立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2022.09.13
<懐かしの立命館>西園寺公望揮毫の扁額・石碑 探訪記
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』は2021年3月に第3版を重ねた。3版は67件を掲載している。その後、各地の石碑と扁額を3件「発見」し、訪ねてきた。
<懐かしの立命館>【追録】『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その2 南君遺徳碑 (南源十郎遺徳碑)
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その3 石原尋常小学校
このほど更に4件を「発見」し、調査をすることとした。
1は神奈川県大磯町の「小野随鷗顕彰碑」、2は東京都瑞穂町の「明治丗七八年戦役紀念碑」、3は神奈川県川崎市の「青木正太郎翁之碑」、4は東京都千代田区の「帝国劇場扁額」である。
数日来の台風や戻り梅雨、また更に最近のこの暑さは屋外の調査には厳しいものがあった。
1. 小野随鷗顕彰碑(おのずいおうけんしょうひ)
《鴫立庵(しぎたつあん)》
「小野随鷗顕彰碑」は神奈川県大磯町の鴫立庵にある。もともと西園寺家から寄贈を受けた西園寺公望関係資料のなかに碑の「拓本[「小野懐之碑文の拓本」立命館 史資料センター/西園寺公望関係資料デジタルアーカイブ ADEAC(アデアック)]」があった。しばらく実物の石碑を探していたのだが、大磯町郷土資料館から実在しているとの情報をいただき、鴫立庵に確かめると現存していてどなたでも見ていただけるとのことであった。
7月8日の午後、JR大磯駅に降りた。駅から南におよそ5分、国道一号線(かつ旧東海道)の鴫立沢の交差点に至る。交差点の名称でもあるが、そこに鴫立沢があり、鴫立庵がある。
【大磯駅】 【鴫立庵】
【小野随鷗顕彰碑】
鴫立庵は江戸時代の初期、1664(寛文4)年に小田原の崇雪(そうせつ)が、西行の歌にちなむ昔の沢らしい面影を残しているこの地、鴫立沢に標石を建て石仏五智如来を運び西行寺を作ろうと草庵を結んだのが始まりという。鴫立庵の命名は、1695(元禄8)年、俳人の第一世庵主大淀三千風による。
西行は、平安末期にこのあたりで、「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠んだ。
鴫立庵は300年以上続く俳諧道場で、湘南発祥の地を示す史跡と言われる。俳諧道場としては、京都の落柿舎、滋賀の無名庵(大津・義仲寺)と並び日本三大俳諧道場のひとつとか。
さて、鴫立庵には87基の石碑・石造物がある。そのなかの一基である「小野随鷗顕彰碑」を案内していただいた。やや小高い地の中腹に建てられている。篆額が貴族院議員正二位勲一等侯爵西園寺公望揮毫「小野先生碣」、撰文東宮侍講正四位勲二等文学博士三島毅、女子高等師範学校講師岡田起作書、井龜泉刻である。総高217㎝、碑高191㎝、碑幅121㎝、碑厚17㎝。大きさは大磯町教育委員会の『石造物調査報告書(2)』(1990年)による。ちなみに石は小田原の早川石が使われているという。
碑は大磯小学校の初代校長を務めた随鷗小野懐之(おの・やすゆき)の顕彰碑である。建立年は不明であるが、明治41年1月逝去なので、その頃建立されたと思われる。
大磯小学校は、大磯駅から鴫立庵に向かう途中にある。
西園寺公望は、明治32年から大正5年頃まで大磯町の別邸「隣荘」に住んでいたことから、何らかの関係があったのではないか。
《明治記念大磯邸園》
鴫立沢から旧東海道(国道一号線)の松並木を西に歩くと「明治記念大磯邸園」に至る。
そもそも大磯は歴代の総理大臣が8人も別邸をもっていた地である。伊藤博文、山縣有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂である。
2018(平成30)年、国は明治元年から数え「明治150年」の記念事業として、立憲政治の確立に貢献した政治家の旧邸や庭園の保存・活用のための整備事業を始めた。明治期の立憲政治の原点を学ぶための邸園整備事業である。
【明治記念大磯邸園】 【陸奥宗光別邸】
最初に訪れたのは、旧大隈重信別邸と陸奥宗光別邸およびその庭園である。両別邸はその後旧古河別邸として使用されている。現在両別邸とも修復中であるが、庭園は一般見学ができる。当日は他に見学者がいなかったためか、丁寧なご案内をいただいた。案内の方から、この事業は安倍内閣のときに国の事業として始められたことを紹介された。
別邸の修復は、見学者にも修復の様子がわかるよう透明の工事パネルで仕切られている。広大な庭園には、風呂好きで知られていたという大隈重信の五右衛門風呂、紀州出身であった陸奥宗光のミカンなど柑橘系の果樹園、また、古河邸のバラ園などがある。
その西側に旧滄浪閣(そうろうかく・伊藤博文邸)が修復中で、その隣の西園寺公望別邸跡(のちに旧池田成彬邸)であるが、未公開である。伊藤博文別邸滄浪閣と西園寺公望邸隣荘跡地の間の細い道が相模湾こゆるぎの浜につながる。
【伊藤博文別邸 滄浪閣】
(隣荘については、立命館史資料センターHP<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編 2015年12月10日 参照)
滄浪閣前まで大磯駅から1㎞、日本橋から69㎞である。
近くには伊藤博文ゆかりの統監道がある。統監道はバス停から山側に大磯駅まで続くが、1905(明治38)年に伊藤博文が韓国統監府の初代統監になったことから呼ばれるようになった。また旧吉田茂邸には、滄浪閣から移した七賢堂があり、岩倉具視、三条実美、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂が祀られている。島崎藤村が晩年を過ごした邸もある。
大磯は政治家や経済人が別邸を持ち、また文人が住んだ町であった。
2. 明治丗七八年戦役紀念碑
7月9日、JRで川崎から立川・拝島を経由し、八高線箱根ヶ崎駅に至る。箱根ヶ崎駅は東京都瑞穂町にあるが、目指す石碑は瑞穂町二本松の元狭山村の地にある。狭山村は1958(昭和33)年に町村合併で分れ、1/3が埼玉県入間郡武蔵町(現入間市)に、2/3が東京都西多摩郡瑞穂町に編入されている。所在地はもうすぐ都・県境に近い。
碑は箱根ヶ崎駅から2.5㎞ほど先の「元狭山ふるさと思い出館」の敷地にある。北側は瑞穂第三小学校で、小道を挟んだ南側は元狭山神社である。車を降りて碑の場所を尋ねたら、「そりゃあ、神社のとこだ」と教えてくれた。ふるさと思い出館は、地域の企画に使用されたり、また瑞穂町の図書館として利用されている。その敷地に、といっても碑の周囲は草むらで、近づくのにいささか勇気がいる。
【元狭山ふるさと思い出館】
【明治丗七八年戦没紀年碑】
一角には、大正三年乃至九年戦役紀念碑、明治丗七八年戦役紀念碑、忠魂碑二基、無名碑、愛村之碑と六基の碑が建立されている。狭山地域の石碑を集め建てられているようだ。いずれも戦争に従軍した兵士の凱旋者や戦没者の碑である。
「明治丗七八年戦役紀念碑」は1906(明治39)年11月に元狭山村により建立された、日露戦争に従軍した兵士の碑である。表は侯爵西園寺公望の揮毫、裏面には凱旋兵士40名の名が刻まれている。
瑞穂町教育委員会の『瑞穂町小事典』(2003年)によれば、碑の所在地は瑞穂第三小学校校庭となっている。ふるさと思い出館の職員の方に聞くと、碑は小学校の校庭から移したとのこと。またもともと見た写真の森のような背景と違うのでその点も尋ねると、背景の場所は去年民家と工場が建ったということであった。徐々に周辺の環境も変化している。
帰りは数少ないバスに乗ることができ、瑞穂町の各地を回り箱根ヶ崎駅に到着した。その時は気が付かなかったのだが、拝島から箱根ヶ崎まで、線路の東側は南北4.5㎞、東西2.9㎞、7,136㎞²に及ぶ広大な横田基地である。
そういえば、箱根ヶ崎駅では、参議院選挙の期日前投票所が設けられていた。選挙に足を運ぶのも大変な状況なのであろう。
3. 青木正太郎翁之碑(あおきしょうたろうおうのひ)
8日朝と9日の夕方、川崎大師を訪ねた。
京急川崎駅から3駅、川崎大師駅で降りる。左手の大師表参道厄除門から商店街が続く。しばらくすると参道は右手に曲がり、またすぐ右に曲がり大師仲見世通りに入る。ここからも商店街が並びみやげもの屋、食べ物屋が参拝客で賑わっている。両参道合わせておよそ700m。
【川崎大師駅】
正面に大山門が聳える。その奥が大本堂、左手に八角五重塔、更に大本坊、中書院、信徒会館など、境内は広く、壮大な建物が並ぶ。川崎大師は、真言宗智山派の大本山の寺院で、正式名称は金剛山金乗院平間寺(こんごうさん・きんじょういん・へいけんじ)という。
開創は1128(大治3)年。900年近く前になる。平間兼乗という者が海中より弘法大師の像を引き上げ、それを兼乗のもとに立ち寄った高野山の尊賢上人が開基供養したのに始まるという。江戸時代中期には徳川将軍家が厄除参詣を行ったという(川崎市教育委員会「平間寺の文化財」)
【川崎大師大山門】 【川崎大師八角五重塔】
【青木正太郎翁之碑】
境内と参道で厄除・疫病退散の風鈴市が開催され、その音が涼やかであった。露店も立ち並んでいる。
境内は6つのエリアからなり46基の石碑・石造物が並ぶ。「青木正太郎翁之碑」は大本坊前にあり、高さ383㎝、幅154㎝が台座に乗っている。
碑の篆額「青木正太郎翁壽碑」を正二位大勲位公爵西園寺公望が揮毫。碑文は滑川達撰并書。1931(昭和6)年6月に建立された。青木正太郎は1854(安政元)年生まれ~1932(昭和7)年逝去なので、碑は没年の前年に建立されている。衆議院議員、東京米穀商品取引所理事長などを務め、1910(明治43)年に京浜電気鉄道(現在の京急)の社長となった。青木正太郎は多くの鉄道・電気事業に力を注いだ。京浜電気鉄道の前身「大師電気鉄道」の創立は明治31年で、初営業は、翌年の32年1月21日の初大師の日であったという。大師電気鉄道は、六郷橋から川崎大師へと2㎞を走った。京都電気鉄道、名古屋電気鉄道に次いで、日本で3番目の営業電車であった。なお、1906(明治39)年、西園寺内閣は鉄道国有法を制定した。
ほかに川崎の旧跡を訪ねようと、泊まった宿の近くの旧東海道を歩いたが、「東海道かわさき宿交流館」は時間外で閉まっており、宗三寺、一行寺など2、3の寺院のほかは、訪ねることができなかった。
4. 帝国劇場扁額
7月10日、東京都千代田区丸の内3丁目の帝国劇場を訪ねる。
東京メトロの有楽町駅から歩いて数分である。皇居の馬場先門に近い。
現在の帝国劇場は、1966(昭和41)年に新築開場している。劇場の入口に銘板がある。「小林一三翁の遺志を体し、此処に世界の演劇の発展のための一つの礎石として帝国劇場を新築し開場いたします」昭和41年9月20日、菊田一夫誌す、とある。帝国劇場は東宝株式会社の劇場である。
【帝国劇場】
【帝国劇場扁額】
その銘板の右側に西園寺公望の文になる扁額がある。
「本日帝国座ノ開劇ヲ報ゼンガタメ縉紳淑女ヲ招待セラルゝニ際シ余モマタ参同ヲ促サレタリト……余ハ此三者相合シテ帝国座ヲシテ清新崇高ナル趣味ヲ涵養スル源泉タラシメンコトヲ切望シ遥カニ数言ヲ寄セテ今日ノ盛会ヲ祝ス」明治44年3月4日 沼津ニ於テ
西園寺公望
この時西園寺公望は病気のため沼津で静養しており、開劇の式に列することができなかった。
この西園寺の祝辞は、渋沢栄一の明治44年3月15日の日記(『渋沢栄一伝記資料』第47巻)に全文が記されている。そして、右(西園寺の扁額の祝辞)ハ、帝国劇場玄関正面ノ壁面ニ在リ、55.4㎝×37.5㎝、となっている。
この扁額は、1966年に新築された帝国劇場にも掲げられている。
また、帝国劇場については、国立国会図書館の「写真の中の明治・大正」に掲載され、帝国劇場創立にあたっては、伊藤博文、渋沢栄一、川上音二郎、西園寺公望、林董らによって設立されたことが紹介されている。
そして帝劇は関東大震災の悲運、不況による経営の苦難、太平洋戦争中の閉館などを経て、1966年に建物を新装し今日に至っている。
「現在の帝劇の入り口には、帝劇設立に貢献した西園寺公望の言葉を刻んだ額が掲げられており、往時の帝劇をしのぶことができる」と結んでいる。
以上
なお、上記の各扁額・石碑については、別途『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その4に掲載する。
2022年9月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2022.08.30
<懐かしの立命館>寄贈された末川名誉総長の扁額
Ⅰ.寄贈された末川博名誉総長の扁額は語る
写真1 「世界元来大山川終不老」(注1)末川博 大鳥居満也 雅兄
1.こうして扁額は立命館に寄贈された。
2022年6月某日 N総合企画部長から史資料センターオフィスの担当課長にメールが届きました。その内容は、「元総長川口清史先生から資料寄贈のご紹介です。資料を寄贈してくださる方は、川口先生の先輩(高知県土佐高校出身)にあたる永野元玄(ながのもとはる)様です。詳しいことは永野元玄様からお聞きください。」
永野元玄さんは寄贈にいたる経緯を次のように語りました。
「川口先生とは同窓生の誼(よしみ)のこともありまして、義父が末川博先生からいただいた『末川博先生御揮毫(きごう)扁額』(上記写真)を寄贈したいと思います。現物のご確認と授受の方法等につきましては、次女のOがご対応させて頂きたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。」
Oさんは、「幼い頃から自宅の座敷に飾られていた、末川博様の扁額が御校に戻りますこと、大変嬉しく思っております。」と述べ、授受の方法など相談の結果、6月8日(水)午前10時から11時頃に自宅にて受理することにしました。
6月8日(水)10時30分 当日は、永野元玄さんとOさんが待っていてくれました。早々「扁額」を確認の上、受理いたしました。
2.この扁額の来歴
Oさんは、この扁額の来歴を次のように語ってくれました。
この扁額は、「自動車部なのに部所有の自動車がない」という、本学自動車部の苦しい実情を聞くに及んで祖父(大鳥居満也氏)が所有していたフォードの自動車を寄贈させてもらったということです。当時を知る伯父に問い合わせたところ、自動車部に寄贈した車は、1951年型リンカーンコンチネンタルだそうです。祖父は馬車が苦手で、車が良いということで、リンカーンを手に入れたと聞いています。当時の自動車部に大鳥居(大鳥井?)という同姓の部員がいたので、同じ苗字に親しみを持ち寄贈した、とのことです。
自動車部に贈ったのは1956(昭和31)年以降だと思います。そして先日の部誌の写真(写真2)の車と同じであることもわかりました。その事に感謝された末川博総長(当時)が、「お礼に」と、大鳥居満也さんに贈られた揮毫(きごう)です。
写真2 自動車部の写真(『体育会の歩み』立命館大学体育会 昭和35年11月6日発行)
写真に写る4台の内、左から3台目が大鳥居さんから寄贈された車と思われます
写真3 自動車部に贈った51型リンカーンコンチネンタルと大鳥居満也さん
(写真は永野家からお借りした写真を複写いたしました。)
写真4 自動車部に贈った51型リンカーンコンチネンタル
(写真は永野家からお借りした写真を複写いたしました。)
この温かいストーリーは、末川先生のお人柄が偲ばれるものでありました。史資料センターで保存している物には一つ一つに物語があります。それを掘り起こすのも立命館 史資料センターの大切な役割です。
この扁額を受理後、史資料センター木立雅朗センター長名のお礼状をお送りし、大学としての謝意を表しました。
Oさんからは、「センター長の感謝状は親族で大事にさせていただきます。」と連絡がありました。
大学ができる精一杯の感謝のしるしです。
Ⅱ.歴史ある自動車部
1.航空研究会から自立独立した自動車部
1931(昭和6)年(初夏)5月、航空研究会が創設された。この研究会は、平時は航空研究会として航空知識の普及向上に努め、ひとたび事あるときには禁衛航空隊を組織すべく犠牲的奉仕の精神を基調とする研究会でした。この研究会で1931(昭和6)年9月より自動車の練習を始めている。日常的には、輜重隊(しちょうたい)における自動車操縦練習に引き続き、専属練習用自動車を購入し、上賀茂グランドで練習していました(『学誌157号』 昭和7年12月1日)。ちなみに飛行機の方は日本学生航空連盟に加入し練習を始めています。
写真5 当時(昭和15年)としてはめずらしい自動車部の活動の様子(史資料センター所蔵)
航空研究会の使命の一つとして、自動車操縦法並びに交通法規研究、発動機構造、修理法、取扱法など研究・実践を行っていました。
1935(昭和10)年9月 これまで航空研究会は、基礎時代の4年間は漸くすぎて正に飛躍時代に入って来た。されど各部の活躍に支障ないようにと、研究会を4部に分ちそれぞれ独立して活動することになりました。航空部、グライダー部、自動車部、研究部(学科、通信科、写真科、機関科) (航空研究会・たより『蛉縢』NO.183)
写真6 等持院学舎(現在の衣笠キャンパス)における自動車部の練習風景(昭和15年)(史資料センター所蔵)
2.戦後、自動車部の復活
1949(昭和24)年秋、戦争の烈しくなると共に一時中断されていた自動車部は、8~9名の工学部の学生により、同好会として発足されました。当初は車もなく理工学部の内燃機関教室の1938年型ダットサンを大学から借り受けていました。1951(昭和26)年、理工学部以外の法・経・文学部にも10名程の学生が集まって自動車部を結成しましたが、自動車はまだ高嶺の華で部員が集まって、自動車の話をしてはお別れ、という車のない自動車部でした。
1955(昭和30)年体育会本部にも正式に加入を認められ立命館大学体育会自動車部として公認されました。この頃には、一般の自動車熱が高まると共に部員数も増加し、この年には部員100名を越え、近代スポーツの花形になりました。車両も、寄贈された51年型リンカーンコンチネンタル(注2)と62年型プリムス、ダッジ、ダッジウェ-ポンを購入し、洗車設備も完備し、修理用機具を設置し、破損した車は自分の手で修理することをモットーにして自分たちで車体検査も見事にパスさせた喜ばしい年でした。この年を機に自動車部は躍進していきました(『立命館大学体育会の歩み-自動車部史-』)。
2022年8月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤重
注釈
(注1)この扁額には、末川名誉総長の自筆で『「世界元来大山川終不老」末川博 大鳥居満也 雅兄』と書かれています。似た言葉が立命館大学ワンダーフォーゲル部に贈られ、その機関誌『漂運』に掲載されている。それによると末川先生自身は、次のようにその意味を解釈しています。
山川終不老世界元来大
雲のさすらいに、あてなどないけれど
山にも川にも道があるように
われらのさすらいには遠くてとうとい道がある。
末川博 「立命館大学ワンダーフォーゲル会機関誌『漂運』」
(注2) 部誌ではリンカーンコンチネンタルを購入した、となっているが、この車は大鳥居満也さんから寄贈されたものです。
2022.07.26
<懐かしの立命館>学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動 後編~学内協議会の誕生まで~
1948(昭和23)年11月30日、改正された規約に基づいて自治会の正副委員長選出の公聴会は、狭い運動場に中高全生徒約2000名が集まり、立候補者の立会演説を聞いて投票しました。1905(明治38)年の学校創立以来初めての歴史的な全校選挙でした。こうして第四代自治委員長に村上一夫が選出されました【写真6】。村上は、この時の高等学校新聞部局長であり、京都新制高校新聞連盟(注14)の委員長でもありました。
1948年12月17日発行
このうち自治活動の中心となったのが企画委員会でした。全校自治委員長・副委員長の立候補公選制を採用していくこととし、自治会の権限を明文化した規約内容は軍政部からも優れていると注視されました。
また、学校が日常行っている生徒管理の下請け的な任務を行ったのが風紀委員会でした。戦後急速に流行した野球の影響で狭い校庭でバットや棒切れを振り回してはならない。屋上で遊んではならない(喫煙場所にもなるため)。登下校の通学で下駄禁止。昼食後や休憩時間に校外への外出禁止などで、教師と共に管理する側の補助を行いました。敗戦からの社会的混乱や風紀の乱れは、中高生の学園生活にも大きく影響していたようで、喫煙や賭博から新聞記事になるようなことまであったため、学校側も指導に手を焼いていたような状態でした。
このほかに事務室会計の代行などを行う事務委員会、困窮する家計をたすけるためアルバイト斡旋や募金、バザーを行う厚生委員会がありました。
1948年12月、末川博総長の辞表提出は、学園全体に大きな波紋となって広がりました。1月になって学園をあげて留任と総長公選制で動くなか、判断が未定であった高等学校自治会では、会議を開き「総長公選の選挙権獲得」と「学園民主化へ努力する」ことを決議し、今小路覚瑞校長理事(注16)を通じてこの決議文を理事会に提出しました【写真7】。学園の理事会評議員連絡会から提示された総長公選に関する選挙規定では高校生徒代表が1名でしたが、立命館神山高等学校、立命館夜間高等学校を加えた高校生たちは、圧倒的多数の賛成により三校を通じて選挙人3人が適当であると理事会に申し入れました。その結果、申し入れ通りに選挙規定が修正されることになりました。高校生たちにとっての末川総長復帰運動は、総長を再認識すると共に、学園民主化には自分たち高校生も積極的に参加していかねばならないということを学んだのでした。
1949年3月5日発行
3)立命館高等学校学内協議会の誕生
立命館高等学校では、末川総長復帰への運動が盛り上がるなか、「学友会」と「自治会」を併合させる機構で「生徒会」が1949年4月に誕生しています(注17)。
創刊から「立命館タイムス」はほぼ隔月で発行されていましたが、1949年の一年間には第10号(3月5日)と第11号(12月15日)の2号しか発行されず、9か月もの空白がありました。新聞部内で問題発生による遅れが原因のようで、第11号にはその遅れを謝罪する記事が掲載されています。この空白のため、併合の経過や名称変更の理由を詳しく知ることはできません。ただ、代議会議長塚田照夫が投稿している「立命館タイムス」第11号の記事には当時の立命館高等学校の実情が書かれています。それによれば、
「4月から新しい構想の生徒会が出発した。国際国内情勢の窮迫を告げている今日、その新しい自治意識の集中的な表れとして本校生徒会が着々とその建設的努力を怠らず誠実に前進していることは嬉しい。学園を明るくしようとする動きが見えてきた。学内協議会が結成され、文化祭の立案など文化的にもあらゆる点で先生、生徒を一丸とした学校生活の充実への努力がなされている。このように全校的に活動が軌道にのってきた感がある。」(注18)
「この1,2年の生徒会活動の低調さの最大の原因は以前の運動が知的な批判の上に行動されていなかったことで、一般会員と生徒会役員の間の溝を埋め打開し、学校側と常に協議し、学校全体が一致団結することが大切だ」(注20)
この五十棲会長発言の力となったのが、「立命館高等学校学内協議会」(略して学内協)でした。この学内協成立には次のような経過がありました。
1949年1学期の生徒大会の決議から、生徒会では生徒の学校行政参加に伴って職員会議、教学委員会等全ての学校側会議への生徒の出席を学校側に申し込みました。
当時、副会長の五十棲が職員会議にも教学委員会にも生徒代表として出席したのですが、この後に今小路校長は、「生徒を常に出席させることはできないが、先生と生徒の代表が互いに学園の進歩発展に対する諸問題について協議する会議を設けた方がより効果があるだろう」と前向きに回答し、実現することになりました(注21)。
規約案作成のための原案会議が学校側(上田勝彦教頭、柳田暹暎教諭)と生徒代表(五十棲、林慶一の副会長2名)の4名が出席して、議論を重ねられました。この協議会の目的は規約の第二条に次のようにと明示されています。
「本会は教職員生徒が互いに協力して学園の民主的な運営を通じて学校生活を刷新し、進歩的建設的な校風を樹立するを目的とする。」
こうして誕生した学内協は、1951(昭和26)年の立命館高等学校要覧に規約が掲載され、平和と民主主義を教学理念にうたう立命館高等学校として対外的にも大きくアピールしていくことになりました【写真8】。この時の「立命館タイムス」第12号(タブロイド版8頁)には「発行部数1万部を数え、全国の高等学校と京都府下の中小学校へ贈呈する」との記事が掲載されています。末川総長、今小路校長らの座談会を「全国に誇る自由の学園立命」との大見出しで紹介した特集記事を含め、生徒会も新聞局も積極的に変わる立命館を発信しようとしていました。
注15 「立命館タイムス」第8号 1948年10月23日発行
注16 国語教諭として1922年に立命館中学に勤め、戦前には第一、第二、第三、商業学校などの校長を務め、戦後も中学校・高等学校の校長を務めて退職。その後は大阪の学校法人学園長、大学長を長年務めた。
注17 自治会を生徒会と改称することになったのは、1949年に文部省が発表して生徒会 指導観の基調となった「新制中学校 新制高等学校 望ましい運営の指針」が出されてからである。次いで文部省は、1950年3月に「中学校・高等学校 管理の手引」を発表し、このなかで校友会(学友会)と生徒自治会との併存を解消し、生徒会にまとめられるべきであるとしている。
1951年の立命館神山高等学校学校要覧には「本校における生徒会は旧生徒自治会を発展的に解消せしめたものであって、生徒自治活動を生徒自身の手で規律化し併せて生徒の福祉を図ることを目的としている」と書かれている。
注18 「立命館タイムス」第11号 1949年12月15日発行
「躍進する自治活動」塚田代議会議長に聞く
注19 「立命館タイムス」第11号
東邦高等学校主催、中部日本新聞社などが後援の第七回全国高等学校優勝弁論大 会で全国から選出された74人の弁士が出場。「教育の危機と学生の覚悟」と題した演題で全国優勝を果たした。
注20 「立命館タイムス」第12号 1950年2月9日発行
注21 「立命館タイムス」第11号
「学内協議会結成される」学園の進歩と発展の為に
