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プロローグ

丸山眞男と加藤周一、その共通と相違

丸山と加藤の交流

丸山眞男と加藤周一は中学校以降、同じ学校に通ったが、5学年の差があったため在学時期が重なることはなかった。1940(昭和15)年4月に加藤が東京帝国大学医学部に入学したとき、丸山はすでに同大学法学部の助手をつとめており、それ以降は同じキャンパスで研究にはげんでいたはずだが、お互いに知り合う機会には恵まれなかった。敗戦直後に二人はたまたま同じ目黒区宮前町に住まいしたが、ここでも知り合うことはなかった。

二人がはじめて出会ったのは、丸山の記憶によれば、1949(昭和24)年または1950年、野尻湖あたりでのことだったという。出会いののち、二人の交流は丸山が亡くなるまでつづいた。この間、二人はさまざまな仕事を共にしている。1960(昭和35)年には安保改定問題で、二人はそれぞれ改定反対の論陣を張った。私的にも親交があったことは、両者の間で交わされた書簡からもうかがうことができる。

丸山と加藤、その共通するもの

丸山と加藤には、知識人として共通する条件があり、異なる条件もある。二人の共通性としてまず重要なことは、戦争や戦時体制に積極的に協力しなかった「非協力知識人」だったということであり、同時にそれぞれの立場、それぞれの領域における「自己批判」とともに戦後の新しいスタートを切ったことであった。敗戦による解放感を味わいながらもこうした自責感をもち、連合国の占領軍によって「配給された自由」(河上徹太郎)を自発的なものに転化するという課題を背負った知識人たちの知的共同体を、丸山は「悔恨(かいこん)共同体」と呼んだが、丸山と加藤はその成員であることを自覚していた。そして二人は、時の流れによってこの「悔恨」が風化し、知識人が各職業領域のタコツボに入っていってしまった高度経済成長期以降においても、「敗戦直後の悔恨や自己批判の原点を精神の内部に持続させている人々」でありつづけたのである(丸山眞男「近代日本の知識人」1977年〈『丸山眞男集』第10巻〉)

日本人のものの考え方

戦争体験とは、必ずしも戦時下の体験だけではなく、敗戦直後の体験も含まれる。その戦争体験は、二人に同じような問題意識をもたらした。丸山は政治的指導者たちや知識人の思想と行動に着目し、「日本の思想」の特徴を見出そうとした。それが『現代政治の思想と行動』(未来社、上1956年、下1957年)や『日本の思想』(岩波新書、1961年)となる。

加藤は文学者をはじめとする知識人の、積極的あるいは消極的な戦争協力がなぜ生まれたのかを追求し(たとえば「戦争と知識人」筑摩書房、1959年)、日本の知識人のものの考え方の特徴を捉えようとした。その延長線上に『日本文学史序説』(上下、筑摩書房、1975,1980年)や『日本 その心とかたち』(全10巻、平凡社、1987、1988年)や『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年)が書かれたのである。

母への思いと知識人としての特質

知識人としての自己形成にあたって家庭環境が果たした役割は二人とも非常に大きかった。なかでも母の影響は際立っている。丸山の場合、父の不在期間が長く、母の苦労を目にしながら育ったこともあり、母への思いは人一倍強いものがあった。また、丸山の知的成長はその端緒において母に促された面がある。加藤の場合も家庭における母の存在感は大きく、加藤の文学志向に影響を与え、またそれを支えたのも母であった。加藤の母に対する思慕の念は強く、進路選択にあたっても母の意向を尊重し、80歳になっても母を偲んで涙することがあったほどである。

丸山も加藤も、大正デモクラシーの風潮と都市文化が花開きかけた時代の東京で幼少期から少年時代を過ごし、豊かな文化と接触した。そして、ともに当時の教育制度においてごく限られたエリートとして選抜された存在であった。

しかし、その歩みは必ずしも順風満帆だったというわけではなく、挫折も存在していた。また、二人は学歴取得のための勉強に邁進するタイプでもなかった。中学校時代、丸山は兄の影響で母の期待に反するような行動を繰り返し、加藤は教師とも同級生とも親しい関係を築くことができなかった。いずれも優等生・模範生からは程遠く、学校の教育方針に反抗する生徒だったのである。

ここにあらわれているような、どの集団とも自分を完全に同一化させることがないという態度は、二人の知識人としての特質に通じるものがある。権力や権威から距離をとったことはもちろんであるが、政党や組合など、直接行動を行う特定の集団に深く関与することはなく、政治的・思想的立場についても一つのものだけにコミットすることはなかった。

広島体験、大学闘争

敗戦前後の「広島体験」も丸山と加藤に共通する要素である。丸山は広島で被爆し、加藤は原子爆弾影響日米合同調査団の一員として広島に2カ月ほど逗留(とうりゅう)した。この広島体験は二人にとって大きな意味をもったが、「広島」について長い間語らなかった、というよりも語れなかったという点でも共通する。

1968~69年の大学闘争が盛んであったときに、学生たちからは丸山と加藤は「プチブル・インテリ」として批判される対象であった。しかし二人は、出来合いの規準を内面化してそこから自己の判断や行動を割り出していくのではなく、自分なりの独立した判断規準を鍛え上げていくことを課題としていた。丸山と加藤の知的な成長には、自分の環境と、そこにおける自分の位置を認識する独立した視点を獲得するという意味があった。それは書物から学ばれたというより、自分の具体的な体験から自分なりの世界理解を形成していく過程であった。

だからといって、他者の存在が視野に入っていなかったわけではない。むしろ、他者との対話は二人の知的活動において不可欠な位置を占めている。二人が戦中に「非協力知識人」としての態度を維持できた要因の一つは、同様の志向をもった人々と支えあうことができたことである。逆に、自分とは異質な考えとの対話を通じて、自分の立場が固着し、独善化するのを防ぐことができた。その意味で、二人がともに「おしゃべり」を好んだことは偶然ではなかったろう。

丸山と加藤、その相違

二人の相違に着目すれば、まず挙げられるのは、5歳の年齢差である。非常に変化の激しい時代だった彼らの青少年期において、この年齢差がもたらす体験の違いは決定的である。また、政治学を専攻した丸山と、医学に取り組むかたわら文学への関心を深めていった加藤とでは、そもそも主たる問題としていた事柄や、それに接近する方法が異なっている。丸山は高校時代から触れていたのはドイツ系の学問が中心だったが、加藤が学んだのは日本の詩歌とフランス文学であった。加藤の場合、どの対象を論じても、「文は人なり」という意味を超えて、その背後に加藤自身が立ち上がってくる。丸山の場合には、そういうことはほとんどない。加藤はまずは自分にとっての意味を考えている。丸山は日本の思想、日本の社会にとっての意味を考えている。加藤はあくまでも文学者であり(文学研究者という意味ではなく)、丸山は政治学者に徹しているのである。

活動の場、芸術への嗜好

丸山と加藤が活動した場も対照的である。大学卒業後、丸山はアカデミズムの研究者としての道を歩んだが、加藤は医師としての研鑽を積みながら、仲間たちとの詩作や評論の寄稿という形で文学に携わっていた。しかも発表は新聞や雑誌が多かった。丸山は一貫して東京(帝国)大学法学部に勤務したが、加藤は15を数える海外の大学で教鞭をとった。丸山が幼少期に環境の変化を経験したのに対し、加藤は毎年のように半分は日本で、半分は海外で生活を送るようになったのである。

丸山と加藤はともに文化・芸術への強い関心をもち続け、文学、映画、演劇に日常的に親しんでいたが、もっとも関心の強かったジャンルには二人の間で違いがあった。丸山においてそれは音楽であり、特に退職後は相当な時間を音楽に費やしたという。加藤が特に強く惹きつけられたのは美術であり、美術館通いを終生習いとし、内外の美術に関する著作も多く残した。