教員コラム

文学部には100名を超える教員が在籍しています。一人ひとりのリアルな教育・研究活動を紹介します。

漫才は、どうしてあんなに面白いのか。 秘密を探る中で見つけた情報伝達の新概念。

漫才が嫌いという人は、たぶんいないでしょう。日本では漫才は娯楽の一つであり、TVやYouTubeなどで日々の癒しとして楽しんでいる人も多いのではないのでしょうか。でも私にとって漫才は、単なる娯楽ではありません。人が言葉や身振り、ジェスチャーなどを使って、どのように他者とコミュニケーションするかを分析する大切な研究素材なのです。

漫才は、いってみれば漫才師さんが舞台の上で内輪話をしているようなもの。では、なぜ私たちは他人の単なる内輪話を見て面白いと感じるのでしょうか。疑問に思った私は、大学にプロの漫才コンビを招き、演技の様子を映像に記録。2人の視線がどこを向いているか、体をどこに向けて話しているか、誰に話しかけているのか、全体の時間配分を計測し、データを分析しました。結果は、とても興味深いものでした。演技中、2人の視線は8割近くがコンビの相方に向けられるのに対して、体の向きは9割以上が観客に向けられたままだったのです。

この研究からわかったことは、漫才がボケとツッコミの内輪話というスタイルをとりながらも、漫才師たちが体を常に正面の客席に向けることで観客との距離感をなくし、見ている人との暗黙の了解の中で情報や感情を伝達する新しいコミュニケーションスタイルを持っているということです。だからこそ私たちは、舞台の上の会話を面白く感じるのでしょう。私たちが家族や友人と話をする時、知らない人が聞いていると想定して話をする人はいません。日常の会話や内輪話は、その場にいる人だけのプライベートなもの。それに対して漫才では、視線を直接の対話者である相方に向けながら、姿勢だけは第三者の観客に向けるという指向の二重性によって、本来2人の閉じた空間での会話を外に解き放ったものにしているのです。私はこれを情報伝達の新しい概念(スタイル)ととらえ、「オープンコミュニケーション」と名付けました。

オープンコミュニケーションは、障害を持つ人や幼い子どもでもとけ込みやすい情報伝達の手段として、さまざまな分野への応用が期待されています。たとえば今私が取り組んでいるのは、対面のコミュニケーションが難しい自閉症スペクトラム障害(ASD)への応用研究です。第三者のやりとりを見せることで必要な情報や気持ちを伝えるオープンコミュニケーションの考え方を活用すれば、人と直接向き合う会話に気後れする子どもでも無理なく必要な情報を得たり、効果的な勉強ができるかもしれません。同じように統合失調症や事故などで脳に重大なダメージを負った高次脳機能障害の患者さんへの支援の方法についても、試行錯誤しながら研究を続けています。

一方大学では、このオープンコミュニケーションの概念や方法論を、学生のみなさんに分かりやすく伝えるために、他大学にはない独特でかつ面白いと感じてもらえるような課題をいくつも用意しています。たとえば「コミュニケーション表現法応用Ⅰ」では、私が書いた学術エッセイの内容を、2人の架空の登場人物による対話の形式に直した脚本を作成し、それを講義内で実演してもらっています。どんなシナリオにするかは、アイデア次第。テレビ番組をヒントに先生と生徒の質疑応答形式にする人がいれば、仲良しの友だち2人の対話劇に仕立てる人もいます。一人称のエッセイを対話形式に翻訳できるのは、文章自体が対話性を含んでいるから。脚本づくりの課題を通じて、学生はオープンコミュニケーションの考え方を肌で学んでいきます。

岡本 雅史

コミュニケーション表現専攻

ツーリズムから読み解く社会。 楽しみのための場所を問う楽しみ。

「この夏はリュックやテント袋をぶら下げた“観光学生”の姿が各地でみられた。南国ムードをたのしみながら研究をしようという一石二鳥組がほとんど」。これは1963年9月7日発行の『南海日日新聞』に掲載された、鹿児島県・奄美大島への観光客の増加を伝える記事の一節です。私は奄美群島における観光について調べるために、2011年の9月に鹿児島県立奄美図書館で過去の新聞をめくっていましたが、その際にこの文章を見つけ、ハッとしたことを今でも覚えています。時代も場所も違うものの、まさに大学生時代の自分の事だ、と思ったのです。

こうした旅の端緒は、大学2回生の夏期休暇中における台湾旅行でした。サンゴ礁の研究を専門とする先生のお誘いで実現することになった、台湾南部の墾丁を目指したこの約2週間の旅は、自身の研究テーマを模索する旅でもありました。もちろん、その際に何か研究が出来たわけではありませんが、後の研究につながる様々な発見があり、研究者を目指す大きなきっかけになりました。その後も、指導教員となったその先生の調査地を訪れる機会に恵まれ、3回生の夏にオーストラリアを約1ヶ月半旅行し、グレートバリアリーフでダイビングのライセンスもとり、そこからサンゴ礁研究に向かっていきました。そして4回生時には、沖縄県の石垣島を調査地とし、サンゴ礁保全に関する卒業論文を書くことになります。このような研究と結びついた南への旅は、本当に楽しかった事を今でも思い出します。大学時代の南国への旅行、少なくとも4回生時のそれは、「南国ムードをたのしみながら研究」しようとする「観光学生」そのものだったといえるでしょう。

さらにその後、研究と自身の「楽しみ」が重なりあうばかりでなく、観光地という「楽しみ」の場所について問うようになります。観光しつつ勉強する「観光学生」であった私は、観光について研究する「観光研究者」になったのです。大学院に入ってからは、和歌山県の南紀白浜温泉の形成、台湾の国立公園と観光、沖縄観光とイメージに関する研究を行い、バリ島を中心とするインドネシアの観光についての調査も実施しました。大学教員になってからは、特に鹿児島県の与論島における観光に関する調査を継続的に行っています。また、私が興味を抱く対象は広く、研究テーマも多岐にわたっています。具体的には、南国への旅、リゾート、国立公園のほかに、世界遺産、観光まちづくり、都市観光、女性と観光、神社仏閣めぐり、アニメ・ゲームの聖地巡礼、モバイルメディアやSNSと観光、アートツーリズム、ダークツーリズムなどがあります。そうした中で自身の調査地も、南国イメージを喚起するような場所に限らず、多様になっています。このような調査地に学生と赴き、フィールドワークと呼ばれる現地での調査や巡検を行うことも、私の楽しみの一つです。

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学生とのフィールドワーク(岐阜県大野郡白川村にて)

神田 孝治

地域観光学専攻

小説は表の顔、娯楽作品は裏の顔。 読み解く中で見えてくるイギリスの素顔。

ヴィクトリア女王が統治した19世紀のイギリスは、産業革命による経済発展が頂点に達し、「黄金時代」を迎えました。経済だけではありません。文壇においてもディケンズ、ハーディ、ブロンテ姉妹、G・エリオットなど数々の文豪が登場し、名作を次々と発表しました。「小説の世紀」とも呼ばれています。

そんなヴィクトリア朝時代の文学が、私の専門分野です。文豪たちの小説はもちろん、一般庶民の間で絶大な人気を誇った大衆演劇やセンセーショナル・ノベル、メロドラマなどの娯楽作品にも関心を寄せ、20年以上にわたって研究を続けてきました。たとえば代表的な大衆演劇であるサヴォイ・オペラは、壮麗な音楽をバックに役者たちがドタバタを演じる軽喜劇です。またセンセーショナル・ノベルは当時流行したミステリー/ホラー小説で、単語も構文も比較的に簡単なので一般庶民でも楽しむことができ、最後は正義が勝つという勧善懲悪のシンプルな物語が多くの人の支持を集めました。

こうした娯楽作品に私が関心を持ったのは、そこに一般庶民の価値観や欲望、時代の空気がむき出しの状態で現れているからです。複雑なプロットを駆使した重厚な小説は、本を買うお金と時間にゆとりのある中~上流階級の娯楽。それに対して多くの一般大衆は、単純明快でありながら権威を批判し、階級社会に反発するきわどいジョークを織り交ぜた娯楽作品を心から楽しみ、時には笑い、時には泣いて、日常のストレスを発散させていました。文豪たちの小説がイギリスの“表の顔”なら、娯楽作品はいわば“裏の顔”。そのどちらにも目を向けることで、当時のイギリスの本当の“素顔”を知ることができると私は考えています。

金山 亮太

英米文学専攻

メディアで変わる「観光」の最前線を追う


皆さんはもうご存知だと思いますが、今、新しいメディアの登場によって、旅行の形が大きく変わってきています。写真アプリのInstagramを愛好する世界中の若者たちにとって、旅行は「インスタ映え」の絶好の機会です。外国人観光客たちの間では、浴衣を着て神社・仏閣などで写真を撮り、それをInstagramにアップすることが、京都を訪れる目的になっていたりもします。それを見た友だちや家族は、旅行ガイドブックだけでなく、「インスタ映え」の写真も参考にして、日本を訪れるというサイクルが生まれているのです。

京都以外の観光地も、新しいメディアを活用して観光客を呼び寄せる工夫を始めています。アニメ作品の舞台となった場所を訪れる旅を「アニメ聖地巡礼」と呼びますが、「聖地巡礼」の目的となった地域の中には、AR技術によってアニメキャラと一緒に撮影ができるスポットを用意することで、集客につなげているところがあります。こうしたメディア・テクノロジーの活用はディズニーリゾートなどのテーマパークでも見てとれます。このように、観光のスタイルがメディア・テクノロジーによって大きく新たなかたちへと変化することに関心を持ち、「観光とメディアの関係」の最前線を研究し続けてきました。

遠藤 英樹

地域観光学専攻

唐宋時代のポップス「詞」から当時の人の思いを知る

私が研究しているのは、中国の唐宋時代に盛んに作られ、歌われた「詞」です。皆さんは小学校のときから、「詩」を国語の授業で読んだり書いてきたと思います。基本的に「詩」は朗読するものであるのに対し、作詞作曲というように「詞」は音楽に乗せて「歌う」ものです。西暦618年〜907年まで続いた唐の時代、シルクロードを通じた交易が盛んとなり、唐の都には青い目をした西洋の人々がたくさんいました。やがて彼らが持ち込んできた音楽に合わせて中国の詩人たちの「詩」が歌われるようになり、歌謡として大流行したのです。

当時歌われた詞は、いまで言うところの「ポップス」でした。堅苦しい内容は少なく、ラブソングもあればセンチメンタルな気持ちを歌ったものもあり、酒場での宴会を盛り上げました。宋の時代になると知識人が作った詞を専門の歌手が歌うようになり、お金持ちたちは歌妓を家において客人をもてなしました。メロディに乗せて歌いやすくするため、詞はそれまでの「五言絶句」などの伝統的な中国の詩型から離れて独自に発展し、さまざまな工夫がこらされていきました。詞に歌われた内容を読んでいると、当時の人々の暮らしぶりや考えていたことが目に浮かんできます。国も時代もまったく違う現代の私たちでも、彼らの思いに共感することができ、そこにこの研究の面白みを感じています。

萩原 正樹

中国文学・思想専攻

「今」と地続きの縄文時代。 土の下に眠る“宝者”から謎を読み解く。

今から1万年以上も前の縄文時代。人びとは地面を掘って竪穴式住居を建て、粘土を焼き固めてつくった土器で煮炊きして暮らしていました。でも縄文時代のことは、まだまだ分からないことばかり。新たな事実を見つけ出そうと、多くの考古学者が日夜研究に取り組んでいます。

私も、そんな謎とロマンに満ちた縄文時代に魅了された一人。縄文時代の約1万3000年間で、人びとの暮らしや生活文化はどう変化したのか。日本列島の各地にあった集落がどのような特徴を持ち、どんなつながりを持っていたのか。さまざまな角度から、縄文時代の研究に取り組んでいます。

縄文時代は、まだ文字がなかった時代。古墳時代や奈良時代のように、古い文書を読んで調べることができません。当時を知る唯一の方法は、土に埋もれ、水中に沈んだ遺跡を掘り起こし、出土した土器・石器・住居跡などの遺物から手がかりを探る発掘調査。私も、北海道から南は九州まで全国各地の遺跡に出かけ、発掘調査にあたってきました。

発掘調査では、今まで分からなかったことが明らかになりました。たとえば縄文時代の地域はそれぞれバラバラに存在したのか、それとも日本の原型となるまとまりがあったのか、研究者の間でも意見は分かれます。でも全国各地で出土した土器を詳しく調べると、朝鮮半島や中国では決して見られない特異な共通点があり、かなり早い時期から離れた集落がむすびついて、ゆるやかな統一体を形成していたことは間違いないでしょう。集落と集落は、遠く離れていてもそれぞれ違う言語を使って意思疎通し、食糧を交換したり結婚相手を見つけたりしながら互いの結びつきを深め、やがて地域としてのまとまりを持つようになったと私は考えています。

研究では、最新テクノロジーを使って今までできなかった遺跡の調査にも挑戦しています。琵琶湖北部の葛籠尾崎の沖合にある湖底遺跡の調査では、ロボット工学の専門家の力を借りて水深80mのところに眠る水中遺跡を水中ロボットで探査。地質学の専門家とも力を合わせ、縄文時代の土器がなぜ湖底深くに水没したのかを明らかにする研究も行いました。

遺跡を調査をしていると、土の中から当時の人が使っていた土器や石器のかけらが見つかります。それはまるで、ついさっきまで誰かが使っていたかのように生々しく、縄文時代の息吹きさえ聞こえてくるかのようにリアルです。何万年も前、その場所で、確かに誰かが暮らしていた——。その痕跡と巡り会った時のゾクゾクするような感動は、考古学研究でしか味わえない醍醐味に違いありません。

遺跡の調査には、学生も参加します。毎年調査に行くのは、滋賀県の伊吹山麓にある杉沢遺跡(杉沢遺跡)。縄文時代の終わり頃(約3000年前)のお墓が多数あり、弥生時代へと移り変わる時期の縄文人の生活を知ることができます。遺跡の上には集落があり、今も人が住んでいます。遠い過去に存在した縄文時代。でも私たちが暮らす現代と、実は地続きでつながっていることを、杉沢遺跡は教えてくれます。


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矢野 健一

考古学・文化遺産専攻

「黄昏」は、「誰そ彼(そこにいるのは誰)」だった。 変わり続ける日本語、1000年の長い旅。

夕暮れ時を「黄昏(たそがれ)」といいますね。これはもともと「誰そ彼(たそかれ)」で、この「かれ」は、今の日本語の「あれ」に(同じではないのですが、ほぼ)あたる指示詞。平安時代以降、この「か」はだんだんと使われなくなり、現代語では「あ」となっています。

「かれ・あれ」だけではありません。「これ」「それ」「こう」「そう」など他の指示詞にも、それぞれ長い歴史と物語があります。では、それらは古代語ではどのように使われ、時間の流れの中でどのように変化し、現代語のようになったのでしょうか。私はそこに強い興味を抱き、いわゆる「こそあど」とよばれる指示詞の歴史をずっと追いかけてきました。

指示詞の歴史をひも解くと、面白い発見がいくつもあります。たとえば奈良時代に成立した『万葉集』にみられる指示詞は、3つめ系列「か」がほとんどなく、「こ」と「そ」の2系列です。「か」が頻繁に登場するのは平安時代になってから。さらに奈良時代以前には「こ」の1系列しかなかったといわれます。奈良時代になって、それが2つになり、平安時代に「か(あ)」が加わって3系列になったと推測できます。きっとむかしの人びとは、ものを指差す言葉を、近くのもの、遠くのもの、中間にあるものと、それぞれ区別できるようにしていったのでしょう。言葉の世界は、新たな発見に満ちた、わくわくワールドです。

研究にあたっては、国立国語研究所が開発した「日本語歴史コーパス」「現代日本語書き言葉均衡コーパス」と呼ばれる日本語データベースをツールとして使います。コーパスは、奈良時代から現代までのあらゆる文書資料を網羅し、高度な検索・集計も可能です。日本には『万葉集』をはじめ、日本語で書かれた文書資料が多く残されています。私たち研究者は、そうした資料を丹念に分析しながら研究を進めていきますが、資料ひとつひとつから、目視で例を集めていたのでは、時間がいくらあっても足りません。「日本語コーパス」は、そんな研究活動をさらに早く、データは大量に、そして正確におこなう目的で構築された基礎資料のインフラ。開発プロジェクトには私自身も共同研究員の一人として参加し、コーパスを研究にどのように生かすか、主に運用面での調査研究に携わりました。

岡﨑 友子

日本語情報学専攻

人生を変える出会いもある。 歴史研究は、ハラハラドキドキの連続だ。

今から160年ほど前の幕末期、日本を訪れた外国人は庶民の暮らしぶりを見て、「日本人は世界一幸せな人たち」と日記に書き留めました。貧しくとも未来に希望を持ち、家族を心から愛し、屈託のない笑顔で毎日を楽しく生きる人びとを、欧米の人びとは驚きと羨望のまなざしで見つめていたのです。でもそれから150年余りが過ぎた今の日本に、そんな光景はありません。経済は低迷し、格差の広がりや児童虐待が社会問題になっています。

みなさんは、明治維新を「日本が近代国家へ生まれ変わる扉を開いた出来事」と学校で習ったはず。確かに明治維新は、世界史に類をみない大変革でした。世界有数の経済大国へ飛躍を遂げた理由のひとつが、明治の近代化・西欧化にあったことは疑う余地のない事実です。でもその一方で近代化を急ぐあまり、日本人は伝統的な文化や価値観を捨て、長い歴史の中で育んだ大切なものまで置き去りにしてきたのではないでしょうか。そんな問題意識を出発点に、急速な近代化がその後の日本にどんな影響を与えるのか、今の日本に何をもたらしたのかを未発掘の史料などを手がかりにして探るのが、私の研究テーマです。

研究では、近代化、西欧化にまつわるさまざまなテーマを取り上げてきました。日本に民主主義がどのようにもたらされたのかを議会制度の導入を切り口に探ったり、薩長政府と政商たちとのつながりを検証したり。自然災害を科学技術で封じ込めようという考え方がどのように形成されたのか、明治以降の植民地統治に競馬場がいかに利用されたかなど、少し違った切り口からのアプローチも試みてきました。

難しい話ばかりではありません。明治期の歴史の面白さを、より多くの方にも知ってもらおうと、2020年4月からYouTubeに「ゆうこうちゃんねる」を開設。「新しい日本史像」と題し、明治期の歴史を楽しく学べる動画配信も始めました。明治6年に「時分秒」で時刻を数える西洋式時法が導入され、日本人に鬱病が広がった話など、近代化にまつわる面白いトピックが満載。ぜひ一度、ご覧ください(チャンネル登録もよろしく!)。

YouTube「ゆうこうちゃんねる」は
こちら

山崎 有恒

日本史学専攻

フィールドウォーク(街歩き)で情報収集。 都市空間にわけ入り、誕生の「物語」を探る。

日本には、世界有数の大都市である東京をはじめ、西日本の経済の中心地大阪、1000年を超える歴史を持つ京都など、大小さまざまな都市があります。都市は、ある日突然現れたわけではありません。長い年月にわたる人びとの営みがあり、時代の移り変わりを体験しながら、少しずつ今の姿が形づくられてきたのです。そんな都市のなりたちや文化など「都市の物語」を、文化・歴史地理学の視点から探っていくのが私の研究テーマです。

都市には、その都市ならではの文化を育んださまざまな「空間」があります。食材を買い求める人で賑わう商店街。飲食店が立ち並ぶ歓楽街。貧しい人たちが多く住む労働者街。芸妓さんたちの姿もあでやかな花街。研究では、そんな都市の空間をひたすら歩き、そこに住む人たちの話に耳を傾け、お店を訪ね、時には郷土の料理を味わいながら新たな題材やヒントを探ります。名付けてフィールドワーク、ならぬ「フィールドウォーク(街歩き)」。ネットや本を見れば、街に関するひと通りの知識は得られます。でも、それだけでは、複雑ななりたちを持つ都市の本当の姿を知ることはできません。ひたすら歩くことで都市空間に深く分け入り、自分の目で見て、空気を肌で感じる。それが研究の第一歩です。

フィールドウォークで訪ねるのは、京都・大阪・神戸といった身近な都市ばかりではありません。遠く離れた沖縄や、太平洋の絶海の孤島南大東島も現地調査の対象です。例えば沖縄の那覇市は、戦後米軍の占領下で発展を遂げ、日本の県庁所在地クラスの都市では唯一、かつての都心がまったく別の場所に移って現在の姿になったという特異な経験を持つ街です。また南大東島は、120年前(明治33年)まで無人島だったところ。その後、伊豆諸島の八丈島(東京都)の開拓団や沖縄の出稼ぎ労働者が大勢やってきて島を切り拓き、東京の文化と沖縄の琉球文化とが渾然一体となった独特の島文化が育まれました。

加藤 政洋

地理学専攻

他者を思いやる心を育むコンテンプラティヴ教育。 争いやいじめのない世の中をつくるための挑戦。

世界中で人種差別や民族対立の争いが起き、日本でもいじめや虐待のニュースが毎日のように報じられています。人びとの心が荒廃する時代を乗り越えるために、「心の教育」が叫ばれていますが、対処療法では根本的な解決はできません。そこでアメリカやヨーロッパでは、これまでとまったく異なる考え方の教育法が、いま大きな広がりを見せています。私が研究に取り組んでいる「コンテンプラティヴ教育」です。

すべての人には、他者をいたわり、慈しむ心が備わっていると考えます。コンテンプラティヴ教育は、そんな人が本来持つ「善性」に、瞑想やヨガといった「身心変容技法」を用いてアクセスし、自分自身をいつも外から客観的に眺める意識を養うことで自我(エゴ)を克服、他者を人として自然に思いやる心を育む教育をいいます。欧米では20年ほど前から注目され、高等教育にも導入。ヨガやマインドフルネスの世界的ブームを受けて広く社会に浸透し始めていますが、日本では「contemplative」の定着した日本語訳がないほど新しい領域。カリキュラムと卒業研究の一部に体系的に取り入れているのは、全国でも立命館大学文学部だけです。またこれは海外の学会で注目されはじめ、2018年には世界的な組織「マインド&ライフ研究所」の国際研究会で、本学の大学院生が専攻の教育成果を発表。2019年、米国マサチューセッツ大学で開催された学術会議でも本学の取り組みが紹介され、注目を集めました。

コンテンプラティヴ教育は、それを学ぶ学生自身の意識も大きく変えていきます。授業や実習、ゼミでの学習を通じて人を尊重する意識が育ち、互いを支えあうようにコミュニティが生まれ、白か黒か、善か悪かの二元論を超えて、より包括的な視点から物事をとらえる視野の広さと柔軟性を身に付けて成長するのです。共同性が心理的退行と誤解されたこともありましたが、学生同士の関係性は共依存的ではなく相互依存的です。パートナーやグループの協働が、ひとりでは把捉できない人間の真実へと導いてくれることを学生は体験的に学んでおり、そのかけがえのなさを理解しています。

また実習の授業では、ヨガやボディーワークを使ったコンテンプラティヴ教育の実践方法も学びます。ヨガで最も重要なポーズの一つといわれるシャバアーサナ(仰向けに体を横たえ、マインドフルに全身の力を抜いていく)を行い、深く静かに自分自身と向き合えば、きっとみなさんは今まで知らなかった別の自分のあり様に気付くでしょう。そのような気づきがコンテンプラティヴ教育で特に重要なことなのです。

加納 友子

教育人間学専攻

使い慣れた母語を土台に、外国語を学ぶ。 バイリンガル教育は、言語教育の新たな挑戦。

みなさんは、日本に来た外国の子どもたちに日本語を教えるとしたら、どんな方法がいちばん効果的だと思いますか?日頃使っている母語をシャットアウトし、朝から晩まで日本語の本を読んだり、テレビを見たり、日本語に囲まれた環境をつくれば、早く上達できるでしょうか。

私が研究するバイリンガル教育は、そんな今までのやり方とは正反対のアプローチを行なう言語教育の手法。子どもたちが大きくなる過程で身に付けた母語や継承語※を、これからの成長のために必要な土台(言語資源)として大切にしながら、それをむしろ積極的に活用して第二言語の習得に結びつけていきます。
※継承語:両親・祖父母とのやり取りの中で身に付けた言葉


私が研究の一環で支援を行なうある小学校を例に、もう少し具体的にお話しましょう。その小学校には、日本人に混じってガーナから来た児童も通っています。子どもたちは、家庭ではガーナの公用語である英語やファンティ語を使うため、日本語をまだ自由に使えず、授業についていくのに苦労します。そこで、原作が英語の読み物を国語で学習する際に、英語での読み聞かせをしたり、日本語、英語、挿絵などの情報を駆使しながら説明するなど、さまざまな工夫をしています。

こうした取り組みは、英語を母語・継承語としない児童・生徒の指導にも広がっています。子どもたちは、今まで学校で使ったことがなかった自分たちの母語で話せることがうれしくて、自信も生まれ、自分の感じたことをイキイキと話すようになり、先生との会話を通じて日本語のより深い意味まで理解するようになります。2つの言語・文化を持つことを誇りに思い、自らが持つ言語資源をフル活用し、主体的・対話的に学ぶことによって思考力を高め、自分の言いたいことを適切に表現できる人を育てることがバイリンガル教育のめざす目標です。

また意外に思われるかもしれませんが、バイリンガル教育は、ろう教育の場面でも活用されています。「聴覚に障害がある子ども」とネガティブに捉えるのではなく、「日本手話と日本語を使うバイリンガル」とポジティブにとらえるところから、バイリンガルろう教育は始まります。ろう者が使う日本手話は、日本語とはまったく異なる固有の言語ですが、書記言語がないため、日本手話で育つ子どもたちは必然的に2つの言語を習得する必要があります。ここでも、重要な言語である日本手話の発達を基盤に日本語の力を育てるというバイリンガル教育のアプローチが有効に作用します。

佐野 愛子

国際英語専攻

日常に深く根をおろす信仰心。 宗教が分かると、アジアが見える。

皆さんは、心配事や不安があると自然に手を合わせたり、心の中で願い事をしたりしませんか。自分を超越した存在に対する信仰心は、時に人の心を癒し、支え、強くもしてくれます。特に海外に目を向けると、日本では想像もできないほど、宗教が日常生活に深く根付いている国が数多くあります。

私は、そんな宗教を客観的にとらえ、東アジアの国々の社会や文化、さらには政治や経済とどう結びついているのか探る研究をしています。その国でどんな宗教が生まれ、どのように発展を遂げたのか。また現在の社会で宗教がどう位置付けられ、人々の生活とどう結びついているのか。宗教について理解を深めることは、その国の成り立ちや伝統、さらには現在の社会や文化のあり方をより深く知ることでもあります。

私が特に関心を寄せているのは、近現代における韓国・朝鮮の宗教です。500年あまり続いた朝鮮王朝(1392~1910)の時代は、儒教(朱子学)が社会に浸透し、絶対的な世界観として受け入れられていました。しかし、19世紀末の開港によって、欧米からキリスト教が本格的に流入し、また近代化の過程で「政教分離」の考え方が定着していきました。こうして、儒教的な価値観は相対化されていきます。しかし、1905年に日本の保護国となり、さらに1910年に日本の植民地支配が始まると、天道教(東学の後身)や檀君教(後に大倧教)などの新宗教が登場し、民族独立を勝ち取りたいと願う人びとの心の拠り所となりました。このように朝鮮近代の歴史において、宗教は重要な役割を担っていました。

研究で扱うのは、過去のテーマばかりではありません。韓国での留学体験を生かし、現地でのフィールドワークを行いながら、現代韓国の宗教についても研究を進めています。皆さんは知っていますか? 韓国は、いまやクリスチャンが国民の3分の1を占めるキリスト教国であることを。ソウルの街を歩くと、1万人を超える規模の大型プロテスタント教会がいたる所にあります。また、グローバル化による消費文化が発展する中で、ヒーリング(癒し)や占い(タロットカードなど)が人気を集め、ウェルビーングやヨガブームといった新種の宗教運動も広がっています。日本では想像もできないほど、宗教が日常生活にとけ込んだ韓国。研究は、新たな発見と驚きの連続です。

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汝矣島(ヨイド)純福音教会(信徒数56万人、韓国最大のキリスト教会)の日曜礼拝

佐々 充昭

現代東アジア言語・文化専攻

ルールはシンプルで、人類共通。
「生まれつきの文法」が言葉をつくる。


赤ちゃんは、生まれ育った環境にあるどんな言葉でも獲得します。生まれつき英語(or 日本語)が苦手だったため、英語圏(or 日本)に生まれたことで英語(or 日本語)の獲得に失敗した、ということはありません。どうして人間の赤ちゃんは、言語獲得というマジックを、失敗せずにできるのでしょう。それは赤ちゃんの脳の中に、あらかじめ言葉のルール(文法)が刻み込まれているからです。この生まれつきの文法は人類共通。人間なら誰でも、民族や人種の違いを超えて、この共通のルールで言語を習得します。この共通ルールは「普遍文法」ともよばれます。普遍文法はとても単純なのですが、この脳に隠れた単純な文法が目の前に紡ぎ出す言葉は複雑怪奇。そのからくりをひとつひとつ明らかにしていくのが、私の研究テーマです。

例えば「京都映画協会」という言葉を初めて聞いても、私たちは「京都映画の協会」という意味と、「京都の映画協会」という意味の2つがあることが分かります。一見すると「京都」「映画」「協会」という3つの語がただ並んでいるだけに見える言葉も、私たちの脳は、そこに「京都映画+協会」と「京都+映画協会」という2通りの組み合わせ方があることを、ちゃんと認識するのです。「京都」を「日本」や「イギリス」に変えても、「映画」を「文学」や「方言」に変えても、同じです。これは言葉を(3つ同時にではなく)2つずつ順番に組み合わせるからです。この組み合わせ規則が、普遍文法のひとつです。

どんなに教育熱心で子供に言葉を早く覚えさせようとする親や先生も、「言葉は2つずつくっつけていくこと!しっかり覚えなさい!」などと「しつける」人はいません。そんなこと子供は、言葉の覚え方のうまいへたに関わらず、無意識に知っています。「かわいい赤ちゃんの目」や black taxi driver に2つの意味が出てくるのも、2つずつくっつけていくからです。

一見複雑な表現も、結局は2つずつの組み合わせが織りなすものです。「自転車で」というまとまりが、「逃げる」という小さなまとまりと組み合わされば、「警官は[自転車で逃げる]泥棒を追いかけた」で自転車に乗っているのは泥棒になります。同じ「自転車で」というまとまりが、「逃げる泥棒を追いかけた」という大きなまとまりと組み合わされば、「警官は [自転車で [逃げる泥棒を追いかけた]]」で自転車に乗っているのは警官になります。「自転車で」を「自転車に乗って」というまとまりに変えて、「警官は [自転車に乗って] 逃げる泥棒を追いかけた」にしても、それが「逃げる」と組み合わさるか、「逃げる泥棒を追いかけた」と組み合わさるかで、2つずつの組み合わせ方が2通りあり、2つの意味が出てきます。

佐野 まさき(真樹)

言語学・日本語教育専攻

400年前の「明末清初」の時代にタイムスリップ。 庶民の日常から現代中国のルーツを探る。


中国は、長い歴史の中で何度も王朝交代を経験しました。参考書で、「隋・唐・宋・元・明・清」と覚えた人も多いでしょう。私が研究しているのは、そんな中国の歴代王朝の中でも比較的新しい時代。日本でいえば、江戸時代が始まった頃にあたる「明末清初」の時代、すなわち明から清への移行期です。

この時代、一般庶民や役所に勤めるお役人たちは、王朝交代によって世の中が大きく変わる中、知恵を振り絞って強くたくましく、しなやかに毎日を生きていました。中国史といえば、みなさんはヒーローが縦横無尽に活躍する英雄物語を想像するかもしれませんが、私が視線を向けるのは、むしろどこにでもいるごくごくふつうの人びとです。その頃に書かれた日記や身辺雑記、公文書などを読むと、当時を生きた人びとがどのような日常を過ごし、どんな考えや価値観で生活していたかが手にとるように分かります。

例えば「明末清朝」の時代の中国では、古美術品のコレクションがブームとなり、驚くほど多くの作品が取り引きされました。ところが、本物の数には限りがあるので、市場には必然的に多くのフェイク(模造)の作品が紛れ込み、鑑定のプロでも見分けがつかないほど精巧なものまでが登場。そのため、これまたたくさんの鑑定マニュアル本が出版されるものの、その一方で、マニュアル本の著者が専門業者と裏で手を結んでフェイク制作をプロデュースしたあげく、「本物そっくりの高品質なフェイクを作ってみんなのニーズに応えてあげるのは、むしろ良いことじゃないの?」などとうそぶく始末。中国におけるコピー商品をめぐる問題は、実はすでに400年前から起こっていた根深いものだったのです。

井上 充幸

東洋史学専攻

学生時代にデリダに受けた衝撃がいまも研究の動機

20世紀後半に活躍したフランスの哲学者、ジャック・デリダを研究しています。とくにこれまで取り組んできたのが、1960年代に彼の思想がどのようにつくられたのかというテーマです。私がデリダの本を初めて手に取ったのは、立命館大学文学部の哲学専攻に在籍していた学部1回生のときでした。『声と現象』など、デリダの初期の代表作を読んだのですが、当時の私には難しくてよくわからなかったというのが正直なところです。謎に満ちた哲学の本。でもなぜか強烈に惹かれ、「彼の思想を理解したい」と強く感じたのです。

デリダは「脱構築」という概念を提唱することによって、古代ギリシア以来の伝統的な哲学の言葉や考え方をぐらつかせたことで知られています。私たちは物事を考えるときに、「二項対立」の図式に当てはめがちです。男性と女性、善と悪、敵と味方……。そのような二項対立の考え方は馴染み深く、物事を理解しやすくしてくれます。そしてこの二項対立は、ヨーロッパの哲学(形而上学)の伝統的な考え方を縛るものでもありました。哲学者たちは、自己と他者、西洋と東洋、精神と物質といったように、物事を2つに切り分けて哲学を構築していったのです。しかしデリダは、その二項対立の考え方が本当に正しいのか、疑問を投げかけました。二つに分けるということは、片方のなかには、もう片方がまったく存在しないということを意味します。デリダは、そのような切り分け方をすることで、哲学が何かを見失ってきたのではないかと問うたのです。

デリダの問いは、人間の「自己」にも向かいます。ふつう人は、自分と自分以外の他人を、 切り分けて考えています。しかし、「自己」はいつも本当に同じ「自己」でしょうか。私たちが誰かの話を聞いたときにメモをとるのは、「今の自分はこの話を覚えているけれど、明日の自分は忘れているかも知れない」と考えるからです。また10年前に自分が書いた文章を読んで、「これを本当に自分が書いたのだろうか」と驚くこともよくあります。そのように、言葉を読むことと書くことを通じて、私たちは「自己」のなかに「他者」がいることを経験しているのではないでしょうか。このようなデリダの考えに引き込まれたことが、学生時代から今にいたるまで研究を続ける動機となっています。

亀井 大輔

哲学・倫理学専攻

小説を深く読み込むことで得られる「文学の力」

私の研究領域は、19世紀後半から20世紀はじめの英米小説、とくにヘンリー・ジェイムズ(1843〜1916)です。ただ授業では、様々な作品を扱い、最近は幽霊小説をとりあげることが多いです。幽霊ものには、「不可解な謎」が描かれます。それゆえに恐怖を読者に呼び起こしたりするのですが、その謎や不思議は、作品を最後まで読んでも、明確に解き明かされないことが多いです。しかしそれらは現実の何かを表象しています。英単語の一語一語をおろそかにせず、作品を深く読んでいくと、あるときにこのように解釈できるのではないかとハッと気づくときがあります。例えば、私が専門とするジェイムズの『ねじの回転』に登場する幽霊は、最初は「悪」を表象していると言う解釈が主流でしたが、語り手の女性家庭教師の性的抑圧からおこなった幻影だという説、あるいは階級差による抑圧によるのだという説がでてきて、時代によって多様な解釈が生み出されてきました。この面白さが文学を学ぶことの楽しさでもあります。

解釈の多様性といえば、1回生の授業で学生が楽しんでくれるテキストとしてJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズで言及される『吟遊詩人ビードルの物語』の中の話『魔法使いとポンポン跳ぶポット』(”The Wizard and the Hopping Pot”)があげられます。子ども向けの童話の形をとっていますが、現実にヨーロッパで過去にあった「魔女狩り」を思わせる記述や、現在の移民問題を思い起こさせられ、読み込むほどに深い解釈が可能な作品です。学生たちはこの作品の読解を通じて、作者が行間に隠したメッセージを見つけることの面白さを感じてくれているようです。

いまの社会でいろいろな問題が起こっていますが、その一つの理由は世の中で短絡的にしか物事をみないことであり、一つの問題を多角的にみる、言葉の行間を読むという、いわゆる「文学の力」が失われているからではないでしょうか。その点、私が研究する文学作品は何らかの形で社会の現実とつながっていると思います。文学の力とその豊かさを、ぜひこの学域の4年間の学びを通じて、我が物としてもらえたら嬉しく思います。 

中川 優子

英米文学専攻

文化人類学は、“石蹴り遊び”。 思いがけない発見が待っている。

インドは、好きという人と苦手という人が、はっきり分かれるところといわれます。私も学生時代、それほどインドに強い関心があったわけではありません。でも文化人類学の研究者となり、フィールドワーク(現地調査)で何度もインドを訪ねるうちに、インド文化の多様性に魅了されることになりました。現場を通じての研究は、時として本来の目的や意図とはまったく違う方向へ広がります。それはまるで子どもの“石蹴り遊び”。どこへ転ぶか分からないけれど、思いがけない発見と出会うこともあります。でもそれこそがまさに文化人類学の面白味なのです。

インドとの最初のかかわりは、インド・ヨーロッパ語圏の神話を比較する研究でした。インドに伝わる神話のダイナミックさにひかれた私は、現地の大学へ留学。南インドの村落で信仰されるローカルな神様を調べるためにフィールドに出たのですが、調べてみると、その神様はお隣の州では大規模な巡礼の対象となっていることが分かりました。地域限定どころか、山の中にあるその聖地は年間100万人もの巡礼者が訪れる一大聖地でした。しかも巡礼者はインド国内はおろか、マレーシアやシンガポールなどの東南アジアからもやってきます。また、別の巡礼を調べた際には、イギリスやアフリカ、中東からも巡礼者が訪れていました。

中村 忠男

文化芸術専攻