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第1部 関東大震災

第1章 関東大震災とその影響

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、神奈川県小田原市付近を震央とし、神奈川県中部から相模湾、房総半島南部を震源域とするマグニチュード7.9と記録される(国際的にはM8.2)大地震が発生。東京府、神奈川県、千葉県房総半島南部、静岡県東部、埼玉県・山梨県の一部で、現行でいえば震度7の揺れに襲われた。死者・行方不明者は10万人を超え、全半壊・焼失家屋は37万戸に達した。

関東大震災後の日本橋付近
(1923年9月)

地震発生が、昼食時という時間帯だったこと、台風が通過した直後の風速20メ―トルという強風下だったことが災いし、東京や横浜では多くの火災が発生し延焼した。家屋が密集する東京下町は3日3晩燃えつづけたという。

大災害は必ず流言蜚語(りゅうげんひご)を生むが、地震発生直後からさまざまなうわさが飛び交い、なかでも「朝鮮人が来襲する」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのうわさが拡がる。各地に自警団が組織され、あるいは通行人を誰何(すいか)したり襲ったりして、多くの朝鮮人を虐殺する事件が起きた(6000人が殺されたという説もある)

政府は地震発生後に東京市と周辺5郡に「戒厳令」を敷き、混乱のなか緊急勅令として「治安維持の為にする罰則に関する件」が公布される。言論統制を行なっただけではなく、王希天(ワン・シテイエン)殺害事件、亀戸(かめいど)事件(社会主義者10名を殺害)、甘粕(あまかす)事件(無政府主義者大杉栄(おおすぎさかえ)、伊藤野枝(いとうのえ)、大杉の甥を殺害)などを起こして、社会主義者に対する弾圧を行なった。

支配層は震災が天譴(てんけん)であると唱えて、社会主義思想や奢侈(しゃし)に流れる風俗の統制を強めた。保守化する風潮のなかで、翌1924(大正13)年には、日本労働総同盟は方向転換を、日本共産党は解党を、余儀なくされた。さらに政府は1925(大正14)年に治安維持法を成立させ施行した。  大震災による被害額は55億円に達し、これは前年度一般会計予算の3倍半に相当した。政府は支払い猶予令(ゆうよれい)を出し、かつ寛大な条件で融資を行なった。しかし、緊縮財政を強いられ、震災恐慌をもたらし、1927(昭和2)年の金融恐慌、さらに世界恐慌のあおりを受け、1930(昭和5)年の昭和恐慌を招く引き金となる。日本経済は長い間不況から脱することは出来ず、勤労生活者は「大学はでたけれど」という流行語に象徴される苦しい生活を余儀なくされた。

一方、下町に発展していた伝統的な商工業は壊滅的な打撃を受け、これを機に大資本による資本の集中と合理化が進む。こうして丸の内にオフィス街ができはじめ、東京西部の京浜地域に重化学工業が進出する。また住宅街が山の手に拡がり、都市文化が花開く契機ともなった。 このようにさまざまな意味で、関東大震災は、歴史の大きな転換点となった

第2章 記述による対象化【丸山】

(1)関東大震災の体験

丸山眞男
『小学3-4年生 当用日記帳』
〈丸山文庫草稿類資料341-2〉1923年9月6日条

関東大震災が発生したとき、丸山眞男は小学4年生、9歳であった。この震災と、それにひき続いて発生した出来事は丸山にとって、のちの戦争を上回るような強烈な体験となった。しかし若年であったゆえに、それについて自分なりの評価を体系的に行うことはまだ難しかった。たとえば当時、それ以前の堕落した日本に対する天罰として震災を捉える「天譴(てんけん)論」が流行し、丸山の父・丸山幹治(かんじ)も口にしていたが、丸山はそれを疑うことなく日記に記している。朝鮮人が爆弾を投げているという「恐ろしいうわさ」についても同様に、日記や作文にそのまま記されている。

お父さんが、人間があまり、ぜいたくであつたのでしぜんと天が、ばつをあたへたとおつしやつて、つくづく、わがままをするものではないと思つた。

朝鮮人が爆弾を投げているという「恐ろしいうわさ」についても同様に、日記や作文にそのまま記されている。

この頃朝せんぢんがでてばくだんをなげるさうで、うつかり外へ出られないさうだ。(同前、1923年9月5日条)

丸山は震災の体験を日記やいくつかの作文に記しているが、その中でもっともまとまっているのが、手書きの小冊子『恐るべき大震災大火災の思出』である。その奥付には、震災が起きた月である1923年9月「印」、翌10月「二印」、1924年8月「成本」とあり、全12回の本文が書かれた後に5項目の附録が加えられ、震災から1年近くのちに製本された。

(2)朝鮮人虐殺事件

丸山眞男
『恐るべき大震災大火災の思出』
〈丸山文庫草稿類資料341-5〉

関東大震災発生直後の丸山は、朝鮮人をめぐるうわさをそのまま受け取っていた。ところが、自警団による朝鮮人虐殺が明らかになると、丸山の評価はたんなる受け売りではなくなっていった。それを示すのは、『恐るべき大震災大火災の思出』の附録の記述である。

震火災の後、朝せん人が、爆弾を投げると言ふことが、大分八釜(やかま) しかった。それであるから、多くの、せん人を防ぐのには、警察ばかりではどうしても防ぎきれない。それから自警団と言ふものが、出来たのである。だが、今度の自警団はその役目をはたして居るのではなく、朝せん人なら誰でも来い。皆、打ころしてやると言ふ気だからいけない。

朝せん人が、皆悪人ではない。その中、よいせん人がたくさん居る。それで、今度は朝せん人が、二百余名は打殺されてゐる。その中悪いせん人は、ほんのわづかである。(中略)こんなことなら自警団をなくならせた方がよい。

(3)甘粕事件

丸山眞男
『恐るべき大震災大火災の思出』

震災直後、アナーキストの大杉栄(おおすぎさかえ)、その内縁の妻である女性解放運動家の伊藤野枝(いとうのえ)、そして大杉の甥が憲兵大尉の甘粕正彦(あまかすまさひこ)らに殺害される甘粕事件が起きた。丸山はこの事件に衝撃を受け、『恐るべき大震災大火災の思出』の附録でとりあげようとしたが、目次に項目を立てたのみで結局書かれることなく、項目も抹消されている。

いくらぼくが生意気でもね、小学校四年生でね、大杉栄のことを書けるはずがないですよ。だけど非常なショックだったから。(中略)おふくろなんかは、(大杉の)甥っ子まで一緒に殺されたことで、「ひどい」って言って、小学生のだけど覚えています。(丸山眞男『自由について 七つの問答』)

この事件は丸山の意識に残り続けた。高校時代に検挙され、特別高等警察(特高)の刑事から長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)について、「戦争になったら真っ先に殺される人間だ」と言われたとき、丸山はすぐに大杉栄を連想し、目の前が真っ暗になったという。

(4)母のことばと反省的対象化

丸山セイと子どもたち
〈丸山彰氏提供〉

丸山が震災時に受けた衝撃は、母セイのことばとともに想起されている。甘粕事件については、「ひどい」という母の感想が語られ、朝鮮人虐殺事件については、「長谷川〔如是閑〕さんでさえ朝鮮人のうわさを信じた」という母のことばが紹介されている。他者の評価の受け売りではなく、自分自身で対象を反省的に捉えようになっていく一つの契機として、こうした母のことばが作用したと考えられる。

後年、丸山は、環境に埋没せず、精神的に自立するための一つの方法として、「なにより経験したことを忠実に記述することが、自分をふくめた環境を対象化するけいこになる」と述べている。『恐るべき大震災大火災の思出』を書き、それを製本したことは、自分の環境から距離をとってそれを捉える視点をもちつつあったことのあらわれとしても理解できよう。母のことばと不可分の関係にある震災の体験は、丸山の知的成長過程において大きな画期と位置づけられる。

(5)問題意識の持続性

小学校時代の丸山眞男
〈丸山彰氏提供〉

関東大震災が丸山の知的成長においてもった意味としてもう一つ重要な点は、問題意識の持続性が見られることである。震災時の体験を綴った作文が『恐るべき大震災大火災の思出』として製本されたのは、震災から1年近く経ってからのことであった。甘粕事件を思い起させた特高刑事とのやりとりは、震災から10年目の年に行われている。

震災時の丸山の体験が、特殊なものであったとは考えにくい。当時、東京や横浜などに住んでいた同世代の少年少女の多くも丸山と同じような状況に置かれていた。しかし、戦争体験よりもむしろ強烈だったというほどの深刻さで、のちのちまで震災の体験を意味づけていた者は、どれほどいたであろうか。丸山は、震災の際に直面した問題を意識しつづけた。それは、母のことばに触発され、自分なりの知性の働きによって対象化されたものであったからであろう。

第3章 母の背中【加藤】

1919(大正8)年9月19日生まれの加藤は、関東大震災のときには4歳の誕生日直前だった。渋谷金王町の家で罹災(りさい)した。しかし、加藤には罹災の記憶はほとんどない。わずかに母織子の背中に負われて逃げた記憶だけがかすかに残っているだけである。幼少時の5歳の差は大きく、丸山の場合とは大きく異なっている。

しかも、関東大震災のことについて、文筆業になっても、ほとんど何も書いていない。自伝的小説『羊の歌』にも述べられていない。はっきりと分からないことについては述べない、という加藤の姿勢が貫かれたのだろうか。

それでも加藤の自己形成にとって、大震災後の都市化が進み、都市文化が花開き、「でも暗し」といわれることがあっても「大正デモクラシー」の多少なりとも自由な雰囲気のなかで物心がついたということは、加藤の自己形成に大きな意味をもったに違いない。