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年表
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丸山眞男年譜 | 社会・政治・文化の動き | 加藤周一年譜 | |
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1914年 (大正3年) | 3月:大阪府東成郡天王寺村で丸山幹治の第二子として出生 | 6月:サラエボ事件 7月:第1次世界大戦勃発 8月:ドイツに宣戦布告 | |
1915年 (大正4年) 丸山1歳 | 1月:21か条要求提出 | ||
1916年 (大正5年) 丸山2歳 | 7月:第4回日ロ条約調印 8月:津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』刊行始まる 9月:工場法施行 | 1月11日:加藤信一と増田ヲリ子が結婚 | |
1917年 (大正6年) 丸山3歳 | 5月:兵庫県武庫郡精道村に転居 | 2月:ロシア2月革命 9月:事実上の金本位制の停止 7月:段祺瑞への財政援助を決定 10月:ロシア10月革命 | |
1918年 (大正7年) 丸山4歳 | 8月:米騒動を目撃。丸山幹治、白虹事件により大阪朝日新聞社を退職 | 3月:レスト=リトフスク条約締結 8月:シベリア出兵宣言。大阪米騒動 9月:原敬内閣成立 11月:ドイツ革命、第1次大戦休戦 | |
1919年 (大正8年) 丸山5歳 | 1月:パリ講和会議始まる 3月:3.1運動 4月:戦後ブーム始まる。『改造』創刊 5月:5.4運動 6月:ベルサイユ条約締結 | 9月19日:東京市本郷区本富士町にて加藤信一・ヲリ子の第一子として出生 出生後ほどなく東京府豊多摩郡渋谷村大字中渋谷に転居 | |
1920年 (大正9年) 丸山6歳 加藤1歳 | 4月:精道尋常小学校に入学 巌谷小波『こがね丸』を読む 小学校時代を通じて立川文庫を読む | 1月:国際連盟設立 2月:普選デモ 3月:戦後恐慌始まる 4月:ソビエト=ポーランド戦争始まる 7月:安直戦争。森戸事件 | 10月20日:渋谷村大字中渋谷にて妹久子が出生(中渋谷は1928年に金王町と改称) |
1921年 (大正10年) 丸山7歳 加藤2歳 | 4月:東京府東京市四谷区麹町に転居 この頃、初めて映画を浅草大勝館で観る。 | 3月:ネップ採択 7月:中国共産党創設 10月:『思想』創刊 11月:原敬刺殺される。ワシントン会議始まる。皇太子、摂政就任 | |
1922年 (大正11年) 丸山8歳 加藤3歳 | 四谷区愛住町に転居。四谷第一尋常小学校に転校。スラムの子どもともよく遊んだ | 4月:ラパロ条約 7月:日本共産党結成 10月:イタリアでファシスト政権成立 11月:オスマン帝国滅亡 12月:ソ連成立 | この年、父信一、東京帝国大学附属病院退職 |
1923年 (大正12年) 丸山9歳 加藤4歳 | 9月:関東大震災に関する文章を執筆 | 1月:ルール侵攻 9月:関東大震災、戒厳令施行、モラトリアム実施 11月:ミュンヘン一揆。孫文、「連ソ・容共・扶助工農」方針を出す。虎の門事件 | 9月、関東大震災に遭遇し、母ヲリ子に背負われて逃げる |
1924年 (大正13年) 丸山10歳 加藤5歳 | 3月:東京市学務課主催の「震災記念作品展覧会」に綴方「大震災火災中美談」が出展される 8月:震災体験を記した『恐るべき大震災大火災の思い出』を製本 12月:虎ノ門事件の判決の際難波大助が「共産党万歳」と叫んだことを父から聞く | 1月:第2次護憲運動。第1次国共合作。マクドナルド内閣成立 12月:虎の門事件の判決。築地小劇場開場 | この頃、カトリック系幼稚園に通い始めたが、なじめずにほどなく退園する |
1925年 (大正14年) 丸山11歳 加藤6歳 | 『荒木又右衛門』などチャンバラ映画を盛んに見る | 2月:治安維持法成立、普通選挙法成立 5月:5.30事件 10月:ロカルノ条約 | |
1926年 (大正15年 /昭和元年) 丸山12歳 加藤7歳 | 3月:四谷第一尋常小学校を卒業。武蔵高等学校尋常科入学試験を受けるが不合格。東京府立第一中学校入学試験に合格。合格祝いに新宿武蔵野館で「ボー・ジェスト」を観る 4月:東京府立第一中学校に入学 入学後、新宿武蔵野館で『カリガリ博士』を観る 中学時代は『新青年』『現代日本文学全集』『世界文学全集』『現代日本戯曲全集』を耽読 | 3月:労働農民党結成。中山艦事件 5月:英国炭鉱スト始まる 7月:北伐開始 12月:大正天皇崩御 | 4月:東京府豊多摩郡渋谷町立常磐松尋常小学校(現・東京都渋谷区立常磐松小学校)に入学 幼いころ病弱だったことが、運動を不得意にし、読書に親しませ文学書を好ませる |
1927年 (昭和2年) 丸山13歳 加藤8歳 | 2月:天皇の葬列を観る | 2月:大正天皇大喪の礼 3月:金融恐慌 4月:若槻内閣総辞職。モラトリアム施行。 4月:4.12クーデタ 6月:立憲民政党結成。東方会議 | |
1928年 (昭和3年) 丸山14歳 加藤9歳 | 2月:社会民主党候補・菊池寛の応援演説会を聞く 『グリーン家殺人事件』を原書で読む 浅草金龍館で初めてのオペラ『カルメン』を観る 『丹下左膳』を観る | 2月:第1回普通選挙 6月:張作霖爆殺事件。治安維持法改正 8月:パリ不戦条約 10月:ソ連・第1次5か年計画 | この頃から祖父増田熊六に連れられて従兄たちと映画を見るようになる |
1929年 (昭和4年) 丸山15歳 加藤10歳 | 8月:担任の指導によるものか日記をつける(『休暇日記』)。いくつか俳句もある | 7月:浜口雄幸内閣成立。第2次幣原外交・井上財政始まる 10月:世界恐慌始まる 11月:金解禁。産業合理化政策本格化 | この頃、担任の松本謙次から理科の実験の手ほどきを受ける 同じくこの頃、学級で「小さな事件」が起き、加藤は担任の助け舟に乗ったが、級友たちを裏切ったと心の傷となる この頃、原田三夫編集『子供の科学』を愛読 この頃、菊池寛編集、芥川龍之介協力の『小学生全集』(全88巻)を愛読 |
1930年 (昭和5年) 丸山16歳 加藤11歳 | 3月:中学4年修了で第一高等学校入学試験を受けるが不合格 5月:『嘆きの天使』公開 7月:『学友会雑誌』に"Ononotofu and the Frog"を発表 | 1月:ロンドン海軍軍縮会議(加藤の大叔父岩村清一、随員として参加) 4月:統帥権干犯問題 11月:浜口雄幸狙撃される この年、昭和恐慌始まる | 小学校五年修了予定で東京府立第一中学校の入学試験を受験して合格する この頃、成績優秀な大工の息子が、貧しさゆえに中学進学をあきらめざるを得なかったことに、社会的不平等を意識する この頃、父の書斎で万葉集の註釈本を披き、言葉の響きに感動する |
1931年 (昭和6年) 丸山17歳 加藤12歳 | 4月:第一高等学校文科乙類に入学。 5月:東京市外高井戸町に転居 9月:『四平会会誌』に「ディートリッヒを語る」を発表 高校時代を通じて新カント派の原典を読む(リッケルト『認識の体系』など) 映画『三文オペラ』(G・W・バブスト監督)を観る | 3月:3月事件 4月:スペイン第2共和国成立 9月:満洲事変 11月:瑞金政府成立 12月:橋財政始まる。金輸出再禁止 | 4月:東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)入学 同学年に矢内原伊作、山本進、高坂知英が在籍するも在学時代の親交はなかった 渋谷町大字金王町から同大字美竹町に転居する この頃、自宅2階から夕陽の沈むのを眺めるのを日課とする この頃、映画『三文オペラ』(G・W・バブスト監督)を観る |
1932年 (昭和7年) 丸山18歳 加藤13歳 | 5月:寄宿寮委員に選出。ボート部のストーム問題を処理 | 2・3月:血盟団事件 3月:満洲国建国宣言 5月:5.15事件。『日本資本主義発達史講座』の刊行始まる | 中学時代に『万葉集』に接し、芥川龍之介を愛読し、芥川に導かれてアナトール・フランスへ関心を拡げていく |
1933年 (昭和8年) 丸山19歳 加藤14歳 | 4月:唯物論研究会の講演会に出席し、本富士署に検挙される 9月:一学期、乙類で成績一位。塙作楽から評語を送られる。兄鐡雄、『大阪朝日新聞』京都版に「戦友(大学の歌)」を投書 尾崎咢堂「墓標の代わりに」を読んで衝撃を受ける 高等学校時代にモーパッサン『女の一生』『ミケランジェロの生涯』を読む 映画『巴里祭』(R・クレール監督)を観る | 1月:ヒトラー首相就任 3月:国際連盟脱退 4月:京大事件 5月:塘沽停戦協定 6月:佐野学・鍋山貞親、獄中で転向声明 | 第一中学校になじめずに中学時代を「空白五年」と表現する。中学時代には『学友会雑誌』に一度も寄稿しなかった この頃、映画『巴里祭』(R・クレール監督)を観る |
1934年 (昭和9年) 丸山20歳 加藤15歳 | 4月:東京帝国大学法学部政治学科に入学 8月:岡義武「政治学」講義の課題レポートのために『日本資本主義発達史講座』を熟読。 9月:築地小劇場に通い始める。滝沢修の「夜明け前」を観て感動し、原作を読む。 映画『会議は踊る』(E・シャレル監督)を観る この年、宮沢俊義「憲法」、牧野英一「刑法」、末弘厳太郎「民法第一部」などを受講 | 4月:帝人事件 9月:関東庁職員総辞職を決議 この年、大財閥の満洲進出始まる | この頃、図画のネギ(本名は高城次郎)先生は監督なしの試験を試みたが、不正が発生し、失敗に帰したことに強い衝撃を受ける この頃、映画『会議は踊る』(E・シャレル監督)を観る |
1935年 (昭和10年) 丸山21歳 加藤16歳 | 1月:岡義武に課題レポートを提出 8月:『緑会雑誌』懸賞論文執筆のために政治学の原書を集中的に勉強(ラスキ『理論と実際における国家』『危機に立つデモクラシー』、ブライス『近代民主政治』など) 映画『外人部隊』(J・フェデー監督)を観る この年、蠟山政道「政治学」、神川彦松「外交史」、末広厳太郎「民法第二部」、田中耕太郎「商法」、河合栄次郎の特別講義などを受講 | 2月:天皇機関説事件(国体明徴問題) 6月:梅津・何応欽協定 7月:第7回コミンテルン大会 8月:8.1宣言 10月:エチオピア戦争始まる | 中学四年修了予定で第一高等学校入学試験を受けるが不合格 夏、妹久子とともに初めて信州追分に逗留(以後、亡くなるまで夏季には追分に滞在することを常とする) 追分は、堀辰雄、立原道造、中村眞一郎らと知りあう場となる この頃、映画『未完成交響楽』(W・フォルスト監督)を観る この頃、映画『外人部隊』(J・フェデー監督)を観る |
1936年 (昭和11年) 丸山22歳 加藤17歳 | 2月:2.26事件の性格をめぐって兄と論争 4月:南原繁「政治学史」受講、「開講の辞」に衝撃を受ける。南原の政治学史講義の演習「ヘーゲル『歴史哲学序説』」に参加 5月:新協劇団の「帆船天祐丸」を観る 8月:松本武四郎のすすめでロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』『ベートーヴェンの生涯』を読む 9月:緑会懸賞論文に「政治学における国家の概念」を提出、入選 12月:南原のすすめで助手に応募、日本政治思想史を志す この年、末弘厳太郎「民法第三部」、大内兵衛「財政学」、中田薫「法制史」、蠟山政道「行政学」、矢内原忠雄「殖民政策」などを受講 『ローザ・ルクセンブルクの手紙』、ウェーバー『経済史』「職業としての政治」「議会と政府」、マンハイム『イデオロギーとユートピア』などを読む | 2月:2.26事件 5月:斎藤隆夫「粛軍演説」 8月:五相会議 11月:日独防共協定 12月:西安事件 | 2月:学校卒業直前に2.26事件に遭遇し、政治の冷酷さを実感する 3月:東京府立第一中学校卒業、卒業アルバムには、加藤の写真は見当たらず、記念撮影を拒んだと思われる 4月:第一高等学校理科乙類入学。寄宿寮に入る 4月:庭球部と映画演劇研究部に所属 高校時代、公開される映画のほとんどを妹久子と連れ立って観る ドイツ文学の片山敏彦、国文学の五味智英の授業にも出席 また中村真一郎、大野晋、小山弘志らと五味智英が指導した『万葉集』の輪読に参加 12月:第一高等学校の『向陵時報』に「映画評「ゴルゴダの丘」」を藤沢正という筆名で発表(もっとも早い公表著作) |
1937年 (昭和12年) 丸山23歳 加藤18歳 | 4月:東京帝国大学法学部政治学科卒業。同学部助手となる。憲兵隊に召喚される 4~5月:徴兵検査を受ける 5月、南原の招待で文楽「八百屋お七」を観る 6月:矢部貞治の講演を聞く 7月:初めて発哺に行く 12月:スキーから帰京後、肺炎となり3か月休職 この年、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、古在由重『現代哲学』、ドストエフスキー『悪霊』、初期マルクスの著作、ラスキ『近代国家における自由』を読む 助手時代を通じてヘーゲル『精神現象学』、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、ボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』を読む。アテネ・フランセでフランス語を学ぶ 助手時代に宮沢俊義に誘われ能楽堂に行く | 6月:第1次近衛文麿内閣成立 7月:盧溝橋事件 8月:吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(新潮社)刊行 12月:矢内原忠雄が東京帝国大学経済学部教授を辞職。南京占領、南京事件。第1次人民戦線事件 | この頃、矢内原忠雄の授業に出たが、その授業は自由主義者の最後の「遺言」を聞いているのだと感じる この頃から「ノート」(『青春ノート』加藤周一文庫デジタルアーカイブで公開)を採りはじめ、創作、評論、日記の区別なく記す この頃、映画『新しき土』(A・ファンク、伊丹万作監督)を観る 2月、『向陵時報』に「映画評「新しき土」」を発表 10月:「劇評「アンナカレーニナ」」と「劇評「土」」を『向陵時報』に発表 12月:「劇評「キノドラマ新選組」を『向陵時報』に発表 |
1938年 (昭和13年) 丸山24歳 加藤19歳 | 療養中に波多野精一『宗教哲学』を読む 1月:「1936―37の英米及び独逸政治学界」を『国家学会雑誌』に発表 4月より:平泉澄の日本思想史講座を聴講 9月:応召、即日帰郷。和辻哲郎の日本倫理思想史の講義を聴く 12月:劇団東童「君たちはどう生きるか」を観る この年、福沢諭吉『文明論之概略』、大塚久雄『株式会社発生史論』『欧州経済史序説』、土屋喬雄『日本経済史』、ジンメル『哲学の根本問題』を読む。『民族の祭典』『美の祭典』を観る | 2月:第2次人民戦線事件 3月:オーストリア併合 4月:国家総動員法公布、電力国家管理実現 9月:ミュンヘン協定 10月:武漢占領 | 1月:小説「小酒宴」を『向陵時報』に発表 2月:小説「正月」(自選集1に収録)を『校友会雑誌』に発表 3月:発禁処分を受けた石川達三の「生きてゐる兵隊」(『中央公論』)を読む。処分漏れを入手したらしい 3月:庭球部は退部 4月:第一高等学校の『校友会雑誌』の編集委員を務める。また文芸部委員も務める 6月:小説「従兄たち」を『校友会雑誌』に発表 11月:小説「秋の人々」を『校友会雑誌』に発表 この頃、映画『舞踏会の手帖』(J・デュヴィヴィエ監督)を観る |
1939年 (昭和14年) 丸山25歳 加藤20歳 | 10月より:津田左右吉「東洋政治思想史」講義を聴く 12月:津田左右吉、原理日本社系学生から質問攻め、丸山が守る | 1月:平賀粛学 5月:ノモンハン事件 9月:第2次世界大戦勃発 | 1月:「マルキシズム」について「ノートⅢ」に綴る 2月:「戦争と文学に関する断想」を『向陵時報』に発表(著作集8に収録) 3月:東京帝国大学医学部入学試験に不合格 3月:第一高等学校理科乙類卒業 この頃、横光利一を座談会に呼び、論争を挑むことになる 4月:浪人生活始まる。予備校に通わず自宅で学習 6月:小島信夫、矢内原伊作らと同人誌『崖』の創刊に参加し、小説「春日抄」を発表、 10月:詩「窓」を『崖』に発表 この年、ヴィットコップ編『ドイツ戦歿学生の手紙』、カロッサの従軍日記『ルーマニヤ日記』、レマルク『西部戦線異状なし』、火野葦平『麦と兵隊』などを読む |
1940年 (昭和15年) 丸山26歳 加藤21歳 | 2~5月、「近世儒教の発展における徂徠学の性質並にその国学との関連」を『国家学会雑誌』に発表 6月、東京帝国大学法学部助教授となる 9月、「或日の会話」を『公論』に発表 10月より、村岡典嗣「東洋政治思想史」講義を聴く 10月、昭和天皇が東京帝国大学に行幸 | 2月:齋藤隆夫「反軍演説」。翌月、議員除名 7月:第2次近衛内閣成立。大本営政府連絡会議で武力行使を含む南進政策決まる 9月:北部仏印進駐。日独伊三国同盟成立 10月:大政翼賛会発会 | この頃、「小林秀雄論序」「立原道造論序」「立原道造論覚書」を「ノート」に綴る 4月:東京帝国大学医学部入学。 この頃、湿性肋膜炎を患い、一時生死のあいだを彷徨った この年から医学部の授業を受けながらも、文学部仏文研究室に出入りし、辰野隆、鈴木信太郎、渡邊一夫の薫陶を受ける。中島健蔵、森有正、三宅徳嘉などとも知己を得る この頃、夏季を過ごした追分では、一日中、フランス文学を読む。ことにポール・ヴァレリーを好んで読む この頃、太田正雄の「皮膚科学講義」を受講し感銘を受く |
1941年 (昭和16年) 丸山27歳 加藤22歳 | 6月、独ソ戦が始まり、家で万歳を叫ぶ 7月から翌年8月にかけて、「近世日本政治思想における「自然」と「作為」 ─ 制度観の対立としての」を『国家学会雑誌』に発表 11月、『スミス郡へ行く』を観る 12月、研究会で南原の「このまま枢軸が勝ったら世界の文化はお終いです」という一言を聞く この年、「津田左右吉博士の裁判に関する上申書」の署名を集める。E.H.ノーマンを知る | 4月:日ソ中立条約。日米交渉始まる 6月:独ソ戦始まる。南部仏印進駐 10月:東条英機内閣成立 12月:対米英蘭開戦 | この頃、藤原定家、実朝、西行、建礼門院右京太夫の歌集を読む 医学部学生の同人誌『しらゆふ』に「嘗て一冊の『金槐集』余白に」を発表 12月8日:太平洋戦争開戦の日、「ノート」に「弾丸や飢えは僕を変へるであらう。勇気の要るのもその時であらう」と綴る 同日、新橋演舞場で文楽の引っ越し公演を観たと『羊の歌』に記されるが、豊増昇のベートーヴェン・ピアノソナタ連続演奏会の最終回に行ったと思われる |
1942年 (昭和17年) 丸山28歳 加藤23歳 | 2月、蠟山道雄と発哺へスキー旅行 3月、東京帝国大学東洋文化研究所員を兼ねる。東洋学会設立に参加 4月、「福沢諭吉の儒教批判」を『東京帝国学術大観』に発表 5月、歴史学研究会日本史部会で「近世封建社会の基礎づけ方の二態様」という題で報告 6月、「神皇正統記に現はれたる政治観」を『日本学研究』に発表 10月、東京帝国大学法学部政治学政治学史第三講座を担当 | 4月:米空軍による日本本土初空襲。翼賛選挙 6月:ミッドウェー海戦で敗北 9月:細川嘉六、『改造』掲載論文を理由に検挙(横浜事件の発端となる)。座談会『近代の超克』(『文学界』) | 4月:《ほろびしものは美しきかな》という句をもって「青春ノート」(人文書院)の記述は終わる 11月:「物象詩集に就いて」を『四季』に発表 秋、中村眞一郎、福永武彦、窪田啓作らと文学者集団「マチネ・ポエティク」を結成。主として加藤の自宅に定期的に集まり、創作作品の朗読を行なう この頃、カソリック指導者岩下壮一の著作をさかんに読み、岩下に師事した倫理学の吉満義彦の講義を受ける |
1943年 (昭和18年) 丸山29歳 加藤24歳 | 11月、「福沢に於ける秩序と人間」を『三田新聞』に発表 安井郁の招きで辻清明と『フィデリオ』の日本初公開を観て落胆する | 1月:谷崎潤一郎『細雪』連載禁止される 2月:ガダルカナル島撤退 9月:イタリア無条件降伏 12月:学徒出陣始まる | 9月:東京帝国大学医学部を繰上げ卒業。同大学付属病院佐々内科に副手として勤務。 11月:詩「妹に」(2編)を『向陵時報』に発表 この頃、中尾喜久、三好和夫に徹底して血液学と実証主義的方法を叩きこまれる |
1944年 (昭和19年) 丸山30歳 加藤25歳 | 3月、結婚 5月、文学座「富島松五郎伝」を観る 7月、「国民主義理論の形成」後半部分を執筆 10月、応召、朝鮮に向かうも発病により内地送還 応召より帰還後、新交響楽団のベートーヴェン第9番交響曲を聞きに行く | 6月:マリアナ沖海戦 7月:東条内閣総辞職。横浜事件により中央公論社と改造社が解散を命じられる 10月:レイテ沖海戦 | 5月:戯曲「トリスタンとイズーとマルク王との一幕」を『向陵時報』に発表 この頃、日中には医局に詰め被災者の治療に当たり、夜間は病院に寝泊まりし、フランス文学を読みふける生活となる |
1945年 (昭和20年) 丸山31歳 加藤26歳 | 3月、広島市の陸軍船舶部隊に応召 4月、陸軍船舶司令部参謀部情報班に転属(入手した情報は『備忘録』にまとめる) 8月、広島原爆投下に遭遇し被ばく。母死去。谷口太郎少佐に満洲事変以後の日本政治史を講義 9月、召集解除。ノーマンのために東京帝国大学図書館蔵の安藤昌益『自然真営道』の資料選択を行う 尾形典男らとラスキ“A Grammar of Politics”の読書会を始める 10月、田中耕太郎、高木八尺、高坂正顕とともに近衛文麿に面会。青年文化会議結成に参加 11月、緑会で講演 12月、三島文化協会主催の講演会で講演 復員後、渋谷の映画館で『ペペ・ル・モコ』を観る | 2月:ヤルタ会談 3月:東京大空襲 4月:米軍沖縄上陸 5月:ドイツ降伏 7月:ポツダム会談 8月:広島・長崎に原爆投下。ポツダム宣言受諾、玉音放送 9月:降伏文書に調印。アメリカ大統領対日方針発表。GHQ、軍需生産全面停止を指令。三木清獄死 10月:5大改革始まる。治安維持法廃止。国際連合成立 11月:財閥解体 12月:婦人参政権。労働組合法公布 | 3月:東京大空襲に際し大学病院で被災者の治療にあたる 春、東京帝国大学医学部佐々内科教室とともに信州上田の結核療養所に疎開した 7月下旬:報道の論調が「徹底抗戦」から「国体護持」に変化するのを察知する 8月:上田で敗戦を迎える。周囲の加藤に対する態度が一変することを感じた 9月:信州上田から帰京し、焼け野原の東京を目撃する この頃、東京都目黒区宮前町に転居 10月:日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として約二か月間広島市宇品に滞在し、治療と調査に従事する。戦後、このときに知り合ったメイスン博士を仲介にして、米国留学を図った(しかし、母ヲリ子の逝去を契機に、沙汰止みになる) |