立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2021.06.30
立命館のモニュメントを巡る(第2回)「立命館草創の地」と「立命館学園発祥之地」
立命館のモニュメントを巡る(第1回)「創立者中川小十郎先生之像」と「中川先生記念碑」←第1回は、こちらをクリック。
第2回は、立命館大学の前身である京都法政学校が設置された「立命館草創の地」と「立命館学園発祥之地」の碑を訪ねます。
<立命館草創の地の碑>
丸太町通から鴨川と河原町通の間の東三本木通を北に上ると、右手に「立命館草創の地」の碑があります。住所でいうと京都市上京区中之町ですが、碑の設置されている場所は幕末の吉田屋跡といわれ、京都市の駒札も立っています。
この碑は、立命館創立100周年を記念して建立されました。
「碑」立命館草創の地
京都法政学校設立
1900年(明治33年)5月19日
「副碑」
立命館大学の前身京都法政学校は、一九〇〇年(明治三三年)五月一九日中川小十郎
によってこの地に創立された。
ここにあった当時の有名な旗亭清輝楼を仮校舎として、六月五日から夜間授業を開
始し、翌年の移転以後は約八〇年間にわたっていわゆる広小路学舎(現府立医大の西構
内)が中心になったが、鴨川畔東三本木のこの場所はまさに立命館草創の地といってよ
い。
中川小十郎は、「世界の中の一員」としての日本を常に意識していた近代日本の代
表的政治家西園寺公望の最初の文部大臣在任中、特命による唯一の大学書記官として
京都帝国大学(現京都大学)創立に尽瘁の傍ら、京都の地でのもうひとつの「自由と清
新」の学府づくりをめざしたのであった。
京都法政学校はその後、西園寺がすでに一八六九年に御所の邸内に開いた家塾“立命
館”の名称を継承して、立命館大学(旧制)へと発展した。「平和と民主主義」の教学理
念を加えた戦後の立命館のさらに大きな展開については多言を要しない。
なお、清輝楼は、明治維新の中心的な担い手のひとりの桂小五郎(木戸孝允)と幾松
(のちの木戸夫人)の逸話でよく知られる吉田屋のあとをうけ継いだものといわれ、そ
の後の変遷を経て一九九七年まで大和屋旅館として存続した。
二〇〇〇年三月二十三日
学校法人 立命館
理事長 川本八郎
「碑銘揮毫 川本八郎(理事長) 2000年3月23日」
川本理事長は、中川先生による創立を振り返り、本年100周年を迎えたこと、更に立命館が高等教育機関として歴史的、社会的役割を果たしてきていることを碑の除幕にあたって述べました。(ユニタース 2000年4月号)
立命館大学の前身、京都法政学校は今から121年前、この地に誕生しました。
中川小十郎は、京都帝国大学の井上密、織田萬、岡松参太郎などと創立をはかり仮校舎としてここに開校するに至ったのです。
東に鴨川、そして東山の峰々を望み、京都帝国大学にも近く、また東三本木は頼山陽や富岡鉄斎なども住んだ文人の町でもありました。江戸後期には花街としても知られていました。
碑の京都法政学校設立の年月日は認可日で、開校式は6月5日となりました。仮校舎となった清輝楼は元料亭でしたが、その3階の大広間で授業が始まりました。夕方5時から9時までの夜間4時間制で、法律科と政治科合わせて最初の入学者は305名、教員は京都帝国大学法科大学の教授・助教授、校長は東京帝国大学の富井政章でした。
実は設置の計画書(予算書)では、入学者を100名で予定していましたが、大きく上回る学生数となり、清輝楼での授業は1年半で移転することになります。
清輝楼はその後いくつかの変遷を経て、1997年まで大和屋旅館として続きました。なお吉田屋の場所については異説もあります。
<立命館学園発祥之地の碑>
仮校舎とはいえ入学者が予想を大きく超えて手狭となったため、移転が検討され、翌1901(明治34)年12月に京都市上京区広小路通寺町東入ル中御霊町に移転しました。
御所の清和院御門の東側で、412坪(約1,360㎡)、1棟3教室の校舎が開設されたのです。清輝楼からは歩いて7、8分ほどの場所です。
当時は河原町通よりも寺町通がメインの通りで、京都電気鉄道(京電)のちに京都市電となった出町線が1901(明治34)年から1924(大正13)年まで寺町通を走り、同年河原町線に付替えとなりました。
「碑」立命館学園発祥之地
右下に揮毫者のプレートが嵌めてあります。
「今井凌雪(潤一)
書家、日本書芸院副理事長、日展理事・審査
員、筑波大学名誉教授 1922年生、奈良市出
身、1949年立命館大学経済学部卒業
1992年5月19日」
「副碑」
一九〇〇年、中川小十郎により創立され東三本木丸太町上ル旧清輝楼の仮校舎で
授業を開始した京都法政学校は、翌年一二月三〇日、この地の新校舎に移転し、一九
〇五年には維新当時の西園寺公望の家塾であった立命館の名称を受け継いだ。同年に
は付属清和普通学校も開設され、翌年に立命館中学校と改称し、一九二二年に北大路
新町に移転するまでこの地にあった。
立命館は爾来この場所で校地を約七千坪に拡張し、校舎は延一万二千坪余におよん
だ。一九八一年三月に八十年にわたる広小路学舎の歴史を閉じるまで、十万余の有為
の若人がここに学び、真理と理想を追求した。
この地にあって、激動する世界と日本の二〇世紀とともに、立命館はその栄光と苦
難の道を歩んだ。特に第二次大戦に際し、かつてこの学舎に学んだ多くの同窓が戦場
におもむき、再び帰らなかったことは、痛恨にたえないところである。
戦後、立命館は平和と民主主義の教学理念をかかげて大いなる飛躍をとげ、広く世
界の学術研究機関と結んで、地球と日本の現代的課題にこたえる教育と研究を推進し
つつある。
今日の立命館の営為は、二〇世紀初頭以来この地で展開された幾多先人の業績の上
に成りたっている。
わが学園発祥の地を記念する所以である。
一九九二年五月一九日
学校法人立命館
理事長 西村清次
5月29日に行われた除幕式では、大南正瑛総長が、記念碑の建立にあたって、学園の礎を築いてこられた先人諸氏に一層の発展を誓いました。
記念碑は半円形の赤みかげ石(高さ1.6m、幅6m)で旧存心館の銅版画があり、また左右に「平和主義、民主主義、国際主義」と「現代化、共同化、総合化」を表す六本の石柱(高さ1.9m)が配されています。(UNITASU 1992年6月号)
立命館 史資料センターには設置計画の際の原画が数点保存されています。そのうち実際に設置されたデザインのもとになったと思われる原画を紹介します。建立された石碑と少し異なる点はありますが、広小路学舎発祥とともに石碑設置時の教学理念が込められたデザインです。
広小路学舎開設以降の設置学校については、少し説明を加えておきます。
三本木から移転した京都法政学校は、1903(明治36)年9月に京都法政専門学校に改称、翌1904(明治37)年9月、更に京都法政大学と改称されます。
そして1905(明治38)年9月に附属学校として清和普通学校が創設され、翌年4月清和中学校と改称されます。
京都法政大学・清和中学校は、1913(大正2)年12月、財団法人立命館が設立されるとともに、立命館大学・立命館中学と改称されました。
(このころの学校名は正式には「私立」が冠称されますが省略しました。)
1922(大正11)年6月、大学令による立命館大学(それまでは法制上は専門学校令による専門学校扱い)となり、学生数も増加したため、立命館中学は2年かけて北大路校舎に移ります。なお、立命館中学の校名が立命館中学校になるのは1928(昭和3)年8月です。
広小路学舎は大正末年から校舎の整備を始め、1928(昭和3)年には存心館・尽心館など鉄筋の校舎が整備されました。
戦後の1948(昭和23)年4月には新制大学となり法学部・経済学部・文学部が発足し、その後経営学部、産業社会学部が設置されました。そして衣笠一拠点事業により1981年3月をもっておよそ80年にわたる広小路学舎は閉校となりました。
2021年6月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2021.06.08
立命館のモニュメントを巡る(第1回)「創立者中川小十郎先生之像」と「中川先生記念碑」
このほど「立命館のモニュメントを巡る」と題し、立命館の歴史的な、また今日に至る様々な記念物について順次紹介をしていきたいと思います。第1回は、朱雀キャンパスにある「創立者中川小十郎先生之像」と「中川先生記念碑」です。
<創立者中川小十郎先生之像>
朱雀キャンパスの中川会館正面玄関のメモリアルルームに「創立者中川小十郎先生之像」があります。
この胸像は、立命館学園の創立90周年にあたり、学園の評議員草木紘司氏から寄贈されました。1990年10月31日に衣笠キャンパスの中川会館で除幕式が行われました。そして2006年に朱雀キャンパスが開設され学園本部・中川会館が移転したことに伴い、胸像も移設したものです。
ブロンズ製の像は高さ62㎝、台座は木製で高さ115㎝、幅52㎝です。
1990年の式典では、谷岡総長が「胸像を前にして改めて創立90周年の重みを感じている。先生の像に学園の現状を報告し、今後学園を益々発展させるよう鋭意努力することを誓いたい。先生が学園を暖かく見守ってくださっているようだ」と挨拶しました。(UNITAS 1990年11月号)
中川小十郎は、1900(明治33)年に京都法政学校を創立、その後京都法政専門学校、京都法政大学を経て、また清和普通学校(更に清和中学校に改称)を設立しました。そして1913(大正2)年に財団法人立命館を設立し大学・中学を立命館大学・立命館中学に改称、以降1944(昭和19)年に逝去するまで、立命館を運営し、歴史をつくってきました。
寄贈者の草木氏は中川小十郎夫人の実家のご当主です。
なお、中川総長の胸像は、ほかに財団法人立命館設立を記念し翌1914(大正3)年に校友から贈られた木製の胸像(『立命館学誌 第176号』昭和9年12月15日)と、1920(大正9)年に母校創立20周年を記念し校友から贈られた銀製の胸像(『立命館学誌 第25号』大正9年1月30日)が製作されています。
<中川先生記念碑>
朱雀キャンパスの一角に「中川先生記念碑」があります。
この碑は、1957(昭和32)年10月に建てられ、11月3日の文化の日に除幕式が行われました。碑の建立は、大学の校友会と立命館中学校・高等学校の卒業生組織清和会が中心となって取り組まれました。
当時は広小路学舎の中川会館の前に建てられましたが、その後衣笠一拠点事業に伴い1979年10月の衣笠キャンパスの中川会館竣工、更に2006年9月の朱雀キャンパス開設、中川会館竣工により移設されてきました。
記念碑は高さ約150㎝、幅約270㎝で、仙台石に中川総長の業績が末川博総長の筆によって刻まれています。
立命館学園創立者中川小十郎先生は、一八六六年一月四日京都府亀岡市馬路町に誕生、
東京帝国大学法科大学を卒業後あるいは官界にあるいは財界に大きな業績をのこされた
のであるが、先生が終生その心血をそそぎ尽されたのは、育英のことである。すなわち、
一九〇〇年昼間就学の便を有せずしかも向学の志堅い者のために私財を投じて京都法政
学校を開設 爾来それが京都法政大学となり更に清和中学校を併設し、やがて立命館大
学 立命館専門学校及び立命館中学校として大きく発展するなど 幾多の刷新変遷を経
たけれども、先生は 終始その運営を総理して、一九四四年一〇月七日逝去に至るまでま
さに四十四年、熱誠倦むところを知らず全力をこれに傾倒、学園の今日及び将来のために
磐石の基礎を築かれたのである。先生、資性明敏 積極果断 なおかつ青年学徒を愛育す
る情熱燃えるがごときものがあった。されば、その薫陶を受けた者、先生を敬慕せざるは
ない。先生逝かれて十三年、ここに、辱知校友等相集って記念碑を建て、先生の偉績をた
たえ遺徳をしのぶゆえんである。
一九五七年一〇月七日
立命館総長 末川 博 しるす
碑の裏面には、
昭和三十二年十月七日
校友會
清和會
中川先生縁故者
學園關係者 有志建之
と、中川総長と親交のあった関牧翁天竜寺管長により刻まれています。
2021年6月8日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
立命館のモニュメントを巡る(第2回)「立命館草創の地」と「立命館学園発祥之地」←第2回は、こちらをクリック。
2021.05.24
<懐かしの立命館>明治41年秋、不讀西園寺公望 京都にて
明治41年7月初め、西園寺公望は総理大臣の職を辞し、政界から離れた。その秋、京都に滞在して病気の静養に努め、京や江州で俳諧に励んだ。
「不讀」とは西園寺の俳号で、明治20年代後期から30年代初めにかけて東京大森の不入斗(いりやまず)に住んでおり、不入斗が不入讀(いりよまず)から転訛したといわれることから不讀と名乗ったという。
公望は9月9日、静養のため上洛した。前日、日本女子大学校の成瀬仁蔵あてに駿河台邸から手紙を出している。
「拝啓 ‥‥実ハ明朝より暫時京都ニ転地候企ニ有之。就ては又々拝芝之期を失し候段、不悪御諒恕可被下候。月末には帰京之積ニ候間、其上寛々拝眉と楽申候。‥‥」(1)
上洛した西園寺公望は、木屋町三条を上がった大可楼(2)で京の日々を送った。これまでも上洛の際には大可楼に滞在をした。明治36年12月の生母末弘斐子が逝去した際に弟の末弘威麿や住友吉左衛門(春翠)と弔事を諮ったのも大可楼であった。
公望が田中の清風荘を使うようになったのは、大正2年になってからである。それまで清風荘は清風館といわれ徳大寺家の別邸であったが、住友吉左衛門が兄西園寺公望の京都滞在時の邸として徳大寺家から譲り受け改装したのである。
さて、京都滞在は神経痛の療養ということであったが、上洛の日、大可楼に入った。翌10日、春翠住友吉左衛門は大可楼に公望を見舞った。時あたかも中秋の明月で、2階の座敷で観月の宴を開いた。祇園の歌妓8名が席宴に侍したという。(3)
【地図:粟津の松原、茶店走井餅、義仲寺】
9月14日の大阪朝日新聞は、京の宿に入った西園寺侯が俳諧三昧に過ごしたことを報じている。
その記事「陶庵侯の俳味」によれば、名古屋の老宗匠松浦羽州翁を京に呼び、翁が大可楼に着くやそのまま堺町の藤井培屋宗匠と共に俥を連ねて粟津の松原に赴いた。
粟津への道すがら走り餅(走井餅)で休憩した。不讀侯爵の近作「鶯はまだ音を入れず箱根山」を竪句として、また「夕立や山一ぱいの青すゝき」と吟じた。羽州宗匠の「臥し待ちや雲を蒲団の東山」に就いて、上の句を「十六夜や」とも吟じたが、侯爵が「臥し待ちと蒲団は道具が過ぎるのでは」と評し、培屋宗匠も舌を巻いたとのこと。
粟津の松原は、旧東海道沿いに松並木があり、近江八景のひとつ粟津の晴嵐でその風景が知られていた。
また走井餅は逢坂山の追分にあった茶店の名物で、茶店の跡は現在は月心寺となっている。
【粟津の松原の名残】 【走井餅】
そこで粟津の御即興をと侯爵にせがんだが、いや転宅騒ぎで気が落ち着かぬと気が乗らないようであった。昨日は大可楼より八坂の自楽居(4)に引移りの混雑、ということで13日(あるいは12日か)に自楽居に移った。(5)(6)
9月18日には春翠が再び公望を訪れ、翌19日に人力車を連ねて大津に至り琵琶湖に舟を浮かべて遊んだ。(7)
9月22日の京都日出新聞は、八坂塔畔の自楽居における「陶庵侯の風流」について記事にしている。
陶庵侯は秋浅い京洛や江州の風光を探勝し、名古屋から招いた俳諧の宗匠羽州老人と、東京から呼んだ峰岸淺水、京都の藤井培屋の三宗匠と俳句三昧にひたった。
侯が自楽居に移る際の句、「引越の宵から聞くや秋の聲」、また「一集ひ京に居待のかひありて」。そして句集の刊行についてあれこれと相談をしている。
また、侯の近詠に 島原
畑中やくるわをぬけて京の人
義仲寺にて
芋くれる隣もありてけふの月
【義仲寺】
義仲寺は、粟津で最期を遂げた木曽義仲の墓所で、また松尾芭蕉の墓もある。境内には句碑が20基ほどあり、羽州の「身のほどをかへり見る日ぞ初しぐれ」の句碑も建つ。
このように侯は俳句三昧に遊び、祇園の名妓と緑酒紅燈の豪興を極め、悠然として東山三十六峰の山々と鴨川の清流を嘯傲したと伝えている。(8)(9)
病客も肌寒からず今日の月
10月5日には、春翠と近江馬場の山で茸狩をした。このとき公望は自楽居に滞在していたが、大可楼の女将なども茸狩に従った。(10)
そして10月9日の東京朝日新聞は、「洛東自楽居に静養せし西園寺侯爵は、8日午前9時25分、帰東せり。途中名古屋に一泊」と報じた。
不讀西園寺公望は、明治41年秋の一カ月を政治向きから離れ、京洛で俳句三昧の日々を過ごしたようである。
さて、明治41年のことではないが、今少し西園寺公望と大可楼、自楽居のことにふれておきたい。
【大可楼】
(1)大可楼で公直属の仲居として仕えた松田きぬさんは、昭和15年11月24日に公爵が薨去した際に公の思い出を新聞で語っている。
絹こしの豆腐すゞしき夕かな 不讀
明治38年の頃でしたか、時期は忘れましたが、山城へ殿様(西園寺公のこと)と住友吉左衛門さんと私共を加えて雉狩に参りました。その折九谷の窯元に立寄り、公手作りの湯呑にこの句を書いていただきました。絹こしはきぬさんに因んだ句なそうな。
また公は明治29年頃文部大臣在任中に大可楼にお越しいただき、以降入洛の度に可愛がっていただきました。最後にお会いしたのは昭和2年頃でしたか。日本酒はあまり召し上がらず、洋酒を少しずつお呑みになっていました。(11)
(2)東京国立文化財研究所の三輪英夫氏はその論文「黒田清輝と構想画」で次のように述べている。
明治28年、当時文部大臣であった西園寺公望は、フランス滞在中に親交をもった画家黒田清輝に何度か書簡を送っているが、5月13日付けの葉書で、西園寺の宿所大可楼に出向くように伝えている。
黒田清輝はこの年内国勧業博覧会の審査官として京都に滞在していたが、西園寺は黒田の作品を住友家に蒐集するため労をとっている。この頃西園寺は京都滞在の際には大可楼を宿所としていたことが窺える。(12)
【自楽居】
松村謙三(13)は早稲田の学生の時、京都を訪れ友人と散策していると、清水の坂のわきに自楽居という閑雅な料亭があったので入ると2階に通された。ところが一見はお断りということで断られ、友人が通しておいて帰れとは何だと怒った。女将がどなたかの紹介があればというので、京都の叔父に電話をすると、「とんでもない。その家は普通の客をあげない。西園寺さんなどいう連中の行くところだ」とたしなめられ、叔父が迎えに来たので帰った、と。(14)
大可楼も自楽居も今は無い。
2021年5月24日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
注(1)「(明治41年)9月8日成瀬仁蔵あて書簡」
立命館大学編『西園寺公望傳』別巻一所収 P193
(2) 大可楼:木屋町三条上ル(上大阪町526)
(3)「住友春翠」編纂委員会『住友春翠』(昭和30年) なお、明治41年の9月10日
は旧暦で8月15日にあたる。
(4) 自楽居:東山下河原八坂塔東(桝屋町365)
(5) 大阪朝日新聞 明治41年9月14日
(6) 安藤徳器『西園寺公望』白楊社 昭和13年3月
(7) 前掲『住友春翠』
(8) 京都日出新聞 明治41年9月22日
(9) 前掲 安藤徳器『西園寺公望』
(10) 前掲『住友春翠』
(11) 京都日出新聞 昭和15年11月24日、11月25日、11月26日、
昭和16年2月16日
(12) 三輪英夫「黒田清輝と構想画-「昔語り」を中心に」『美術研究』東京国立文化
財研究所 1991年
(13) 松村謙三は昭和期の政治家で、戦前・戦後にわたり衆議院議員を務め、戦後
厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任している。
なお、早稲田大学卒業は1906(明治39)年。
(14) 松村謙三『三代回顧録』昭和39年9月
