立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2022.03.03

<懐かしの立命館>上賀茂グラウンドと神山学舎

はじめに

 立命館は昭和初期に、山城国一之宮である上賀茂神社の北、現在の京都産業大学のある場所に「大グラウンド」を開設し、戦前戦後を通じて体育施設として学生・生徒が利用しました。また戦時中から戦後にかけて神山学舎という中学・高等学校の校舎を開設しました。

 グラウンドを開設して94年、グラウンド施設を閉鎖して40年、今、上賀茂グラウンドと神山学舎の歴史を振り返ります。

 

1.戦前の上賀茂グラウンド

1)大正末期から昭和初期の立命館

立命館は、大正末期から昭和の初めにかけて、学園の施設整備事業を行いました。この事業は、昭和3年に行われる天皇の即位の儀である御大典記念事業でもありました。

 大正116月に大学令による大学として認可され、専任教員の充実や洋書の専門書を備えるなどの教学の拡充が求められ、また学舎や設備の整備も必要となってきたのです。

 広小路学舎がそれまでの木造の校舎から最初に鉄筋コンクリートの建物ができたのは立命館文庫の書庫・図書館で、養性館と命名されました。大正1512月の竣工でした。

 続いて翌昭和2年、法学部が法経学部に改組され、教室棟である盡心館が竣工しました。

更に昭和3年にも教室棟である存心館が完成し、広小路学舎の整備が実現しました。北大路学舎に移転していた立命館中学は、この年8月、立命館中学校と改称しています。

 しかし、中学・大学とも運動施設は他の私学に比べて極めて不十分なものでした。運動・体育も教育の一環であり、運動場の必要性が高まったのです。

 

2)立命館「大」グラウンド用地の取得

上賀茂Gと神山学舎-10

【写真1 上賀茂グラウンド位置図 『立命館学誌』第118号】


 昭和3年、洛北上賀茂に六千坪余りの候補地が浮上したのです。土地の取得や建設には大きな財政的問題がありましたが、事業費の多くを寄附で調達することとなりました。

 719日には立命館中学の生徒が一人10円の拠出を決議したのを始め、生徒・学生が一丸となり、中川小十郎館長・田島錦治学長(1)を先頭に教職員・校友も寄付活動に取り組みました。寄付額は、昭和3118日には総計で11,62491銭となっています(2)

 夏の暑い日、中学生と大学生の代表が一緒に候補地の見学に行っています。立命館中学校があった室町頭(北大路校舎)から北上し、御土居を左手に賀茂川の堤に出て、御園橋を渡って上賀茂神社の西側の鞍馬街道を上り、本山の国有林の方へ小径が続いている。別荘が一つあり、ため池がある一帯6,199坪が我々の目的地である。植物園のグラウンドより狭くはあるまい、と。途中、上賀茂神社の門前の茶店・二葉餅屋で休憩し、帰りに二葉餅を土産に買っています(3)

 運動場用地は、昭和39月に上賀茂本山の6,019坪を官幣大社賀茂別雷神社(上賀茂神社)から購入、続いて昭和44月に隣接の上賀茂上神原(かみじんばら)374坪、5月には隣接の国有林2,000余坪の貸し付けを受けました。同じく6月に上神原に114坪、昭和59月に58坪を取得しました。更に昭和146月に葵田(あおいでん)町の86坪、同年10月に上神原町の95坪を取得しています(4)

 

3)大運動場の建設

上賀茂Gと神山学舎2

【写真2 大グラウンドの建設】


昭和44月、いよいよ地ならし工事が始まりました。工事は伏見工兵隊の援助があり、418日から準備、23日から作業が開始されました。実に300名の軍隊が教育事業の援助に当たったのです。また上賀茂村の人々の協力もありました。

 24日には立命館禁衛隊の中学生・商業学校生を始め、大学の学生もまた工事に当たりました。今後の工事は全立命館の教職員・学生・生徒の勤労奉仕で進めることになり、512日には立命館中学・商業の生徒がスコップをふるいました。こうして9月下旬に第一期工事が完成の運びに至りました。

 第二期工事は、昭和5820日から始まり9月下旬に完成しました。野球場、蹴球場、陸上競技場の建設を行い、学園のスポーツ精神の涵養をはかり体育の実践活動が始められたのです。

 なお、昭和67月には、立命館の校歌ができました。運動場では以降、校歌も歌われたことでしょう。

 

4)運動会の開催

完成なった大運動場では、大運動会が開催されました。

 昭和41020日 立命館記念大運動会

 昭和51017日 立命館連合大運動会

 昭和6924日  中学・商業秋期大運動会・府下学童陸上競技大会

   高等小学校15校、尋常小学校31校を招待。

   同 1018日  立命館大学運動会

 昭和71017日 立命館大運動会

などです。運動会の開催については、今後、ホームページにて紹介されます。

 

2.神山学舎

 

昭和17年、グラウンドの地には立命館の中学校が開設されました。住所は上賀茂本山でしたが、北に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神が降臨したと伝わる秀峰神山(こうやま)301mが聳えていました。

 

1)立命館第二中学校

 立命館はそれまで、中学校、商業学校、夜間中学校がありましたが、中等学校への進学希望者が増加し、立命館中学校の志願者も増大したため、昭和16年、第二中学校を設置しました。設立の趣旨は禁衛隊主義による教育を普及するためでした(「立命館第二中学校設立認可申請書」)。当初、北大路を仮校舎として開校しましたが、生徒の増加で狭隘化し、校舎の一部を移築して上賀茂グラウンドに校舎を建て、昭和174月神山学舎が開設しました。市バス御園橋から徒歩25分、京福二軒茶屋駅から20分と、通学には不便な地ではありました。

 第二中学校の神山学舎開校に伴い、立命館中学校は立命館第一中学校となります。また附属学校の拡充をはかり、第三中学校、第四中学校も開設しました。

 昭和184月に第二中学校に赴任した野崎龍吉教諭(のちに立命館高等学校校長)は、次のように語っています。

 「大学のグランドと馬場であったこの8,000坪の地は、翠緑したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢から雉や鶉が飛び立ち、校庭に牝鹿が迷い込むこともある。今から考えると仙境ともいうべき閑静の地であった。……都塵を離れて少年のために健康な勉学の場をという、中川総長の意図にはピッタリの環境であった」(「神山学舎の思い出」(5))

しかし、戦況は年とともに激化し、国をあげての戦時体制が敷かれ、第二中学校もまた戦時教材が使われたり、学徒動員が実施されています。昭和19年、34年生は兵庫県相生市の播磨造船所に動員されました。また、12年生は農家の農作業の手伝いなど勤労奉仕に動員されました。

この時の状況については、史資料センターのホームページ・あの日あの時に「立命館第二中学校の学徒勤労動員(昭和19)」が掲載されています。学徒動員で生徒がいなくなると陸軍病院の病室に充てられました。

 昭和20年度の第1回卒業式は動員先の相生の播磨造船所で行われました。22年度に初めて神山学舎で卒業式が行われましたが、昭和23年度が第二中学校最後の卒業式となりました。

上賀茂Gと神山学舎3

【写真3 立命館第二中学校 昭和17年】

上賀茂Gと神山学舎7


2)神山中学校、神山高等学校

上賀茂Gと神山学舎4

【写真4 立命館神山中学校・立命館神山高等学校校章】


 昭和22年、学制改革により、立命館の新制中学校は立命館中学校、立命館神山中学校が設立されます。翌23年には立命館高等学校、第二中学校を改称した立命館神山高等学校、および立命館夜間高等学校が設立されました。

 神山中学校は、学制改革に基づく京都市の新制中学校の整備のなかで、京都府愛宕(おたぎ)郡鞍馬村、静市野村、岩倉村、八瀬村の4村の男女の中学生を委託生として受け入れ、5月に開校しました。(6)  

 神山高等学校は、翌234月に同じ神山学舎で開校します。

 立命館タイムスは、「環境に恵まれた理想の学園」と立命館神山中学・高等学校を紹介しています。(7)

 昭和23年の神山中学校は3学年で9学級、生徒数470名。神山高等学校は2学年で6学級、325名でした。そのうち中学の女子生徒は92名、教員は中学・高校合わせて校長ほか28名でした。

 昭和24年に愛宕郡が京都市に編入されると、八瀬村からの委託生は修学院中学に移りました。

 その後の生徒数については、立命館神山中学校・高等学校が作成した「生徒出席調」でわかります。昭和254月末現在では、中学校3学年6組で336名、高等学校3学年8組で374名です。昭和264月末現在では、中学校3学年6組で321名、高等学校3学年8組で709名です。

以下の表は、昭和2411月末現在のものと昭和2610月末現在の生徒数です。昭和24年から26年にかけては、大きな異動はありませんでした。

上賀茂Gと神山学舎8

 神山高等学校の第1回卒業式は昭和25(昭和24年度)で卒業生58名でした。

 昭和24年度の神山高等学校卒業生の卒業時の住所は、左京区22名、上京区24名、右京区3名、東山区1名、下京区4名、中京区3名、他1名でした。同年の神山中学校卒業生は、男子75名のうち左京区71名、上京区3名、中京区1名です。女子は41名ですが、すべて左京区でした。

 卒業時の住所は、昭和24年度立命館清和会発行による『卒業生名簿』によりましたが、資料により卒業生数が一致しないことはありますが、当時の学制のもとで、生徒がどこから通学していたかを知ることができます。

 しかし、京都市の学校整備に伴い生徒の委託契約が解除されることになると生徒数も大きく減少することになり、財政的にも困難な状況にあったため、立命館の中等教育全体を改革することとなり、神山中学校・神山高等学校は、昭和273月をもって廃止し、北大路学舎の立命館中学校・立命館高等学校に統合されました。

 閉校時の生徒については、神山中学校319名のうち、委託生308名は京都市へ、区外生11名と委託生のうち希望する生徒は立命館中学校へ、神山高等学校の生徒391名は立命館高等学校に移籍されました。


上賀茂Gと神山学舎9


3)京都市立本山中学校、洛北中学校

 昭和274月、神山学舎は京都市に貸与し京都市立本山中学校となりました。生徒数2877学級で、教員は校長を含めて12名で創立されたのです。これまで委託で受け入れていた左京区の生徒が上京区(現在は北区)の学舎に通学しました。しかし本山という上京区の山の名と地域名をとった学校の名称が左京区の生徒が通うのにふさわしくないということで、同年の1115日に洛北中学校と改称されました。

 洛北中学校の50周年記念誌である『劫初より:洛北中学校写真で綴る五十年史』には、神山学舎で学ぶ生徒たちの様子がうかがえます。

 校舎の老朽化もありましたが、左京区の生徒が学ぶ校舎は左京区にとの要望が強く、関係者は移転して新築の校舎で学ばせたいと京都市教育委員会に陳情し、岩倉に校舎を新築して移転することになりました。移転は昭和32615日のことです。

 当日は、市教委と立命館の理事も招かれ、校舎返還の感謝式が行われました。

 こうして神山学舎は5年余にわたる本山中学校・洛北中学校の学び舎としての使命を閉じます。


3.再び上賀茂グラウンド


1)再び上賀茂グラウンドが登場するのは、昭和348月のことでした。洛北中学校の移転により神山学舎はしばらく利用されない状況が続きました。

 課外活動の練習グラウンドに困窮していた体育会各クラブは、市内各所の外部施設に練習場をもっていたため使用料や交通費などの経済的負担もあいまって、大学に対し上賀茂神山グラウンド(当時は神山グラウンドとも言っています。)の使用を認めるよう検討をせまりました。12月には大学もその必要性を認め、再び大学・高中校共用のグラウンドとして使用することとし、整備に入りました。

 工事は翌35年の5月下旬には一期工事が完了して、6月から、各地で練習していたラグビー部、サッカー部、陸上競技部、ホッケー部、ハンドボール部、アメリカンフットボール部などの練習場として使用することとなりました。

施設面積16,880㎡のグラウンドに350mのトラック、12月には48名収容の合宿所が完成しました。

この年、本学は創立60周年を迎え、記念式典を挙行しています。記念事業で学生歌が募集され、「かがやける明日をのぞみて」が制定されました。

上賀茂Gと神山学舎5

【写真5 上賀茂グラウンド『体育会の歩み』昭和3511月より】


 昭和364月からは、広小路・衣笠・北大路と上賀茂グラウンドを結ぶスクールバスが運行を開始しました。

 秋には更に合宿所が増設されました。

 

2)その後のクラブ活動とグラウンドの閉鎖

昭和426月には弓道部の道場も完成し、また高校・中学のサッカー部、ホッケー部も使用しました。

 しかし、昭和42年には近くの柊野に総合グラウンドを設置し、クラブ活動は順次柊野に移転していきます。

 クラブ活動練習場の移転により、昭和574月、上賀茂グラウンドは隣接地の京都産業大学に売却され、弓道部が特別に9月まで使用して上賀茂グラウンドは引き渡されました。

 売却時の面積は21,065㎡、建物延べ面積676.22㎡でした。

 こうして昭和39月の用地取得から、昭和579月の引き渡しまで、54年にわたり学生・生徒の教育活動の場として使用してきた上賀茂グラウンド、神山学舎の地は幕を閉じました。

上賀茂Gと神山学舎6

【写真6 上賀茂グラウンド位置図、配置図 『学生生活』より】


 上賀茂グラウンド・神山の略史を終えるにあたり、昭和57(1982)年、まさにグラウンドを最後の年に利用していた元弓道部の学生(現在立命館大学職員)に、上賀茂グラウンドを語っていただきます。



 

上賀茂弓道場の思い出

 

 私は中学生のころから日本最古の武道、弓道には関心があり、いつかは習いたいという気持ちがあった。高校(大阪府立春日丘)には残念ながら弓道の部活動がなく、近くの大阪万博弓道場に見学に行って少しだけだが弓道とはどのようなものか確認をしていた記憶がある。

 高校卒業後、1年を経て1982(昭和57)年春に晴れて産業社会学部に入学した。受験前から、立命館大学の弓道部は、戦前立命館大学第二代学監を務められた田島錦治(弓道範士)先生の呼びかけで跡部定次郎法学部教授(弓道範士)を部長として小笠原流で創始し、京都大学や同志社大学、関西学院大学などに次ぐ長い歴史があり(1928(昭和3)年創部、広小路)、一部リーグ4連覇中の関西王者であることを知っていたので、少しだけ後付けの理由にはなるが、強く憧れた体育会弓道部にすぐに入部しようと考えていた。しかし、そんな思いも是非に及ばず、入学式から始まり、オリエンテーション、受講登録、受講、基礎演習クラスでの学習交流や懇親会などを楽しむうち、入部する間もなく4月はあっという間に過ぎ去った記憶がある。ゴールデンウィークを過ぎたある日のこと、同期で経済学部に入学した弓道経験者であった幼馴染み(府立東淀川)と一緒に、当時神山グラウンドにあった弓道場に入部のため見学に行くこととなった。聞くと、衣笠にはなく上賀茂の方にあるという。行き方も詳しくは知らないので、上賀茂神社まで市バスで行き、上賀茂神社の境内を見学しながら、柊野別れ、京都ゴルフ倶楽部のゴルフ場横の歩道をとおり、京都産業大学前に到着、京都産業大学正門横の弓道場へ行くこととなった。弓道場には末川博先生揮毫の弓道部の看板があり、正面玄関から入ると、当時西日本大学一の広さを誇ると言われた我が大学の弓道場の雄姿があった。弓道場はそのほとんどが、弓道を行う(行射する)ために敷き詰められた床板のスペースでしめられており、四面の壁などを除いては、屋根を支える柱などはないのだが、上賀茂道場には等間隔で鉄柱が設置されていた、当時の建築技術にもよるのだがそれほどに広く格式のある弓道場であった。上賀茂道場は、1967(昭和42)年に建設、弓道各流派および各大学の師範や部員、本学からは末川博総長にもご臨席いただいて道場開きがなされたという聞き伝えを記憶しているから、上賀茂道場が建設されて15年後に私が入部することとなった訳である。

 

 さて、(見学即)入部時には、日曜日と月曜日は休みと聞いていたので、さては週休二日か、と安堵していたが、日曜日は試合がなければ休み、ということをまもなく知ることとなる。平日は3時限目が終わるとすぐにバイクにまたがり衣笠を後にする。道場に着いたらすぐに掃除。広いので本当に大変である。午後5時くらいから午後730分までが正規の稽古で、そのあとは午後10時から11時ころまで自主稽古が行われる。正規の稽古が終わったら1回生は的場の横に陣取り翌日以降使用する的貼り作業に専念する。的は直径36センチ(一尺二寸=尺二と普段は言う)くらいあるほぼ真円の木枠でできており、近所の米屋を廻って無償でいただく米袋を一定の大きさに切り、一昼夜水で浸してくしゃくしゃにしたものを延ばしに延ばして木枠に貼り付け、的面を一部のたるみ、しわもなくパンパンに水糊をつかって貼り付けてから、星的という真ん中に黒い円の描かれた的紙を貼る、約15個の的を毎夜毎夜作成するということが稽古後の1回生15人の主な仕事であった。もちろん、的貼り場では、1回生同士がたわいもない会話をして楽しんでおったので、仕事が遅いと時々注意に来られる3回生幹部の鬼の形相での指導のお定まりの時間を除いては、特につらい思い出はなかった。的貼りに使う水は、私の記憶が正しければ、道場横に湧き出していた。豊富に湧き出す水を使って的張りをしていた。湧き水のそばには用水路のようなものがあり、暇を見つけてはその中に生息するザリガニを釣ってもいた。平日は稽古と的貼り(そしてザリガニ釣り)、毎週日曜日に予定されていた試合の準備、などを淡々とこなしていく、そんな日常であった。8月、1回生はほとんど休みといわれていたが、定期的な掃除や的貼りや、8月末の1週間の信州夏合宿などで、思えば盆休み以外は休んでいなかったようである。しかし、8月は開講期の様に定時で拘束されることはほとんどなく、上述のような1回生の役目を果たせばよかったという意味で自由な時間であった。このような夏休み期間中の自由な時間を使って弓道部の同僚と西側にあったホッケー部だったか陸上部だかのグラウンドに入って、キャッチボールやらなんやらの息抜き運動をした覚えがある。

 信州合宿が終わり、9月に入ると、かねてから聞いていた柊野グラウンドに建設された現弓道場に引っ越しする作業が始まった。掃除やら什器、トロフィーや各種資料などの移設は、大学で対応いただいたものも勿論あると思うが、部員がどこからか軽トラックを持ってきて何回かに分けて移動できるものは行って、9月の中旬(秋季リーグ戦開始3週間前位:当時)には現道場に移転が完了した。

 上賀茂弓道場を含め神山グラウンドは京都産業大学に売却されたと聞いた。弓道場は23年はしばらく引き続き京都産業大学の弓道部が使用されていて、その間、急速に競技力を高められていたので、やはり上賀茂弓道場には上賀茂神社のご利益があると話し合っていたものである。今からちょうど40年前、今は荘厳な図書館が建つその地、上賀茂弓道場での最後の年を知る私の、壬戌の年の青い記憶である。

 

K・K(大学事務職員)


 

 (注1) 田島錦治学長:明治33年~昭和2年京都帝国大学教授、初代経済学部長。京都法政学校以来講師を務める。財団法人立命館の監事・学監を務め、昭和2年4月から昭和8年11月まで立命館大学学長。名誉学長であった昭和9年6月逝去。弓道範士で、日本漕艇協会の会長も務めています。そして明治45年、日本が初めてオリンピックに出場したストックホルム大会の開会式に選手団の一員として参加しています。

(注2) 『値段の明治大正昭和風俗史』『続値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社(昭和56年)では、昭和5年の朝日新聞朝夕刊セットの1か月料金90銭、現在4,400円、東京大学の授業料(年額)が昭和4年に120円、現在535,800円。単純比較はできませんが、4,500倍から5,000倍として、10円は、45,000円から50,000円くらいでしょうか。

(注3) 二葉餅屋は御園橋東詰の上賀茂神社門前にありました。現在は南区の大石橋に移転し「二葉軒」となっています。

 (注4) 取得および面積は「財団法人立命館土地台帳」と「法務局旧土地台帳」によります。

 (注5) 「立命館学園広報」第21号(1972年5月) 野崎龍吉「神山学舎の思い出」

 (注6) 愛宕郡は、昭和24年4月1日に京都市に編入されます。また、神山学舎の所在地は、昭和30年の分区により上京区から北区となります。静市野村は静原・市野・野中の地域です。

 (注7) 「立命館タイムス」昭和23年5月13日

(注8) 『洛北、1982』(1982年)、『劫初より:洛北中学校写真で綴る五十年史』(2002年)

 (注9) 立命館学園新聞 昭和35年1月11日号、同5月10日号

(注10) 『体育会の歩み』(昭和35年)

(注11) 『体育会の歩み』第二集(昭和46年)

 

資料 (1) 立命館学誌117号(昭和3年9月15日)、118号(昭和3年10月15日)、

      121号(昭和4年2月)、124号(昭和4年5月)、125号(昭和4年6月)、

      128号(昭和4年11月)、135号(昭和5年9月)、137号(昭和5年11月)、

      147号(昭和6年11月)、148号(昭和6年12月)、156号(昭和7年11月)

(2)『立命館創立五十年史』昭和28年3月

   (3)『立命館百年史』通史一 1999年3月

   (4)『立命館百年史』通史二 2006年3月

   (5)『立命館百年史』資料編二 2007年7月

   (6)『八十年の歩み 立命館中学校・高等学校』 1985年9月

   (7) 『立命館百年史紀要』第8号(2000年3月) 「戦後初期の立命館中等教育について」

(8) 立命館史資料センターホームページ あの日あの時 西田俊博「立命館第二中

学校の学徒勤労動員(昭和19年)」2021年3月

  (9) 『立命館百年史紀要』第16号(2008年3月) 槙野廣造「二枚の門標」

  

 

2022年3月3日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2022.01.27

<学園史資料から>衣笠キャンパス校舎の泰山タイル

衣笠キャンパスと言えば煉瓦色の校舎が建ち並ぶ風景を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。実は校舎の外壁は煉瓦ではなくタイルなのです。よく見ると何棟かの校舎に、布目模様が付いた正方形のタイルが使われていることに気づきます。このタイルは京焼の製陶所が製造した「伝統的な焼きもの」で、竣工パンフレットには「泰山タイル」と記されています。今回は所蔵資料から衣笠キャンパスの校舎の移り変わりと外壁の意匠が煉瓦調タイルで統一されていく様子について探ります。


 

 

【以学館の外壁 泰山タイル 通し目地で整然と並べられている】

泰山タイル1




タイルファンを惹きつける泰山タイル

 

綿業会館 談話室タイル・タペストリー(1931年竣工)

泰山タイル2

 

泰山タイル3   

写真提供 一般社団法人日本綿業倶楽部


京都市京セラ美術館 西広間1階の床タイル(1933年竣工)

泰山タイル4 

 

泰山タイル5

                          写真撮影 202218


泰山タイルは、大量生産にはない手作りの風合いと釉薬による美しい色彩が特徴です。老舗喫茶店や公共建築など昭和初期からの建築物に使われており、京都府内でも建物の内外装にその姿を見ることができます。文献資料や先行研究の少なさにより謎が多いことからもタイルファンを魅了しています。創業者の池田泰山(1891―1950年)は京都市陶磁器試験場附属伝習所で基礎を学び、国立大阪工業試験所窯業部に勤めた後、愛知県常滑の久田工場で洋式建築陶器製造の率先者である久田吉之助よりテラコッタの技術を修得し、1917年東九条大石橋通り高瀬に泰山製陶所を設立しました。最初は清水焼の日用工芸品を製作していましたが、時代の流れによって次第に建築用装飾品の生産を本格化しました。1933年発行「窯業大観」には生産品として外壁・床、モザイク、テラコッタの記述があります。1933年に集成タイルの実用新案権を、翌年にモザイク用陶板の実用新案権を取得しています。泰山タイルが用いられている主な建築物では那須御用邸・甲子園ホテル・東京劇場・東京市政調査会館・東大病院・綿業会館などが挙げられます。1939年泰山製陶所は株式組織になり、1942年に2代目社長池田侊佑が入社しました。1962年発行の「京焼百年の歩み」には現在活躍しつつある製造者の中の一つとして企業情報が以下のように掲載されています。(注1)


1962年発行「京焼百年の歩み 付表」P106 区外の部(主要工場)抜粋

法人設立年

昭和十四年

社名

株式会社 泰山製陶所

代表者

池田侊佑

資本(資本)出資金額(払込)単位千円

1,000

事業所々在地(本店)

南区東九条河西町33

従業員数

38

主要製品名

建築用、内外装タイル

主要設備

トロンメル、土練機、フレット

コンプレッサ、乾燥炉、石炭窯二基



衣笠キャンパス校舎の変遷

1.木造から鉄筋コンクリート造へ ― 白壁の校舎 ― 

 

立命館大学は1981年の衣笠一拠点完成までの間、広小路学舎と衣笠学舎の二か所にキャンパスがありました。衣笠キャンパスは中川小十郎が1938(昭和13)年5月、上京区等持院北町に3,313坪(約1932㎡)の用地を購入し、北大路学舎にあった日満高等工科学校を移転して1939(昭和14)年11月に開校したことに始まります。(注2

戦前、戦中から引き継いで理工系学部の学舎であり、木造校舎が建ち並んでいました。1949(昭和24)年に理工学部が発足し1954(昭和29)年、衣笠キャンパス最初の鉄筋コンクリート造である3層白壁の3号館が建てられました。ついで1956(昭和31)年、3号館の西側に2号館が建てられました。その後19634月までに4号館(電気工学科)5号館(機械化学実験室)と鉄筋コンクリート造、白壁の校舎が建てられました。(注3

 

1939年頃 日満高等工科学校校舎 木造建築 現存せず】

泰山タイル6

 

1954年竣工 3号館 衣笠キャンパス最初の鉄筋コンクリート建築 2000年撤去】

泰山タイル7

 

1950年代 白壁の校舎、瓦屋根の校舎、瓦屋根の実験棟】

泰山タイル8


 

2.衣笠一拠点計画 ― 泰山タイル?が登場! ― 

 

1963(昭和38)年、施設設備改善や教育改革など大学の発展に計画性を与えることを目指して衣笠学舎を有効活用する為に衣笠一拠点志向が打ち出されました。(注4

1965(昭和40)年4月、当時では学園中最大の学舎として以学館が竣工し、広小路から移転した経済・経営両学部の学舎として利用されていました。コンクリート打ち放しと布目タイル張り(ドンゴロス・タイル)の外壁が印象的な校舎で、遠くから見ると煉瓦のように見えますが近づくと一枚一枚色が異なる手づくりのタイルであり、光の加減によって布目模様の印影が綺麗に見えます。(コンクリート打ち放しの外壁は20004月、改修工事の際に塗装されています。)設計は京都府内の公共建築の多くを手掛けた富家宏泰氏であり、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っていました。(注5)同じ時期に富家建築事務所が設計を手掛けた京都府上京警察署の外壁にも泰山タイルと思われる布目タイルが使われています。(注6

 

学園新聞には建設中の新校舎への期待が高まる様子が伺える以下の記述があります。

 

立命館学園新聞 昭和391011日 第981

「この新校舎は、経済、経営両学部の全授業と理工学部の一般教育、外国語教育の授業が行われる大・中・小の教室その他から構成され、地下は生活協同組合経営の食堂、喫茶室及び学生自治活動ボックスが設けられ、衣笠山を背景に、その近代的偉観と完備した設備をほこることとなろう。」

 

以学館から始まり、この頃から衣笠キャンパスでは布目タイルの外壁とコンクリート打ち放しの支柱を基調とした建物が建設されていきます。1965(昭和40)年9月に6号館(現在の恒心館)が、1966(昭和41)年に新1号館(現在の啓明館)と修学館(19721977年増改築)が竣工します。富家宏泰氏は新1号館の意匠について「一連の建物との調和を考え立命館衣笠学舎の完成を目ざして一歩前進したつもりです。」と述べられています。(注7

                                                               

19661967年「大学案内」より 以学館と理工学部実験室棟の瓦屋根】

泰山タイル9

 

1965年竣工 6号館竣工パンフレット表紙 現在の恒心館(2000年 改修)】

泰山タイル10

 

1966年竣工 新1号館竣工パンフレット表紙 現在の啓明館】

泰山タイル11

 

1966年竣工 修学館 アルバムの台紙一杯に引き伸ばされた泰山タイルの写真 242×296mm

泰山タイル12

 

1967年竣工旧図書館 建築中の外壁施工風景】

泰山タイル13

 

1965年竣工 京都府上京警察署(旧西陣警察署)布目タイル外壁】

泰山タイル14

                         写真撮影 202112月16日

 

3.衣笠一拠点完成 ― 受け継がれる校舎の意匠 ― 

 

1978(昭和53)年4月に竣工した学生会館の竣工パンフレットで、富家氏は泰山タイルについて末川博名誉総長の回想を以下のように述べられており、思い入れのある意匠であったことが伺えます。

 

「今やこの衣笠キャンパスの基本的な色調となった布目の薄紫のタイルは、伝統的な京都の焼物なのです。はじめて衣笠キャンパスにこのタイルを張り上げた時、私は末川先生から大変おほめの言葉を戴いたことをおぼえています。このたび竣工した学生会館にも、コンクリート打放しの柱型と、この布目のタイルを基調として採用しました。これから先もこのキャンパスに限り、このパターンで進められることを望んでいます。」(注8

 

197080年代にかけて広小路の学部は徐々に衣笠に移転し、1981(昭和56)年3月法学部の移転をもって衣笠キャンパス一拠点が完成しました。同年4月には時計塔を設けた存心館と第二体育館(2011年解体、2013年に京都衣笠体育館竣工)が竣工し、約7割の校舎の外壁が煉瓦調のタイルとなっていました。(注9

泰山タイル貼りの意匠は時代の変化に合わせて他のタイルに変わりましたが校舎の色調は受け継がれており現在までに建て替え、増改築、新校舎竣工などの変遷を経て周辺環境と調和した統一感のあるキャンパスとなっています。(注10

 

1981年度「大学案内」表紙 】
泰山タイル15

 

【衣笠キャンパス中央広場】

泰山タイル16


 

<竣工パンフレットに見る外壁についての記述抜粋 富家建築事務所設計>

以下は1965年から1978年までの竣工パンフレットにある外壁についての記述です。学生会館竣工以降、外壁についての記述はあまり見られなくなります。

 

以学館(1965年竣工)

コンクリート打ち放し一部泰山タイル貼及カラーサンド吹付/工事概要

 

1号館(1966年竣工、現在の啓明館)

75×75角窯変泰山タイル/工事概要

又此度の外装についても多くの学校側の皆様のご理解ある方針によって完成されたものと感謝しています。/設計概要

 

修学館(1966年竣工)

75×75角窯変泰山タイル/工事概要

 

旧図書館(1967年竣工、2016年解体)

殊に此の図書館は外装のタイルは勿論カラーアルミサッシやステンレスのドアー、ブロンズベンガラス、又玄関壁の大理石、床のゴムタイルと最上の材料を使用し大いに建築家としての腕をふるう事ができました。/設計概要

 

学而館(1970年竣工)

75×75角窯変泰山タイル貼/工事概要

 

志学館(1974年竣工)

立命館の建物の象徴として利用してきた外装タイルメーカーが、近代化の流れに押され、京都の手づくりのよさを残したメーカーとしての努力の炎を消すなど建設業界の発展の中でさびしい出来事でもありました。/設計概要

 

諒友館(1976年竣工)

75角窯変タイル貼/工事概要

 

学生会館(1978年竣工)

このたび竣工した学生会館にも、コンクリート打放しの柱型と、この布目のタイルを基調として採用しました。/工事概要


 

2022年1月27日 立命館 史資料センター 宮裡知代



(注1)「泰山タイルについて」参考文献

・藤岡幸二編『京焼百年の歩み』 財団法人 京都陶磁器協会 1962

・株式会社INAX日本のタイル工業史編集委員会『日本のタイル工業史』1991

・池田泰佑「陶芸家が鬼瓦を造形」博物館建築研究会編『昭和初期の博物館建築:東京博物館と東京帝室博物館』東海大学出版 2007年 p168-175 

・中村裕太「泰山製陶所の転用技術 -甲子園ホテルの集成タイル」京都精華大学紀要編集委員会『京都精華大学紀要43号』京都精華大学 2013年 p163-174 

・酒井一光『タイル建築探訪』株式会社青幻舎 2020

・石田潤一郎、前田尚武編著『展覧会オフィシャルブック モダン建築の京都100 Echelle-1

2021

・立命館大学アート・リサーチセンター「近代京都オーバーレイマップ」

 昭和2年頃京都市明細図(長谷川家版)、昭和26年頃京都市明細図(総合資料館版)

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/ModernKyoto/ 閲覧日:2022117

 

(注2)立命館史資料センターのHP記事参照

<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編

  https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=184

 

(注365年小史編纂委員会「理工学部の沿革」立命館大学理工学部『理工学部六十五年小史』1980p8-15 

 

(注4)立命館百年史編纂委員会『立命館百年史 資料二』学校法人立命館 2007年 p1452

 

(注5)・学校法人立命館『立命館大学 衣笠学舎以学館新築竣工記念』1965年 p3

・中川理「京都第二日赤病院本館―富家宏泰:もうひとつのモダニズムの実践」石田潤一郎監修『関西のモダニズム建築』株式会社 淡交社 2014年 p193-198   

 

(注6)富家建築事務所『富家建築事務所社報 一ノ木会誌 第4号』1966-1967年 

 

(注7)学校法人立命館『立命館大学 理工学部一號館 新築竣工記念』1966年 P4

 

(注8)学校法人立命館『立命館大学学生会館新築竣工記念』1978年 P2

 

(注9)久保田謙次「衣笠キャンパス略史―校地・校舎の変遷について-」立命館百年史編纂室

『立命館百年史紀要 第21号』立命館百年史編纂委員会 2013

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/common/file/publication/journal-21.pdf

 

(注10)キャンパスデザインについては立命館キャンパス計画室のHP記事参照 

   https://www.ritsumei.ac.jp/campuskeikaku/kic/chapter5-4/

2021.11.30

立命館のモニュメントを巡る(第5回)「立命館その由来の碑」と扁額「立命館由来記」

〈立命館 その由来の碑〉

 

モニュメント第5回-1

 衣笠キャンパスの正門を南に入った正面に碑が建っている。碑には次のように記されている。

 

 殀壽不貳修身以 

俟之所以立命也

立命館 その由来の碑

     今や立命館はゆるぎないものとなりつゝある この名は日本近代の幕あけとそ

    の建設に大きな役割を果たした西園寺公望が一八六九(明治二)年に同志を糾合し

    て邸内に開いた私塾にはじまる それは中国古代の革新思想を代表するひとりで

    あった孟子のことばから採られている

       殀壽貳わず身を修めて以て之を

俟つは命を立つる所以なり

生涯公望に師事した中川小十郎が一九〇〇(明治三三)年京都法政学校(後に大

)の創立後まもなく一九一三(大正二)年立命館大学としてその名称を受け継いだ

のであった わが立命館の第二世紀初頭にあたり父母教育後援会の貴重なお申出

を受けてこの石碑が建てられる

                  二〇〇一年 春 立命館総長 長田豊臣 記

 

 「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」は、今井凌雪(本名)潤一の揮毫。裏面に氏の略歴がある。立命館大学法文学部経済学科卒業(1949)、日本書芸院常務理事 日展理事

               建立 二〇〇一年 春

               贈  立命館大学父母教育後援会

                  立命館創始一三〇年・学園創立一〇〇周年・立命館

                  アジア太平洋大学開学を記念して

             初代会長 植村仁一

             二代会長 小川正義

             三代会長 垣内 剛

             四代会長 宮本郁夫

 

 「立命」の名は、『孟子』盡心章の「命を立つる所以なり」から採られた。「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」の読みと解釈については議論があり、読み方によって解釈も異なってくるという。「殀壽まどわず」「殀壽うたがわず」「殀壽たがわず」。大正212月の財団設立時の中川小十郎の演説、また大正106月号の『立命館学誌』にその読みと解釈があるが、『立命館百年史』通史一は「殀寿まどわず」と読み解釈している。

 

<立命館由来記>

 

モニュメント第5回-2

西園寺記念館に架けられているこの扁額は、「立命館由来記」とされている。大きさは縦45㎝、横100㎝であるが、実はもとの木刻大扁額がありこの倍の大きさである。

扁額には、大正21213日、本学が財団法人立命館として設立され、その発表式に寄せられた西園寺公望の祝辞を立命館総長中川小十郎が謹書したとある。中川小十郎が館長から総長となったのは昭和67月であるから、扁額は後年作製されたと思われる。

もとの木刻大扁額は「公撰文立命館大学々名由来の記」として、昭和16年の「西園寺公を偲ぶ展覧会」に出品されている。

財団法人の設立とともに、大学の名称が京都法政大学から立命館大学に、中学が清和中学校から立命館中学に改称され、文字通り西園寺公望の私塾立命館が継承されたのである。

その発表式に西園寺公望が祝辞を寄せ、その祝辞を西園寺公望の実弟で立命館の理事であった末弘威麿が代読した。

代読された祝辞は、『立命館学報』第1(大正32)に掲載されている。下記がその全文である。なお、扁額は細部でいくつか祝辞と異なるところがある。

 

祝辞

 明治の初年余私學を京都に開き名を命じて立命館と曰ひ學を講じ道を論じ以て世の進運に裨補せんことを期せり其後故ありて中絶し其名虚しく存せるのみ數年前丹波中川小十郎君京都法政大學を創むるに當り余に其匾額に題せんことを求む余仍りて立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし君の力に依りて其實の擧がるを喜ぶの意を表せり匾額は不幸祝融の災に罹りて滅せりと雖も校運は益隆昌に向ひ次で中學を附設し稍其體を成せり今次其組織を改め財團法人と爲すに及びて余が前きに書せし所の題字を采りて其名稱と爲せり余は是に於て乎益其名實倶に永く存するを喜ぶ思ふに今日の學は開物成務を以て要と爲すと雖も修身立命の工夫亦閑却すべからず必ず忠信の行ありて實用の才始めて其功を成すことを得自今斯校に遊ぶ者深く思を此に致さば其違はざるに庶幾からん法人立命館の成立に際し聊か其名稱の由来を叙し以て祝辞と爲す

               大正二年十二月十三日

                  正二位勲一等 侯爵 西園寺公望

 

 文中に「立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし」とあるのは、明治384月に立命館の名称を継承することを許諾し、寄贈した扁額のことである。この扁額は明治4112月に広小路学舎が火災となり焼失したため写真のみが『立命館学報』第1号に掲載されている。

 

モニュメント第5回-3


 立命館

 往年余興一校名曰立命館及游學泰西校廃名存頃者京都法政大學々員來請襲用其名余喜名

之得實乃書匾額以與之孟子曰殀壽不貳修身以俟之所以立命也盖學問之要在于此矣

                    明治三十八年四月

                      侯爵西園寺公望

 

 今回は「立命館」の名称の由来に関するモニュメントについて紹介した。

 

20211130日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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