てに胡服と三具が贈られたが、11月20日には兄の徳大寺実則と思われる翠蘭先生あての書簡でも帰京を希望し、職務を解くようその周旋を依頼している。
明くる明治2年正月5日、西園寺公望は3ヵ月滞在した新発田を出発し、新潟と群馬の県境三国峠を越えて東京に出府し、ここに西園寺公望の北越戊辰戦争は終結した。
2022年5月31日 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
後記:本稿は個別に出典を記載したものを除きその多くは出典を記載しなかったが、別表の『西園寺公望と北越戊辰戦争:その文献・資料』を典拠とした。また各地の博物館・図書館等のご教示に拠っている。
各事項の月日については資料により相違がある場合があり、また人名等についても異同がある場合があるが、一々の注釈を避けた。掲載した写真はすべて筆者の撮影による。
なお、本稿は2014年に現地調査をし、まとめたものである。
付:濱崎直全『北越御陣中日記』について
はじめに―2冊の『北越御陣中日記』写本―
『北越御陣中日記』は、北越戊辰戦争に従軍した西園寺家家臣濱崎直全の陣中記録である。
西園寺公望は山陰道鎮撫総督に続き、慶應4/明治元(1868)年閏4月北国鎮撫使に任ぜられ、5月10日、北越に向けて発陣した。西園寺は5月22日直江津今町に着陣。以降長岡藩や会津藩と戦い、10月5日に新発田において仁和寺宮に戦争の終結を報告した。北越では山陰道とは異なり、時に激しい戦闘にも遭った。
『北越御陣中日記』は、そのうちの6月10日から7月23日までの1か月半にわたる北越戊辰戦争の記録である。
日記の原本は失われているが、実は異なる2冊の写本が現存する。1冊は立命館大学図書館西園寺文庫所蔵の写本で、もう1冊は新潟県長岡市立科学博物館所蔵の写本である。
本稿は、濱崎直全が記録した『北越御陣中日記』および2冊の写本について紹介する。
1.西園寺文庫所蔵の写本
立命館大学図書館の西園寺文庫に、中川小十郎寄贈の『北越御陣中日記』写本がある。写本は制作地・制作年も不明で中川小十郎がいつ寄贈したのかも記されていない。
しかし、日記の欄外に中川による3点の書き込みがある。
1点目は、6月11日条に「軍将当所著之砌御用手当四百金御拝借」と記されていることについて、中川が西園寺公に訊ね「四百金之コノコトハ公爵御記憶ナシ」と注記している。
2点目は、7月22日条で、四條隆(たか)平(とし)を通じて東條琴臺(きんだい)に書籍を返却するくだりで、その著作が『続先哲叢談』であることや、下田歌子が父親琴臺(実際は祖父)の顕彰碑の篆額の揮毫を西園寺に依頼、それを承諾したことなどの注記がされている。
もう1点は7月22日同日の条に「長太郎」とあるのは「長三洲」のことであると記している。
1点目の「公爵」は大正9(1920)年9月からで、また2点目の東條琴臺の碑が建立されたのも同じ大正9年9月であることから、写本の制作時期はともかく、中川小十郎がメモを書き入れたのは大正9年以降のことと考えられる。
2.長岡市立科学博物館所蔵の写本
『長岡郷土史』第29号(1992年)に掲載された吉澤俊夫氏の『北越御陣中日記』(長岡史談会蔵)の解説によると、この写本はもともと渡辺廉吉の孫渡辺廉太郎氏と渡辺武雄氏が長岡市立郷土資料館に寄託されたものとしている。長岡市立郷土資料館は現在長岡市立科学博物館の所管となっているところから、写本の現物は科学博物館で所蔵することとなったようだ。
渡辺廉吉は長岡藩藩士の息子で、15歳ごろ戊辰戦争に従軍した。のちに伊藤博文の知遇を得て法典の整備にあたった。1922年には貴族院議員になっている。
しかし、この写本も制作の経過が不明である。表紙に長岡史談会蔵となっておりまた長岡史談会の用箋に記録されているが、史談会そのものがいつから存在したのか不明であるという(注1)。
このように2冊の異なる写本の制作の経過はいずれも不明である。
(注1) 今泉省三『長岡の歴史』第5巻(1972年)によれば、結成は明治28年9月。
3.濱崎直全『北越御陣中日記』
それでは経緯は不明とはいえなぜ『北越御陣中日記』は残っているのか。
日記の原本すなわち濱崎直全が記した原本は第2次世界大戦までは長岡市の互尊文庫(長岡市立図書館)に残っていたようであるが、長岡市は不幸にして戦災にあい、日記も焼失したとのことである。
しかし、今日『北越御陣中日記』を知ることができるのは、日記の巻末に書かれた濱崎直全と長谷川三男三郎の記録による。
日記は陸軍参謀本部が日本戦史を編集するために提出を求め、明治22年11月24日に大島村本大島(現長岡市)の新潟県会議員であった長谷川三男三郎氏が新潟県知事篠崎五郎に謄本を提出したのである。
そしてその2年前の明治20年12月6日に濱崎直全自身が「附 北越陣中日記謄本後」で経過を記し、更に濱崎は明治22年6月1日に香頂六十翁の名で追記をしているのである。
西園寺公望は長岡城攻略の際に、本大島の長谷川家や長岡城下神田二ノ町の絹屋五兵衛宅を本陣とした。ところが7月24日から25日にかけての深夜、長岡城北方の八丁沖を渡ってきた長岡藩の奇襲により新政府軍は撤退を余儀なくされ、その時濱崎直全の日記も長谷川家に遺棄されたのである。
その日記が遺棄された20年後の明治20年、新潟市の新潟学校(現在の新潟大学教育学部の前身)で教師をしていた濱崎直全と県会議員であった長谷川三男三郎が出会った。こうして濱崎直全は自身の『北越御陣中日記』と再会し、謄本制作に関わったのである。こうした経過を経て写本も制作されることになったのであろう。
残った日記がなぜ6月10日から書かれているのかはわからない。しかし7月23日までとなっているのは、24日・25日の長岡藩の急襲を物語っている。以降濱崎直全の日記は記録されていない。
もう一点、長岡藩の急襲の状況を知る資料がある。西園寺公望の壬生基(もと)修(なが)あての書簡である。
7月25日、長岡城奪還を目指す長岡藩の急襲で宮本まで退却した西園寺公望は壬生基修あてに戦況を知らせ、関原を死守し再び進撃するとの覚悟の書簡を急送している。
この書簡は現在長岡市大黒町の北越戊辰戦争伝承館に展示されている。斜めに乱れた走り書きが戦況の急迫を物語っている。書簡はもともと池田亮作氏が長岡郷土資料館に寄託した文書(注2)で、氏のお宅は戊辰戦争の際に関原の新政府軍の本陣となった。書簡は戦況のなかでそのまま本陣に残されたものと思われる。壬生基修のもとには届いたのだろうか。
(注2) 立命館大学『西園寺公望傳』別巻1(P 258)に書簡の翻刻がある。
終わりに
本稿は日記が残された経緯と写本の制作について検討を試みたもので、日記の記事そのものには触れなかった。
『北越御陣中日記』は翻刻もあり、以下の2点の資料で読むことができる。
立命館大学図書館には永井登編『丹波山国隊誌』(1928年)が所蔵されており、その第5章が「北越御陣中日記」である。『丹波山国隊誌』は他の章に「奥羽征討越後口の役日誌」「西園寺家記」「丹波山国隊誌」などがあり、その章立てから中川小十郎が編纂に関わったと思われるが、奥付が無く出版者は不明である。出版年も章の記述からの推定である。
一方、長岡史談会蔵の『北越御陣中日記』は、先述のように吉澤俊夫氏が『長岡郷土史』第29号(1992年5月)に資料紹介として掲載した。冒頭の解説により写本の寄託(寄贈)経過を知ることができる。
氏は当時長岡郷土史研究会会長を務め、会は長岡市史編さん室内に置かれていた。
2冊の写本と2点の翻刻(活字版)の内容は同一である。本稿はそれらにより濱崎直全の『北越御陣中日記』が残された経緯を明らかにしようと試みたものである。
合わせて調査の過程で濱崎直全の新潟に於ける事蹟をたどることも試みたが、明治26年まで新潟市の新潟学校続いて北越学館で教師をしたのち、明治27年に十日町市の旧中条村の行余学舎・妻有学舎で教師をした以降足跡が途絶えている。
濱崎直全は西園寺家の家臣で、西園寺公望に仕え、私塾立命館の経営にも関わった。濱崎が新潟に居住することになったのは、「東洋自由新聞」廃刊事件により移住を余儀なくされたことによる。
濱崎直全は新潟移住後どのような歩みをおくったのであろうか。
写本の調査については、2017年2月15日に立命館大学図書館で、翌2月16日に長岡市立科学博物館で行った。
