所長 芳村弘道 先生(文学部 特任教授) 、副所長 大形 徹 先生(衣笠総合研究機構 教授)

国際情勢が激動する昨今、日本と近隣の国々との関係もますます複雑化してきている。一方で、東アジア諸国は遥か古代から交流をもつ「東洋」というひとつの文化圏でもあるということも忘れてはならない。そうした「東洋」という概念を、漢字を中心とする文字文化から捉え直した人物こそ、立命館大学の故・白川静名誉教授である。

「白川静記念 東洋文字文化研究所」は、白川静先生が拓いた東洋文字文化研究を継承した研究拠点である。その成り立ちと活動について、所長の芳村弘道先生(文学部 特任教授)、副所長の大形徹先生(衣笠総合研究機構 教授)に伺った。

白川静先生が構想した、漢字を中心とする「東洋文字文化」の復興拠点

漢字を中心とした東アジアの文化研究が評価され、2004年に94歳で文化勲章を受章した白川先生。同じ年に東洋文字文化の研究所を立ち上げることを決意し、自ら出資して2005年に設立したのが「白川静記念 東洋文字文化研究所(以下、白川研究所)」だった。

白川静先生
白川静先生

白川先生が研究所設立に込めた思いについて、当時、白川先生の邸宅に招かれて研究所の構想を聞いたという芳村先生はこう語る。

「白川先生は晩年、『東洋の回復』ということを仰っていました。東アジアにおける国際言語である漢字が、同地域の人々が連携するため軸になると考えておられたのです。日本文化の根底にも漢字がありますが、現在の漢字文化を見渡してみると、日本では常用漢字が用いられ、中国は簡体字が公用され、また韓国では漢字使用が極めて少なくなり、歴史的また地域的に見て漢字文化圏の繋がりが弱くなってしまっています。そこで白川先生は、東アジアという地域に広く浸透し、過去から未来へ脈々と続いていくものとして漢字を捉え、そうした漢字文化を再興させる拠点として研究所を構想されたのです」

白川研究所では、「東洋文字文化とは、東アジア世界において、漢字を形成した民族、漢字を受容した民族、あるいは漢字を受容しつつも独自の文字を生んだ民族が、文字を媒体として表わした文化を指す」と定義している。「東洋文字文化の研究を通して東アジアの国や地域同士の交流を促すとともに、それぞれの国や地域の文化の豊かさを見つめ直すことをめざしています」と芳村先生。

設立翌年に白川先生は逝去されるが、研究所では白川先生の志を引き継ぎ、さらに発展させる形で研究および教育普及活動が続けられてきた。その業績が学内で認められ、2018年にはそれまでの期限付きの体制から常設研究所へとステップアップし、現在に至っている。

芳村弘道先生(白川研究所 所長)
芳村弘道先生(白川研究所 所長)

遥か古代に遡り、東洋の歴史や思想を一望した「白川文字学」

白川先生が打ち立てた文字研究は、いつしか「白川学」「白川文字学」と呼ばれるようになるほど独創的で画期的なものだったという。その特徴について芳村先生に伺った。

「白川先生といえば漢字研究が真っ先に挙げられますが、もとを辿れば若かりし頃に万葉集に興味を持たれたことが端緒になっています。白川先生は十代の頃から中国最古の詩集である詩経も読んでおられて、日本と中国の両者に東洋という広い文化圏としてのつながりを感じておられました。万葉集や詩経を理解するためには、その背景にある東アジアの文化・歴史を掘り下げる必要があると感じて中国古代の文献を遡っていくと、殷末期から周の初期にかけて使われていた甲骨文字や、周代の金文といった古代文字に行き当たります。これが白川文字学のはじまりでした。

白川先生の研究で特筆すべきは、文字だけではなくその背景にある東アジアの歴史、民族、文化、思想を体系的に研究されたことです。それらを土台として、さらに甲骨文字を一枚一枚手書きでトレースしていくことで、古代人の考え方をなぞりながら漢字の成り立ちを探究されました」

漢字の起源に関する研究は数あれど、白川文字学の説得力はその圧倒的な視野の広さにあるという。白川先生の研究はそれだけにとどまず、詩経の読解や日本文化の研究においても大きな業績を残している。

「万葉集と詩経との比較研究をはじめ、漢字だけにとどまらず東アジアという大きな枠組みで文化・思想のあり方を探究されたことが、『東洋学』あるいは『東洋文字文化』という学問につながっていきます」

東洋文字文化はどのようにして東アジアの人々をつないできたのだろうか。そのひとつの側面として、大形先生はこんな例を上げる。

「東洋史学者の内藤湖南の話ですが、彼が中国を訪れたときに、現地の文人たちに漢字による筆談でやりとりしたというエピソードがあります。その書き文字からにじみ出た人柄や教養でもって内藤は現地の文人たちから尊敬を集めたというのです。同じように、朝鮮使節が日本を訪れた際にも、日本の文人たちと漢文や漢詩のやり取りをしていました。漢文というのは文語なので話し言葉とは勝手が違って、短いテキストの中にいくつもの典拠を盛り込むという習慣があります。ほんの数文字に大きな世界を託し、それによって相手に教養や人柄を伝える。そうしたところに、国境を超えた東洋文字文化の豊かさがあるように思います」

大形徹先生(白川研究所 副所長)
大形徹先生(白川研究所 副所長)

文字、漢籍、日本。白川研究所が取り組む3つのプロジェクト

白川研究所では現在、白川文字学の流れを汲む漢字学研究、日中韓共同の漢籍研究、日本の歴史文献の研究という3つのプロジェクトに分かれて研究事業に取り組んでいる。そのうち漢字学研究に取り組む大形先生は、経緯をこう振り返る。

「当時私は大阪府立大学に勤める傍ら、いろいろな大学の研究者が集まる甲骨文字の研究会に所属していました。白川研究所ではその頃、2代目所長の加地伸行先生(現・白川研究所 顧問)が甲骨文字や金文を扱える研究者を探しておられて、私にもお声がかかったんです。そこで私が甲骨文字の研究会のメンバーを紹介したところ、立命館の援助を受けて新たに漢字学研究会を立ち上げることになりました。図らずも、白川先生の古代文字研究の続きを引き継がせていただいた形ですね。漢字学研究会の紀要である『漢字学研究』を創刊したのが2013年で、その流れで白川研究所に合流し、現在は国内外の漢字学研究の拠点となっています。

研究のネットワークとしては、韓国に事務局を置く世界漢字学会や漢検(日本漢字能力検定協会)が設立した日本漢字学会とつながりがあります。中国やドイツで研究発表を行ったり、逆に本学で国際学会を開催したりと、文字を通した交流を深めています」

大形先生が「文字」に焦点をあてたプロジェクトに取り組む一方、芳村先生が取り組むのは漢籍研究、つまり漢字で書かれた「文献」の研究プロジェクトだ。

「中国・南京大学の域外漢籍研究所、韓国・高麗大学校の漢字漢文研究所と白川研究所の三者で2017年に連携協定を結び、『東亜漢籍交流国際学術会議』として日中韓で交流を深めながら漢籍研究を進めています。毎年持ち回りで交流会を開くことになっているのですが、残念ながら2020年以降は新型コロナウイルスの影響で開催できていません。オンラインでの交流は続いているものの、対面での交流を再開できる日を心待ちにしています。

漢籍研究で現在力を入れて取り組んでいるのは、『朝鮮渡り唐本』、つまり中国、韓国、日本を渡り歩いてきた文献の足跡をたどる調査です。朝鮮を経由した漢籍は、表紙だけが朝鮮風に仕立て直されていたりするという特徴があります。それが秀吉の朝鮮出兵や、江戸時代の交易によって日本に渡り、日本から再び中国や韓国に渡ったものもあれば、アメリカや台湾に渡ったものもあります。近代史とともに漢籍が辿った流転の運命を、地道に現地を尋ね回って調査していきます。こちらも中国・韓国の研究者と共同研究になりますが、コロナの影響で本格的な調査はこれからになります」

3つ目の柱である日本の歴史文献研究プロジェクトではどんな研究が行われているのだろうか。こちらも芳村先生にお答えいただいた。

「このプロジェクトは前所長である杉橋隆夫先生が始められたもので、日本の文献資料の中に使われている漢字や漢語について研究しています。直近では、本学からもほど近い陽明文庫に所蔵されている五摂家筆頭の近衞家の資料や関連する大徳寺の禅僧の漢詩文集を研究対象として、江戸時代の公家がどんな漢学を学んでいたのかというテーマに取り組んでいます。江戸時代の文献に関する研究はこれまで主に国文学のテーマとして扱われてきたため、漢籍についてはあまり研究が進んでいませんでした。しかしそもそも仮名文字も漢字から転じたものですから、日本文化と漢字文化は切っても切り離せないものなのです。これらを包括して東洋文字文化という概念を提唱されたところに白川先生のお考えの深みがあります」

左から『漢字学研究』、白川研究所紀要、一般向け定期刊行物『白川研究所便り』
左から『漢字学研究』、白川研究所紀要、一般向け定期刊行物『白川研究所便り』

漢字の魅力を社会に発信するユニークな取り組み

白川研究所のもう一つの側面として、教育普及活動がある。これまで、子どもから大人までを対象とした体験型講座「漢字探検隊」を開催してきたほか、小学生向けの漢字教材の開発、漢字を教える力を認定する「漢字教育士」の認定講座、さらには古代文字をフォント化した「白川フォント」の無料配布など、ユニークな活動を積極的に行っている。

「教育普及活動については、本学衣笠キャンパス地域連携課の職員であり、白川研究所の運営委員でもある久保裕之さんが中心となって取り組んでくださっています。漢字探検隊もそうですし、講師としていろいろな講演会に登壇したり、漢字教育士の普及にも飛び回っておられます」と芳村先生。

「白川先生は字源字典の『字統』、古語辞典の『字訓』、漢和辞典の『字通』という3つの辞書を手がけられています。このうち『字統』『字通』では甲骨文字まで遡って漢字の成り立ちを扱っているのですが、ひとつ漢字を調べると他の漢字についても知りたくなり、次々と辞書を引くうちに漢字全体に対する理解が深まるように作られています。白川先生以前には甲骨文字まで遡ることのできる辞書はありませんでしたから、それまでの常識を打ち破って、新しい漢字の見方を提示したのがこれらの辞書だったのです。そんな漢字の魅力、白川文字学の魅力を広めることも、私たちのミッションです」と大形先生。

白川文字学の息吹は実際の教育現場にも生かされているという。白川先生の出身地である福井県の小学校では、最近まで漢字教育のカリキュラムに白川文字学が組み込まれていた。前出の久保さんが講師として招かれることもあったそうだ。

「漢字探検隊」の様子。左端が漢字教育士でもある久保裕之さん
「漢字探検隊」の様子。右端が漢字教育士でもある久保裕之さん

「白川文字学」のその先へ

常設となって4年目を迎える白川研究所。今後の展望について芳村先生は、「まだ3部門体制が整ったばかりなので、まずは研究体制を充実させることですね。それとともに、若手研究者の発表の機会を増やして、後進の育成にも力を入れていきます」という。

芳村先生によると、白川先生は生前「私を乗り越えて行け」ともおっしゃっていたそうだ。大形先生は、白川文字学の未来をこう語る。

「中国古代文字に関しては、近年になって新しい資料が続々と発見されていて、その中には甲骨文字や金文に新しい解釈を加えるような資料も含まれています。これらは当然、白川先生がご覧になっていない資料ということになります。白川先生の研究をバイブルにするのではなく、さらに発展・進化させていきたいと考えています」

平井嘉一郎記念図書館「白川静文庫」にて
平井嘉一郎記念図書館「白川静文庫」にて

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