教員紹介
- 日本史
地中に埋没した遺跡(遺構・遺物)などの考古資料は、確かに文字資料(文献史料)には及ばないほど、歴史的事象を表すには多弁ではありません。しかし地中に刻まれた遺跡は歴史的な重要性の多寡に関係なく、歴史的な事実の反映であることに疑いはありません。この点が考古資料における最大の利点であると言えます。こうした物質資料から歴史的な重要性を導き出す学問研究分野が考古学です。
日本列島には、3~4万箇所もの中世の山城などの城郭遺跡があります。既に文字資料が存在していた時代でも、これらの膨大な数の構造物の比較検討を通していくことで、文字資料だけでは解き明かせない中近世史の解明を目指しています。
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窯業考古学、京都の伝統工芸考古学は「もの」から見る歴史です。物質文化研究と説明することもあります。京都の歴史は古文書から明らかにされてきましたが、それは一つの見方にすぎません。実際に京都の町を歩いて見れば、そのことは一目瞭然です。私の特技は、その陰で取り残されてきた貴重な遺産を掘り起こして集めることです。西陣織・友禅の図案、唐紙、尾形乾山の窯跡、清水焼の陶器製手榴弾、信楽焼の陶器製地雷、 平安時代と変わらない鏡の鋳造技術など、多くの場で驚き感動してきました。
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日本列島への人類の出現から、灌漑水田稲作の成立と展開までを専門にしています。
とくに興味があるのは、縄文時代から弥生時代への変化について。土器や石器の変化、と生業、集落、儀礼の変化からこれを追いかけています。
近年、研究が発展し、縄文時代においても食料の生産(これを「農耕」とよぶかはひとまず置くとして)が行われていることがあきらかになってきました。縄文時代の中ごろにダイズやアズキが作られ、縄文時代の終わり頃にイネ・アワ・キビといった穀物類が大陸から伝わってきました。しかし、これを経ても土偶や石棒といった伝統的儀礼は継続し、集落の形にも大きな変化はみられません。
これを大きく変えるのは灌漑水田稲作の成立と展開で、この間の社会・文化の変化を描いていくことを目標にしています。
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朝鮮半島から稲作が伝わったときに縄文時代から弥生時代に変化すると一般的には考えられています。しかし、縄文時代には1万3千年間の歴史があり、実は日本列島内部において稲作を必要とするような社会にゆっくりと自ら変化していくのです。縄文人が弥生人へと自らを「変化」させていく長大なドラマを、土器や石器、住居や墓、食料や環境・災害、人口変化など様々な角度から研究しています。長い時間をかけて変化していく歴史を見ていくと、環境変化や災害が変化のきっかけになっていて、歴史の根本には自然と人間との関わりがあることを実感できるのも面白いと思います。水中考古学や美術家との地中再現展示プロジェクトも行っています。
COLUMN
「今」と地続きの縄文時代。 土の下に眠る“宝者”から謎を読み解く。
考古学・文化遺産専攻
矢野 健一
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日本の近代は、台湾・朝鮮等の植民地を抱え込んだ帝国として存在しました。それは〈政治的空間〉であっただけでなく、そこで生きた人びとの〈生活の空間〉でもありました。さまざまな笑い、泣き、喜び、哀しみを抱えながら生を営み、そして死を迎えた空間でした。私の研究は、そこで繰り広げられた人びとの生と死、とくに貧困・抑圧・病いに喘ぎ、斃れた人びとにどのような医療や救済が行われたのかを歴史的に明らかにしていくことです。それは過去のことではなく、現代社会が抱える困難にも通底しています。それらに対処し、未来を構想していく糸口をともに考えてみませんか?
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「日本」をめぐる歴史の語り方や地域文化の多様性に向き合うとき、通時的な歴史の縦軸と共時的な社会・民俗の横軸を交差させて考える必要があります。「神道」とは何か、「伝統」とは何か、「日本」とは何か。これまで中世に形成された宗教文化が近世や近代へと展開し、どのように変わっていったのか。また、それら中世文化をめぐる歴史学を始めとする諸学史と現代社会の関係を考えています。
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