立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2023.02.17
立命館のモニュメントを巡る(第6回) 佐々木惣一先生の胸像
(注1)佐々木惣一〔1878(明治11)年~1965(昭和40)年〕
戦前の立憲主義憲法学を代表する憲法学者。1933(昭和8)年、京都帝国大学で京大事件(瀧川事件)が発生。瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものであったが、教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い免官となった。この事件により佐々木惣一教授はじめ18人を立命館に招聘した。立命館では、既に1907(明治40)年から講師をしていたが、1934(昭和9)年3月から2年間学長を務めた。学長辞任後名誉学長となった。
戦後憲法改正にあたり憲法改正案(佐々木試案)を起草、1952年には文化勲章を受章、また京都市名誉市民となった。
(注2)吉川大二郎〔1901(明治34)年~1978(昭和53)年〕
民事訴訟法を専門とする法学者。1935(昭和10)年に立命館大学教授に就任。
1966(昭和41)年定年退職、名誉教授。この間、評議員・理事を務める。戦前裁判所判事を務め、弁護士となっている。1959年には日本弁護士連合会会長。
2023.02.10
<懐かしの立命館>立命館中学校・高等学校初の女子生徒たち~立命館神山中学校~
1)はじめに
立命館中学校・高等学校は、1988(昭和63)年4月に北大路学舎(現在、立命館小学校所在地。京都市北区)で男女共学が始められ、その年の8月に深草キャンパス(京都市伏見区)へと移転しました。1922(大正11)年8月に広小路学舎から北大路学舎へ移転して以来、戦前には昼夜で約3000名を超える生徒が通う学校へと発展していました。戦後は、あまりにも狭隘な学舎のため男女共学は不可能と考えられていたのが、深草への学舎移転に先立って共学化へ踏み出したということでした。
1988年に入学した1年生女子生徒は、中学校が66名(男子は3学年で519名)、高等学校が67名(男子は3学年で847名)でした。その後、女子生徒の在籍者数は増え、中学校は2012(平成24)年に、高校も翌2013(平成25)年に女子数が男子数を上回り、現在も女子数が半数を超える共学校となっています【注1】。
そして、2014(平成26)年9月、現在の京都府長岡京市へ再び移転したのでした。今では35年前まで男子校であったことをご存じない方も増えてきています。
このようなことから、1988年入学の中高合わせて133名の女子生徒たちが、中高初の女子生徒たちと思われがちですが、実はそれより以前に女子生徒たちが在学していたのでした。
2)立命館神山中学校の女子生徒たち
その初の女子生徒が誕生したのは立命館神山(こうやま)中学校でした。戦後の学制改革で6・3制の義務教育として開設されることになった京都市立中学校は、1947(昭和22)年4月開校への設立準備が間に合わず、全市での開校を5月に遅らせています。それでも学校数が不足していたため、私学が市からの委託を受けて中学生を受け入れることになりました。京都には戦前からの中等学校や実業学校が多数あり【注2】、戦後も学校経営を継続しようと計画していましたが、新設公立学校への憧れや私学に通わすための費用の問題などで思うように生徒が集まらず、廃校となったり委託制を採用する私学の中学校がいくつかありました。立命館神山中学校は、他のどの私学よりも早く委託を受け入れていたのでした【注3】。
1951年卒業アルバムのクラス写真/写真1
神山学舎には戦前からの旧制立命館第二中学校(男子校)が、予科練や軍隊から帰ってきた生徒たちも加えて存在していました(最後の生徒は1949年3月卒業)。そこに新制の立命館神山中学校が、京都市からの委託契約によって地域の男女子供たちを受け入れて発足しました。委託であったため、家庭が負担する費用はすべて市立と同じ額が徴収され、不足分は公から補助を受けての出発でした。
翌1948(昭和23)年には、私学の男子校として立命館神山高等学校が開校されました。神山学舎は、男子高校生と男女共学中学生がともに通い学ぶ学校だったのです。
立命館神山学舎の全景/写真2
立命館神山中学校高等学校の門標/写真3
(立命館神山高等学校槙野廣造教諭の揮毫による。学校別で異字体で書かれている。)
当時の立命館神山中学校の様子を野崎龍吉教諭は次のように回顧しています。
「(昭和18年当時)この8,000坪の地は翠(すい)緑(りょく) したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢(くさむら)から雉(きじ)や鶉(うずら)が飛び立ち、校庭には牝鹿が迷い込むこともある。今から考えると仙境ともいうべき閑静の地であった。校庭には、春は土筆(つくし)秋には初茸が頭を擡(もた)げ、井戸水を汲み上げる風車がゆるゆると回っていた。」
また、「中学生の主体は旧愛宕郡の八瀬・岩倉・静市野・鞍馬の四か村の組合から委託された生徒たちで、男女共学のはなやいだ気分が漂うこととなった。とはいうものの、当初何年かは男女共に、モンペ穿き、藁草履のいでたちも多かった。家庭・体育と音楽に女の先生が来任、ミシンが動き、混声合唱が校内に流れた(以下略)。」とも書いています。【注4】
1950年文化祭中学校演劇部/写真4
学校に隣接して設けられた上賀茂ゴルフ場の入口前には京都バスの停留所がありましたが、朝夕を除けば1時間に1本のダイヤのため生徒たちは利用しておらず、通学は自転車を利用するか、市バス上賀茂御園橋から25分、京福鞍馬電車(現叡山電鉄)二軒茶屋駅からならば20分を徒歩で通っていました。学校までの途中には一軒の家もなく、トラックが行き交う未舗装の鞍馬街道には砂埃や泥水が飛び交い、街灯もほとんど無いような通学路ではありましたが、生徒たちは楽しく語らいながら通っていたのかもしれません。
立命館神山中学校通学区域図
(京都市立洛北中学校開校式配布資料から作成)
校舎の隣には、後に北区の区長にもなった飯田五男(はんだいつお)校長一家の住居があり、その傍には掘り抜き井戸がありました。私設水道でここからポンプでくみ上げられた水が、学校の生活用水でした。
中学校ではこのような学校生活が送られたので、立命館神山という校名ながらも、地域の神山中学校と呼ばれる長閑な学校だったのでした。教員たちも地域の期待に応えるべく熱心に教育に取り組もうとしました。そのため、1947(昭和22)年の開設から地元小学校からの入学生は、女子も含めて順当以上に増加していきました。委託契約期限が切れて廃校となる1952(昭和27)年3月までの卒業生数の推移は以下のとおりです。
1948年第1期卒業生 75名(1)
1949年第2期卒業生225名(5)
1950年第3期卒業生123名(43)
1951年第4期卒業生100名(39)【写真1,4】
1952年第5期卒業生122名(44)【写真5,6】
( )内は女子生徒数。
1952年卒業アルバム 中3女子全員/写真5
1952年卒業アルバムのクラス写真/写真6
驚かされるのは、第1期卒業生の女子が1名しかいなかったのが、二年後には女子が学年の3分の1を超えるまでに増えていったことです。立命館神山高等学校が男子だけの変則制度ながらも、教員たちの努力によって中学校の生徒たちはのびのびとした学校生活を送っていったことだと想像されます。
委託契約期限が切れたことと学園の方針によって、1952(昭和27)年3月で立命館神山中学校高等学校は廃校となりましたが、校舎はそのまま京都市が借用するかたちで市立中学校が創設されたので、残された1,2年生は、公立中学校となった同じ校舎へと通うことになりました【注5】。立命館神山高等学校は男子校である立命館高等学校に統合されたため、立命館神山中学校を卒業した女子生徒たちが、その後にどのような道を歩んでいったかはわかりませんが、彼女たちの氏名は今も同窓会である立命館清和会の一員として名簿に記載されています。今では80歳も半ばとなったおばあちゃんが、ひ孫たちに楽しかった中学時代の思い出を語られているかもしれません。
2023年2月10日 調査研究員 西田俊博
注1;2022(令和4)年度の立命館中学校高等学校の在籍生徒数は、中学校735名(内女子384名)、高等学校1082名(内女子582名)。
注2;1948(昭和23)年度の京都府内には私学の中学校は24校存在した(元立命館中学校高等学校校長上田勝彦資料による)
大谷・京都学園・同志社・東山・平安・東寺夜間(現洛南)・立命館・立命館神山・京都・烏丸・家政(現京都文教)・華頂・京都女子・精華・光華・成安‘(現京都産業大学附属)・手芸(橘)・平安女学院・洛陽女子・両洋・淑徳女子・臨済学院・大谷実務女・聖峰
注3;昭和22年度京都の私立中学校出願者状況についての記事
「京都の私立中等学校のほとんどは三月十日から一斉に新制中学一年生の募集を開始したが、一人の志願者もないというのが数校あり、私立志願者数はすこぶる低調で、中学の将来に暗いかげを投げかけている。(中略)なお、臨済学院中、大谷中、大谷実務女などは初制中学としての募集を停止し、立命二中は最初から委託制を採用している」(京都新聞 昭和22年3月12日付)
注4;野崎龍吉「神山学舎の思い出」(立命館学園広報第21号 1972年5月発刊)
注5; 1952(昭和27)年4月に校名は京都市立本山中学校となり、同年11月には京都市立洛北中学校と改称され、1957(昭和32)6月に学校は左京区岩倉に新築移転した。立命館に戻された校地と校舎は、改修されて1960(昭和35)年に立命館上賀茂グランド(合宿所併設)となった。
2022.12.20
<懐かしの立命館>「立命館第四中学校 昭和19年卒業アルバム」から辿る夜間付属校史
はじめに
立命館中学校・高等学校には何冊かの戦前の旧制中学校時代の卒業アルバムが保存されています。その中に一冊だけ「立命館第四中学校」(以下、「第四中学校」)と表紙に記されたものがあります【写真1】。
【写真1 アルバム表紙・内表紙 】
突然に「第四中学校」と聞いても、何のことかわからない方がほとんどではないでしょうか。付属校では、北大路学舎で1928(昭和3)年に校名を立命館中学から立命館中学校に変更し、翌1929年に立命館商業学校を設立して以来、戦後の新学制が出発するまでに、いくつもの付属校新設や校名の変更を行ってきました。その学制変遷を図にすると以下のとおりです。
【沿革表 戦前の付属校変遷】
学園の夜間付属校である立命館夜間中学校が改組改名したものが「第四中学校」でした。夜間中学校は、昼間勉学の機会に恵まれない好学の勤労青年に対し、夜間にも便宜を与えようという学園創設以来目指してきたことで、専門学校や大学に続き中学校にも一貫して実現しようとするものでした。
その「第四中学校」の卒業アルバムから戦前における付属校の夜間学校の歴史を辿ってみました。
1)学園における夜間大学の開設
創立以来、専門学部は夜間授業を行い多くの英俊を輩出してきました。学園では1929(昭和4)年4月から予科の夜間授業を開始し、夜間大学部を1931(昭和6)年4月に開講しています。この開講にあたって中川館長は「世の中には高い志と力はあっても、機会が与えられず志を遂げることができないでいる人が案外に多い。今回の新計画は、これらの人々に対する門戸開放であり機会均等であり、このことはわが学園創始以来一貫する主義主張である」と述べています【注1】。
2)夜間中学校の創設
1937(昭和12)年4月、京都府内私学初の夜間中学校として立命館夜間中学校【注2】と立命館商業学校夜間部を設立開校し、中川小十郎がこの新設両校の初代校長に就任しました【注3】【写真2】。この時の入学式で中川校長は「夜学部の生徒は立志においては申分ないが、途中でその志が挫折してしまう者が頗る多いのは実に残念な事である。諸君の先輩である二年生は入学したときの三分の二に減っている。夜学では成功した者も多いが、落伍する者もまた頗る多い事を銘記せねばならない。(中略)私は学問を志した者のために夜学で中学から、予科、大学、学部或いは専門学校へと一貫した教育を行う事が必だと考えている。立命館ではこれが可能なのだ(原文ママ)」と挨拶しています【注4】。
【写真2 校庭に立つ校長中川小十郎】
京都市内には、京都府からの育英資金制度が適用されて設立時から3倍以上の競争率で人気の夜間中学校として府立の第二夜間中学校と第三夜間中学校【注5】がありました。また、立命館の設立と同年に女子夜間商業学校も設立されていました。
立命館の夜間学校設立によって、本学の伝統的な方針である学問の門戸開放と機会均等を幅広く発揮されることになりました。ちょうどこの1937年から2年間をかけて北大路木造学舎の鉄筋コンクリート改築工事が始まっており、第1期工事が同年6月下旬に竣工、第2期工事も翌年2月末に終えて完了しました。夜間2校では、立命館中学校と商業学校と同方式で無試験の申込順に生徒を受け入れ、その上に入学金も免除されていました。
その後、京都府下の中学校生徒数が激増して学校数も不足したため、夜間学校への希望が増加することとなり、1941(昭和16)年には京都府立第一夜間中学や京都府立桃山夜間中学校【注6】などが設立されていきました。1943(昭和18)年からは中等学校令による新しい中等学校制度が実施されました。この中に夜間中等学校の設置が加えられ、国民学校高等科卒業程度を入学資格として、勤労青少年に教育の機会を与えることが進められました。
3)夜間中学校の概要
文部省では、1932(昭和7)年、夜間中学校への専門学校入学資格認定を与えるために、修業年限を尋常小学校卒業ならば5年、高等小学校卒業は4年と決定して、この資格を与えられていたのが先に紹介した府立の2校でした。
立命館の学則では、夜間中学校の定員が500名。年齢12歳以上で尋常小学校を卒業した者又はこれと同等以上の学力ありと認められた者が入学を認められました。商業学校夜間部の定員は400名。年齢14歳以上の者で高等小学校卒業と同等以上の学力ありと認められた者とされました。
1939(昭和14)年4月に立命館夜間中学校に勤めた松井美知雄【注7】【写真3】は、当時のことを次のよう述懐しています。
夜間中学は5年制、商業夜間部は4年制で、まだ完成年度に達していなくて3年生までしかなく、各学年とも2クラスをおいて、中学と商業を合わせて12クラス、生徒数は400名ほどであったろうか。生徒の年齢も昼間部と違って、40歳ちかくの年長者や、妻子もあり世帯をきりまわしている者や、20~25歳くらいで新参者の私と年齢の変わらない者、また高等小学校卒業まなしの者といったように変化に富んでいた。(中略)勤務先の職業も官公庁、会社事務員、会社給仕(年少者で雑用担当)、個人商店と多種でした。
制服もなかったので、年長者になると職場の服装(背広や作業着)のままで登校してくるという状態であった。設立間もないころの立命館夜間学校では、専門学校受験資格を与えることのできる認可がとれていなかったので、生徒たちはその資格がとれる検定試験合格を目指してよく勉強した。放課後も10時30分ごろまで補習授業を続けていたことを思い出す【注8】。
【写真3 向かって右から松井、宮本伊三松(教練)、角野太郎(数学) 注8から】
昼間の中学校と商業学校だけで約2,000名の生徒たちが通っていた北大路学舎は、学校規則によれば、夜間の両校の授業は、午後5時30分から午後9時30分までとされ、始業時刻は季節により変更するとなっていました(1937年3月の認可願)が、翌年に京都府提出の学事年報【注9】では午後6時から午後9時15分までと変更されています。
夜間中学校と商業学校夜間部の年齢構成と出身地(本籍地)は、以下のようなものでした【グラフ】。特筆されるのは、夜間中学校に朝鮮出身の生徒が多くみられることです。当時の社会情勢を知ることができます。
【立命館中学校・高等学校保存の資料から作成】
このような生徒たちによって、真剣に働き学ぶ生徒たちが集う夜間学校の灯はコンクリート3階建て校舎と共に北大路烏丸のシンボルとして灯り続けていました。
中川小十郎は、1940(昭和15)年に夜間中学校校長を退任しましたが、再度校長となり1941年4月に退任しています。その後は大学教授の末包留三郎が中学と夜間の校長に、串本友三郎が商業と夜間商業の校長に就きました(中川は1933年8月に中学校と商業学校校長に再任後、1937年には夜間中学校校長も兼任し、1941年4月まで校長の職にありました)。
夜間中学校出身で後に母校の教員となった卒業生には、第1期(1942年)卒の時岡喜代治(理科)、第2期(1943年)卒の長谷川金市(理科、校長を2度歴任)、第3期(1944年)卒の芳賀金一(理科)、第4期(1945年)卒の柴田亨三(保健体育)などがあげられます【注10】。
4)夜間中学校から第四中学校へ
立命館では生徒増に対応するために第二中学校を開校し、従来の立命館中学校を立命館第一中学校と改称しています。また、戦争が続く中、軍需生産のために技術者が大量に必要とされるようになると商業学校への志願者が減少し中学校や工業学校への志願者が増大していきました。1943(昭和18)年10月、政府は戦争遂行政策に沿って「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定し、男子商業学校の改廃を発表しました。これによって、京都府下で14の商業学校等が工業学校や農業学校への転換を行っています【注11】。こうした経過のなかで、学園では1943(昭和18)年4月、「中学校令」により夜間中学校は今回の卒業アルバム調査のきっかけとなった「第四中学校」(夜間三年制)【注12】に転換しました。1944(昭和19)年4月に第三中学校を開校し、この年度からの商業学校と商業学校夜間部二校の生徒募集を停止して商業学校夜間部の在校生を新たに開校した立命館工業学校夜間部(四年制)に編入したのでした。
5)「第四中学校」卒業アルバムから
戦争が激しさを増すなかで、生徒たちの学校生活にも戦争色が一層色濃くなっていきました。「第四中学校」では夜間での通常授業以外に、体錬として4月、5月、6月及び9月、10月、11月の第三日曜日の昼間に於いて各6時間の教練が実施されていました。卒業アルバムに掲載された数少ない写真には、軍事教練関係が大部分を占めています。
【写真4 校庭での式典】
【写真5 夏の授業風景】
【写真6 校庭での射撃訓練】
【写真7 校庭での軍事教練】
【写真8 講堂での集会風景】
【写真9 校門での集団登校風景】
【写真10 全員集合写真】
【写真11 軍事教練】
【写真12 アルバムで笑顔が写った唯一の写真 水泳訓練 】
6)夜間高等学校へ
夜間中学校から「第四中学校」へと続いた旧制の夜間中学校の歴史は、1948(昭和23)年3月をもって廃校となりました。卒業生は合わせて605名。商業学校夜間部と工業学校(夜間)の卒業生は691名。旧制の夜間付属校卒業生1,296名の灯は消えることなく、その年の4月から立命館夜間高等学校として灯り続けていくことになりました。(戦後の夜間高校・高校定時制については戦後編としてご紹介していきます)
2022年12月20日 調査研究員 西田俊博
注1「立命館學誌」第123号(1929年4月発行)「新学年に於ける新施設」中川館長談
注2 正式名称「私立立命館夜間中学」 (立命館百年史 資料編1)
夜間中学設置ノ目的(抜粋)
交通至便ナル本校ノ位置上夜間就学ヲ希望スルモノ年々其数ヲ増加シツツアルノ状況ナリ(中略)夜間就学希望者ノ多クハ昼間勤務シテ家計ヲ助ケツツ乏シキ学資ヲ以テ進学セントスルモノナルコト會ヲ俟タス(中略)
通学上ノ便利ノ点ニ於テ市ノ北部ニ位スル私立立命館中学校内ニ夜間中学ノ設置ヲ見ルコトトナレハ此種生徒ノ為、更ニ進ンテ本市教育振興ノ為ソノ効果甚大ナルモノアリト思惟ス
此ニ於テ本校ハ以上ノ状況ニ鑑ミ修業年限五ヶ年ノ夜間中学ヲ設置シ之ニ要スル諸般ノ施設ヲ整備シ本校ノ特ニ意ヲ用ヒツツアル日本精神主義ノ教育ヲ施シ生活上須要ナル知識技能ヲ授ケ国家有用ノ士を養成センコトヲ期スモノナリ
(「京都府へ提出の夜間中学設置の許可願」1937年3月31日)
注3 中川が初めて付属校校長に就任したのは1928(昭和3)年4月1日付の立命館中学校校長あったが、翌29(昭和4)年2月11日には退任。
注4 「立命館禁衛隊」新入生歓迎 第84号(1938年4月発行)
注5 京都府立夜間中学として1935年に創立された後、京都府立第二中夜間中学校(1936年)、府立上鳥羽中学校(夜間)と代わり、鳥羽高校定時制で廃制。京都府立第三中夜間中学校は1936年に創設された後、夜間で府立双陵中学校、府立双陵高校定時制と代わり、山城高校定時制で廃制。両校共に夜間中学校で制服制帽があった。
注6 京都府立第一夜間中学は、後に夜間で府立賀茂中学校、戦後には府立賀茂高校定時制と代わり、府立鴨沂高校定時制で廃制。京都府立桃山夜間中学校は、後に夜間で府立伏見中学校、府立柏原高校定時制と代わり、府立桃山高校定時制で廃制
注7 松井美知雄(国語科で主に漢文、古文、書道担当)
立命館大学専門学部文学科卒後、1939年立命館夜間中学校専任教諭(漢文)として就職。後に応召。1946年から第四中学校、工業学校勤務を経て1950年夜間高等学校副校長、定時制副校長中学校副校長、中高図書部長を経て1977年定年退職。
戦前・戦後の22年を立命館の夜間・定時制教育のために尽くした。
注8 【写真3】共に松井美知雄「草創期の夜間中学」
(立命館学園広報 1972年2月20日発行)
注9 「夜間中学設置ノ件許可願」立命館百年史 資料編1
京都府提出「昭和十三年度学事年報」
注10 夜間以外での付属学校出身の教諭には、
1938年卒;大西永太郎(中学)
1939年卒;小林喜二郎(商業)
1940年卒;北野清(中学)
1941年卒;竹上信次(中学)
1942年卒;武輪辰夫(商業)
1943年卒;住岡幹雄、峯一男(中学)などがいた。
注11 「京都新聞」1944(昭和19)年2月5日夕刊
注12 第四中学校学則 「立命館八十五年史 資料集」第一集
第一條 本校ハ主として昼間実務ニ従事スル男子ニ対シ夜間ヲ利用シテ皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育ヲ施シ国民ノ練成ヲ為スヲ以テ目的トス
