立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2022.08.30

<懐かしの立命館>寄贈された末川名誉総長の扁額

Ⅰ.寄贈された末川博名誉総長の扁額は語る

末川扁額自動車部7
写真1 「世界元来大山川終不老」(注1)末川博  大鳥居満也 雅兄

1.こうして扁額は立命館に寄贈された。
 2022年6月某日 N総合企画部長から史資料センターオフィスの担当課長にメールが届きました。その内容は、「元総長川口清史先生から資料寄贈のご紹介です。資料を寄贈してくださる方は、川口先生の先輩(高知県土佐高校出身)にあたる永野元玄(ながのもとはる)様です。詳しいことは永野元玄様からお聞きください。」
 永野元玄さんは寄贈にいたる経緯を次のように語りました。
 「川口先生とは同窓生の誼(よしみ)のこともありまして、義父が末川博先生からいただいた『末川博先生御揮毫(きごう)扁額』(上記写真)を寄贈したいと思います。現物のご確認と授受の方法等につきましては、次女のOがご対応させて頂きたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。」
 Oさんは、「幼い頃から自宅の座敷に飾られていた、末川博様の扁額が御校に戻りますこと、大変嬉しく思っております。」と述べ、授受の方法など相談の結果、6月8日(水)午前10時から11時頃に自宅にて受理することにしました。
 6月8日(水)10時30分 当日は、永野元玄さんとOさんが待っていてくれました。早々「扁額」を確認の上、受理いたしました。

2.この扁額の来歴
 Oさんは、この扁額の来歴を次のように語ってくれました。
 この扁額は、「自動車部なのに部所有の自動車がない」という、本学自動車部の苦しい実情を聞くに及んで祖父(大鳥居満也氏)が所有していたフォードの自動車を寄贈させてもらったということです。当時を知る伯父に問い合わせたところ、自動車部に寄贈した車は、1951年型リンカーンコンチネンタルだそうです。祖父は馬車が苦手で、車が良いということで、リンカーンを手に入れたと聞いています。当時の自動車部に大鳥居(大鳥井?)という同姓の部員がいたので、同じ苗字に親しみを持ち寄贈した、とのことです。
 自動車部に贈ったのは1956(昭和31)年以降だと思います。そして先日の部誌の写真(写真2)の車と同じであることもわかりました。その事に感謝された末川博総長(当時)が、「お礼に」と、大鳥居満也さんに贈られた揮毫(きごう)です。


末川扁額自動車部2
写真2 自動車部の写真(『体育会の歩み』立命館大学体育会 昭和35年11月6日発行)
写真に写る4台の内、左から3台目が大鳥居さんから寄贈された車と思われます

末川扁額自動車部4
写真3 自動車部に贈った51型リンカーンコンチネンタルと大鳥居満也さん
(写真は永野家からお借りした写真を複写いたしました。)

末川扁額自動車部3
写真4 自動車部に贈った51型リンカーンコンチネンタル
(写真は永野家からお借りした写真を複写いたしました。)

 この温かいストーリーは、末川先生のお人柄が偲ばれるものでありました。史資料センターで保存している物には一つ一つに物語があります。それを掘り起こすのも立命館 史資料センターの大切な役割です。
 この扁額を受理後、史資料センター木立雅朗センター長名のお礼状をお送りし、大学としての謝意を表しました。
 Oさんからは、「センター長の感謝状は親族で大事にさせていただきます。」と連絡がありました。
 大学ができる精一杯の感謝のしるしです。


Ⅱ.歴史ある自動車部

1.航空研究会から自立独立した自動車部

 1931(昭和6)年(初夏)5月、航空研究会が創設された。この研究会は、平時は航空研究会として航空知識の普及向上に努め、ひとたび事あるときには禁衛航空隊を組織すべく犠牲的奉仕の精神を基調とする研究会でした。この研究会で1931(昭和6)年9月より自動車の練習を始めている。日常的には、輜重隊(しちょうたい)における自動車操縦練習に引き続き、専属練習用自動車を購入し、上賀茂グランドで練習していました(『学誌157号』 昭和7年12月1日)。ちなみに飛行機の方は日本学生航空連盟に加入し練習を始めています。


末川扁額自動車部5
写真5 当時(昭和15年)としてはめずらしい自動車部の活動の様子(史資料センター所蔵)

 航空研究会の使命の一つとして、自動車操縦法並びに交通法規研究、発動機構造、修理法、取扱法など研究・実践を行っていました。
 1935(昭和10)年9月 これまで航空研究会は、基礎時代の4年間は漸くすぎて正に飛躍時代に入って来た。されど各部の活躍に支障ないようにと、研究会を4部に分ちそれぞれ独立して活動することになりました。航空部、グライダー部、自動車部、研究部(学科、通信科、写真科、機関科) (航空研究会・たより『蛉縢』NO.183)


末川扁額自動車部6
写真6 等持院学舎(現在の衣笠キャンパス)における自動車部の練習風景(昭和15年)(史資料センター所蔵)


2.戦後、自動車部の復活

 1949(昭和24)年秋、戦争の烈しくなると共に一時中断されていた自動車部は、8~9名の工学部の学生により、同好会として発足されました。当初は車もなく理工学部の内燃機関教室の1938年型ダットサンを大学から借り受けていました。1951(昭和26)年、理工学部以外の法・経・文学部にも10名程の学生が集まって自動車部を結成しましたが、自動車はまだ高嶺の華で部員が集まって、自動車の話をしてはお別れ、という車のない自動車部でした。
 1955(昭和30)年体育会本部にも正式に加入を認められ立命館大学体育会自動車部として公認されました。この頃には、一般の自動車熱が高まると共に部員数も増加し、この年には部員100名を越え、近代スポーツの花形になりました。車両も、寄贈された51年型リンカーンコンチネンタル(注2)と62年型プリムス、ダッジ、ダッジウェ-ポンを購入し、洗車設備も完備し、修理用機具を設置し、破損した車は自分の手で修理することをモットーにして自分たちで車体検査も見事にパスさせた喜ばしい年でした。この年を機に自動車部は躍進していきました(『立命館大学体育会の歩み-自動車部史-』)。

2022年8月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤重


注釈

(注1)この扁額には、末川名誉総長の自筆で『「世界元来大山川終不老」末川博 大鳥居満也 雅兄』と書かれています。似た言葉が立命館大学ワンダーフォーゲル部に贈られ、その機関誌『漂運』に掲載されている。それによると末川先生自身は、次のようにその意味を解釈しています。
  山川終不老世界元来大
    雲のさすらいに、あてなどないけれど
    山にも川にも道があるように 
    われらのさすらいには遠くてとうとい道がある。
           末川博 「立命館大学ワンダーフォーゲル会機関誌『漂運』」

(注2) 部誌ではリンカーンコンチネンタルを購入した、となっているが、この車は大鳥居満也さんから寄贈されたものです。

2022.07.26

<懐かしの立命館>学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動 後編~学内協議会の誕生まで~


1)中高初の立候補公選制
 1948(昭和23)年11月30日、改正された規約に基づいて自治会の正副委員長選出の公聴会は、狭い運動場に中高全生徒約2000名が集まり、立候補者の立会演説を聞いて投票しました。1905(明治38)年の学校創立以来初めての歴史的な全校選挙でした。こうして第四代自治委員長に村上一夫が選出されました【写真6】。村上は、この時の高等学校新聞部局長であり、京都新制高校新聞連盟(注14)の委員長でもありました。

高校自治活動6
【写真6】 立命館タイムス 第9号 
1948年12月17日発行
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 また、この規約によって4つの委員会が設置されました(注15)。
 このうち自治活動の中心となったのが企画委員会でした。全校自治委員長・副委員長の立候補公選制を採用していくこととし、自治会の権限を明文化した規約内容は軍政部からも優れていると注視されました。
 また、学校が日常行っている生徒管理の下請け的な任務を行ったのが風紀委員会でした。戦後急速に流行した野球の影響で狭い校庭でバットや棒切れを振り回してはならない。屋上で遊んではならない(喫煙場所にもなるため)。登下校の通学で下駄禁止。昼食後や休憩時間に校外への外出禁止などで、教師と共に管理する側の補助を行いました。敗戦からの社会的混乱や風紀の乱れは、中高生の学園生活にも大きく影響していたようで、喫煙や賭博から新聞記事になるようなことまであったため、学校側も指導に手を焼いていたような状態でした。
 このほかに事務室会計の代行などを行う事務委員会、困窮する家計をたすけるためアルバイト斡旋や募金、バザーを行う厚生委員会がありました。

 しかし、この自治会規約に従うと実際の活動や運用のなかで中高生徒に応じた課題を取り上げることが困難になりました。そのため中学校と高等学校の自治会を分離することと、自治会と学友会の併合(この形が現在の生徒会組織)が議論されるようになり、早くも12月にはこの分離と併合が全校で承認され、1949(昭和24)年度から新制度でスタートすることになりました。生徒たちは、自分たちの学校生活のなかに、しっかりと自治の考え方を実現しようとしていたのでした。

2)末川総長辞任問題と高校生
 1948年12月、末川博総長の辞表提出は、学園全体に大きな波紋となって広がりました。1月になって学園をあげて留任と総長公選制で動くなか、判断が未定であった高等学校自治会では、会議を開き「総長公選の選挙権獲得」と「学園民主化へ努力する」ことを決議し、今小路覚瑞校長理事(注16)を通じてこの決議文を理事会に提出しました【写真7】。学園の理事会評議員連絡会から提示された総長公選に関する選挙規定では高校生徒代表が1名でしたが、立命館神山高等学校、立命館夜間高等学校を加えた高校生たちは、圧倒的多数の賛成により三校を通じて選挙人3人が適当であると理事会に申し入れました。その結果、申し入れ通りに選挙規定が修正されることになりました。高校生たちにとっての末川総長復帰運動は、総長を再認識すると共に、学園民主化には自分たち高校生も積極的に参加していかねばならないということを学んだのでした。

高校自治活動7
【写真7】立命館タイムス 第10号 
1949年3月5日発行
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3)立命館高等学校学内協議会の誕生
 立命館高等学校では、末川総長復帰への運動が盛り上がるなか、「学友会」と「自治会」を併合させる機構で「生徒会」が1949年4月に誕生しています(注17)。
 創刊から「立命館タイムス」はほぼ隔月で発行されていましたが、1949年の一年間には第10号(3月5日)と第11号(12月15日)の2号しか発行されず、9か月もの空白がありました。新聞部内で問題発生による遅れが原因のようで、第11号にはその遅れを謝罪する記事が掲載されています。この空白のため、併合の経過や名称変更の理由を詳しく知ることはできません。ただ、代議会議長塚田照夫が投稿している「立命館タイムス」第11号の記事には当時の立命館高等学校の実情が書かれています。それによれば、
 「4月から新しい構想の生徒会が出発した。国際国内情勢の窮迫を告げている今日、その新しい自治意識の集中的な表れとして本校生徒会が着々とその建設的努力を怠らず誠実に前進していることは嬉しい。学園を明るくしようとする動きが見えてきた。学内協議会が結成され、文化祭の立案など文化的にもあらゆる点で先生、生徒を一丸とした学校生活の充実への努力がなされている。このように全校的に活動が軌道にのってきた感がある。」(注18)

 「自治会」と「学友会」が併合するかたちで誕生した立命館高等学校生徒会の初代会長には、それまで学友会会長であった阿蘇登が就くこととなりました。その後の生徒会は、9月には学内協議会規約草案委員会、12月には生徒側カリキュラム委員会立ち上げ、翌年1月には高校教員会議に生徒代表で生徒会役員が出席するなど意欲的に活動を展開していたことが「立命館タイムス」に紹介されています。その中心であったのが副会長の五十棲隆で、1950(昭和25)年1月には初めての生徒会長選挙で五十棲が第二代生徒会長に当選しました。五十棲は弁論部に所属していて2年生の10月に全国弁論大会で優勝を果たしたほどの雄弁な人物でした(注19)。

 五十棲会長は、「立命館タイムス」で次のような呼びかけをしています。
 「この1,2年の生徒会活動の低調さの最大の原因は以前の運動が知的な批判の上に行動されていなかったことで、一般会員と生徒会役員の間の溝を埋め打開し、学校側と常に協議し、学校全体が一致団結することが大切だ」(注20)
 この五十棲会長発言の力となったのが、「立命館高等学校学内協議会」(略して学内協)でした。この学内協成立には次のような経過がありました。
 1949年1学期の生徒大会の決議から、生徒会では生徒の学校行政参加に伴って職員会議、教学委員会等全ての学校側会議への生徒の出席を学校側に申し込みました。
当時、副会長の五十棲が職員会議にも教学委員会にも生徒代表として出席したのですが、この後に今小路校長は、「生徒を常に出席させることはできないが、先生と生徒の代表が互いに学園の進歩発展に対する諸問題について協議する会議を設けた方がより効果があるだろう」と前向きに回答し、実現することになりました(注21)。
 規約案作成のための原案会議が学校側(上田勝彦教頭、柳田暹暎教諭)と生徒代表(五十棲、林慶一の副会長2名)の4名が出席して、議論を重ねられました。この協議会の目的は規約の第二条に次のようにと明示されています。
 「本会は教職員生徒が互いに協力して学園の民主的な運営を通じて学校生活を刷新し、進歩的建設的な校風を樹立するを目的とする。」
 こうして誕生した学内協は、1951(昭和26)年の立命館高等学校要覧に規約が掲載され、平和と民主主義を教学理念にうたう立命館高等学校として対外的にも大きくアピールしていくことになりました【写真8】。この時の「立命館タイムス」第12号(タブロイド版8頁)には「発行部数1万部を数え、全国の高等学校と京都府下の中小学校へ贈呈する」との記事が掲載されています。末川総長、今小路校長らの座談会を「全国に誇る自由の学園立命」との大見出しで紹介した特集記事を含め、生徒会も新聞局も積極的に変わる立命館を発信しようとしていました。

高校自治活動8
【写真8】 1951年度 立命館高等学校 学校要覧
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 生徒達が自ら戦後民主主義の開拓者となろうと意欲的に活動した自治活動の大きな結晶がこの学内協議会だともいえるでしょう。この学内協では授業、クラブ活動、施設など学校生活全般にわたる内容を議論していますが、なかでも特筆できる議題には、学費、教学改善、生徒用水洗トイレ改修、自転車置き場増設、制服自由化、修学旅行復活などがあり、生徒会運動の歴史を物語る課題を取り上げてきました【写真9】。

高校自治活動9
【写真9】 立命館タイムス 第86号 1962(昭和37)年3月7日発行
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 この「学内協議会」は、教職員と生徒が互いに協力し、学校の民主的運営を通じて学校生活をよりよく充実させるために、立命館高等学校生徒会活動の支柱として現在も後輩たちに引き継がれています。

2022年7月26日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


注14 京都軍政部CIEの後援を受けて1948年5月9日に結成。加盟は市内の高校で西陣、桂、中京、山城、桃山、堀川、桃山女、中京(女)、東山、大谷、立命館。
注15 「立命館タイムス」第8号 1948年10月23日発行
注16 国語教諭として1922年に立命館中学に勤め、戦前には第一、第二、第三、商業学校などの校長を務め、戦後も中学校・高等学校の校長を務めて退職。その後は大阪の学校法人学園長、大学長を長年務めた。
注17 自治会を生徒会と改称することになったのは、1949年に文部省が発表して生徒会 指導観の基調となった「新制中学校 新制高等学校 望ましい運営の指針」が出されてからである。次いで文部省は、1950年3月に「中学校・高等学校 管理の手引」を発表し、このなかで校友会(学友会)と生徒自治会との併存を解消し、生徒会にまとめられるべきであるとしている。
 1951年の立命館神山高等学校学校要覧には「本校における生徒会は旧生徒自治会を発展的に解消せしめたものであって、生徒自治活動を生徒自身の手で規律化し併せて生徒の福祉を図ることを目的としている」と書かれている。
注18 「立命館タイムス」第11号 1949年12月15日発行
 「躍進する自治活動」塚田代議会議長に聞く
注19 「立命館タイムス」第11号 
 東邦高等学校主催、中部日本新聞社などが後援の第七回全国高等学校優勝弁論大 会で全国から選出された74人の弁士が出場。「教育の危機と学生の覚悟」と題した演題で全国優勝を果たした。
注20 「立命館タイムス」第12号 1950年2月9日発行
注21 「立命館タイムス」第11号
 「学内協議会結成される」学園の進歩と発展の為に

2022.07.26

<懐かしの立命館>学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動 前篇~自治会誕生まで~

はじめに
 「高校新聞が生徒諸君の自治活動の一環としてその自主性と創造力を現わす場となっていることは、戦後派の諸君のよい面を示すものといえるであろう」
 1957(昭和32)年10月、当時の末川博総長は「立命館タイムス」発刊十周年を祝福した特別寄稿でこのように述べています(注1)。
 学校新聞「立命館タイムス」は、戦後の立命館高等学校自治活動の歩みを知るうえで欠かせない資料です。その中に、現在も立命館高等学校生徒会の活動で重要な役割を果たし続けている「学内協議会」についての記事があります。敗戦から三年ほどで戦後改革が行われている時期にあって、全国でも自治活動の先駆的性格の「学内協議会」誕生の経過を、「立命館タイムス」から追ってみました【写真1】。

高校自治活動1
【写真1】戦後初期自治活動の中心となった第2代生徒会役員たち
前列左が上田勝彦教頭、右が名村源治郎教諭
(1950年 高校卒業アルバム)

 「立命館タイムス」は1947(昭和22)年1月17日創刊から1976(昭和51)年12月15日の126号までを発行し続けました。完全に保存されていませんが、大部分は復刻版(注2)【写真2】で見ることができます。

高校自治活動2
【写真2】 立命館タイムス復刻版 表紙


その発行所は二年足らずの間に、
 中等部新聞部が第5号 1948(昭和23)年3月11日発行まで
 高等学校・中学校新聞部が第10号 1949(昭和24)年3月5日発行まで
 高等学校新聞部が第11号1949年12月15日発行)以降
と変遷しています。これだけでも、当時の学校事情の複雑さが想像されます。また、初期には「学友会」や「自治会」という語が使用されていて、しばらくすると「生徒会」と変っています。その理由は「立命館タイムス」に掲載されていませんが、当時の文部省からの指導によるもので、「生徒自治」という表現では、生徒が直接に学校経営に参加してもよいという印象をもつのでよろしくないというものでした。そのためか、立命館高等学校でもお手本のように生徒会へと変更していますが、その活動内容からは、学校(大人たち)からの管理はあっても、生徒(若者)たちが戦後の日本、民主主義国家を自分たちの手で創り出していこうとするエネルギーに限りない可能性をもっていたことがわかります。

1)自治活動はゼロからの出発
 戦後改革の一環として重要な課題であった教育の民主化は、連合国総司令部(GHQ)幕僚部の部局の一つである民間情報教育局(CIE)の主導のもとで強力に推進されることになりました。特に京都は、「静岡以西を管轄していた連合国第一軍団軍政部が、京都府を民主教育推進のモデル地区とする意向であったため、新学制発足に当たり、特にその圧力が強く加えられたという特殊事情」(注3)がありました。
 「立命館タイムス」には軍政部関係の人物らによる寄稿や講演が紹介されています。
   「立命館タイムス」の創刊を祝して  近畿地区軍政部(第1号) 
   聖書研究会講演  ランド大尉・ロイド神父 (第3号)
   特別寄稿「学校新聞」京都軍政部民間情報課長マックファ-ランド女史(第7号)

 教育改革では、自治活動も全国の小学校・中学校・高等学校で進められましたが、当時は全国的に戦前・戦中からの教師も、戦後に教職に就いた教師にも自治活動の体験も知識もないところで生徒集団を指導するような状況になっていました。立命館高等学校誕生前後でも同様であったことが、「立命館タイムス」に掲載された生徒記者の質問に対する平口正雄校長(注4)の回答から知ることができます。

 生徒「自治会が活発でないのは生徒たちが『進歩に対する熱』がないからだと言われたが、その熱を喚起させるにはどうすべきか。」
 校長「これから指令によって行われる三十時間にわたる先生に対する啓蒙運動が、その問題解決の根本となるだろう。」(注5)

 平口校長が「啓蒙運動」と述べていることは、1948年12月に府下の校長、自治会指導の教員、男女生徒役員らを集めて、自治講習会が開催されています。このなかで、ケーズ教育課長は「自治会は先生、生徒間の理解が必要で、この理解によって完全なものとなるのである。学校長は学校運営の最高の責任を負うと同時に、自治会の正しい育成に充分の理解を持たれたい」と述べています(注6)。初期は、学校長も教師たちも戦前からの一方的な上からの教育を排除して生徒と協力していくことが未知なる自治活動を展開するのだと理解したようです。このような理解によって後の「立命館高等学校学内協議会」が誕生しました。

2)新制立命館中学校高等学校と教育基本法
 敗戦から3か月も過ぎない時に開催された立命館理事会では、末川博を学長に迎えることと学園改革基本方針案を満場一致で決議しています(注7)。この基本方針「五」には次のような内容が決定されていました。(一部省略)

 五 学園ノ自存自治ヲ強化スルコト
 (イ) 教職員ト学生生徒トノ恩愛的結合スルコト
 (ハ) 学園ヲ中心トシテ教職員、卒業生、学生、生徒及父兄トノ愛校的結集ニ基ク学園ノ自存自治ノ強化ヲスルコト 

 このような改革基本方針に基いて立命館の中等教育再編は、他校に先んじて徹底した改革を進めなければならなかったのでした。新制立命館中学校では、公立中学校開校(京都府下では1947年5月5日に一斉に開校式を挙行)よりも1ヶ月早く、1947年4月に発足し、新しい「中学校学則」を発表しています【写真3】。その第一条で新憲法の基本原理を指標とした教育基本法の基に教育を進めるとしています(注8)。この時点ではまだ学園の教学理念である「平和と民主主義」が述べられていませんでした。

高校自治活動3
【写真3】 1947年中学校学則
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3)戦後初期の学友会と課外活動
 1947年4月、狭い北大路学舎で新旧学制の中学生が学ぶことになりました。同時に学芸部や運動部などの課外活動(クラブ活動)を共に進めるための組織として「学友会」が発足しました。戦後でも、依然としてこうした組織の代表は管理者である校長が務めることになっていました。自治活動の広がりによってこのような制度は全国的に改められるようになっていたため、このような改正は決して立命館だけに特筆されることではなかったのですが、生徒たちにとっては大改正に映ったようでした。「立命館タイムス」では
 「先に学友会は大改革され、完全に生徒の手による生徒の学友会となった」(注9)と書かれています。「学友会」の長が初めて生徒に代わり、自分たちで生徒の代表を決められるようになったことに大きな喜びを感じていたからでした。こうして1948年5月、自治委員会の中から選ばれたのが初代学友会会長阿蘇登でした【写真4】。

高校自治活動4
【写真4】 立命館タイムス 第7号 1948年7月18日発行
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 この当時の課外活動の形態は中高合同クラブのようなもので、上級生(旧制中学生)が下級生(新制中学生)を指導しながら活動していたようです。1947(昭和22)年度の初め、学芸部14、運動部10のクラブが活動していました(注10)。クラブの立ち上げには、興味関心のある生徒たちが集まり、顧問を引き受けてもらえるような先生を説得するという、生徒による一種の教師選択制のような形式で、自由な風潮が漂っていたといえます。この顧問依頼方式はその後も続きました。

4)自治会の誕生
 1947年4月、新旧併せての中等学校では「学友会」と同様に「自治会」も合同で組織されていて、各クラスから自治委員が選出され、9月には「自治会」幹部が構成された、と当時彼らの最上級生であった初代自治委員長山本一馬(一中5年生)は回顧しています(注11)。一年下の学年は、1944(昭和19)年に5年制で入学していましたが、4年生の1948年3月で中学校修了となりました。この学年には、4月に誕生する新制立命館高等学校2年生へ編入するか(この学年が立命館高等学校第1期卒業生)、旧制立命館大学予科へ進学するか、または就職するかの三つの選択肢がありました。

5)自治会規約の成立
 初期の合同自治会は、活動が低調で、規約も不十分なままで運営していたようですが、新制高等学校発足の1948年になって急速に規約大修正が進み(注12)、2学期に「立命館中学校・高等学校自治会規約」が成立しました(注13)【写真5】。生徒自身の自治活動に関する知識が少なかったことも規約づくりに時間を要した理由でした。自治委員長には山本から後に西原良次、林昭の二人が就いていましたが、いずれも全校生から選出する選挙形式ではありませんでした。

高校自治活動5
【写真5】 立命館タイムス 第8号 1948年10月23日発行
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 自治会規約では目的を、第二条で「生徒の自治活動を通じ、学園の団結と学校生活の向上を図り、良き社会人としての資質を育成すること」とし、第四条では「生徒自身の手によって生徒の福利を図る権利を有する。但し、学校運営並びに教育方針を妨げ、或いは個人の自由を侵すことは許されない」としています。注目すべきは第四条で、権利をもつが学校運営に関わるようなことは生徒の権利として認められていないとしている点です。これは、生徒自治が自由に学校運営へ参加できないと自ら制御しているようにもとれ、文部省が生徒自治という表現には懸念すべき点があるとしていたことと一致します。
 自治会組織では規約第五章学級、第六章学年、第七章全校の三段階に分け、第十七条で中高全生徒会員から委員長(高等学校最高学年から)副委員長(中高から各1名)を選出するとし、生徒大会は中高別と全校(合同)によって重要事項を決定していくとしています。ここにも戦後の民主主義の波は伝わっていました。翌年の1949年1月23日には衆議院議員選挙が行われることになっていて、男女普通選挙による結果が社会を大きく変えようとしている時でした。高校生たちが自治会役員選挙を直接投票で選出しようとした動きには、国政の揺れ動く雰囲気が影響していたことでしょう。


注1 「立命館タイムス」第63号 1957(昭和32)年10月7日発行
      末川博 回顧と展望「高校新聞十年の歩み」
注2 立命館中学校・高等学校創立100周年記念として復刻版を制作
注3 『戦後京都教育小史』
注4 平口は理科(生物)教諭で、終戦直後の10月に第一中学校へ勤務。1947年4月には旧第一中学校最後の校長となる。1948年4月には新制立命館高等学校初代校長となったが翌月に退職。男女共学等の問題解決のために京都府教育課長に転身し、その後、滋賀県庁で各部長職を務めて退職。1956年から立命館に再就職し、中学校校長や高等学校校長代理を務めて退職。
注5 「立命館タイムス」創刊号 1947年11月27日発行 
注6 「京都事務局月報」第21号 1949年1月5日発行
 「占領下の京都」立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミナール 文理閣
注7 理事会決議録 1945(昭和20)年11月6日開催
    「学園改革ノ基本方針」
注8 立命館中学校学則第一条
「本校は教育基本法に則り、小学校に於ける教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする」
注9 「立命館タイムス」第8号 1948年10月23日発行
注10 「立命館タイムス」第7号 1948年7月18日発行 
記事には学芸部数を15としているが誤植か。本文中の具体的部名は新聞部、文芸部、時事問題研究部、弁論部、軽音楽部、音楽鑑賞部、映画部、演劇研究部、美術部、英語研究部(聖書研究会)、物理部、化学部、生物研究部、書道部の14。運動部は野球部、庭球部、排球部(バレーボール)、卓球部、ラグビー部、陸上部、山岳部、相撲部、水泳部、スキー部。 
 学友会予算の主な収入は生徒からの会費(年間240円)入会金(200円)で総額545,400円。支出は学芸部122,400円、運動部285,600円。新聞部は別予算。 
注11 「立命館タイムス」第3号 1948年1月31日発行
山本は旧学制最後の一中卒業生。
注12 「立命館タイムス」第8号 
    生徒論説
「低調である原因を挙げてみると、第一に生徒の無関心主義から学校や生徒に対し頼りすぎ、第二に昼食時に会を開催するために授業に差し支える。(中略)第四に生徒間に積極的な者を軽蔑する風がある。しかし、高校1,2年の一部にこれに目覚め、二学期から漸次見るべき活動を見せ始めてきた」
注13 注9に同じ


<懐かしの立命館>学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動 後編~学内協議会の誕生まで~を読む


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