【知の拠点を訪ねて】人々の多様な願いをとらえ、ものづくりの未来を構想する ものづくり質的研究センター
消費者の志向が「もの」消費から「こと」消費へと変化しつつあると言われて久しいが、変革がさらに加速するなかで未来を見通すことは簡単ではない。便利な商品やサービスが次々と登場し、消費者のニーズも多様化するなか、本当に必要とされているのはどんなものづくりなのだろうか。
「質的研究」によって人々の願いをとらえ、新しいものづくりに役立てる研究をしているのが「ものづくり質的研究センター」だ。センター長のサトウタツヤ先生(総合心理学部 教授)、副センター長の安田裕子先生(総合心理学部 教授)に伺った。
ものづくりのための質的研究と人材育成の拠点
サトウ先生と安田先生は、心理学のアプローチのひとつとして質的研究手法に取り組んできたという。センター設立の経緯についてサトウ先生はこう説明する。
「たとえば新しい商品を販売するとき、企業では価格帯や顧客の年齢層といった変動要素を設定してアンケート調査などの膨大なデータをもとに売れ行きを予測する、いわゆるマーケティングリサーチを行います。これは量的研究法といえます。それに対して私たちは、『複線径路等至性モデリング(Trajectory Equifinality Modeling 以下TEM)』という質的研究法を使うことを提案します。この研究手法は2004年から私たちが開発してきたものです。TEMとは調査対象一人ひとりにインタビューを行い、時間経過に沿ってさまざまな選択や行動の過程を二次元の図を用いて可視化する質的研究法です。
TEMの研究会を開催していたあるとき、自動車メーカーのマツダ株式会社(以下マツダ)の方が訪ねてこられました。マツダは『Be a driver.』のキャッチフレーズのとおり、運転することを楽しむという価値を前面に打ち出している企業です。顧客がどんな選択を経て自動車を購入し、楽しんでいるのかを知るために、既存のマーケティングリサーチではなくTEMの手法を取り入れてみたいということでした。
この話をきっかけに、質的研究手法であるTEMを扱える人材の育成プログラム開発を一緒にやっていきましょうということになり、立命館大学とマツダの間で共創活動の基本契約を結びました。共同研究に目処を得た2019年において、多くの企業を対象に、研究をさらに発展させ人材を育成する拠点として設立したのが、ものづくり質的研究センターです」
〈もの〉と〈こと〉を〈しな〉でつなぐ
今、なぜものづくりに質的研究が必要とされているのだろうか。それは、サトウ先生が提唱する〈もの・こと・しな〉という概念と密接に関係しているという。
「便利なものはどこにでも溢れかえっている今の時代、大事なのは『ことづくり』だと言われています。それに対して、私は〈もの〉と〈こと〉を対立させるのではなく、その中間に〈しな〉を置いて両者をつなげるスキームを提案してきました。
たとえば、『食』に〈もの・しな・こと〉をつけると〈食物・食品・食事〉となり、ちょうど一次、二次、三次産業に対応します。一人でお腹を満たすときに食べるものと大切な人とのデートのときに食べるものは違いますよね。食物という〈もの〉を通じて食事という〈こと〉を成就させるためには、目的に応じた食品のあり方、つまり〈しな〉やサービスを経由する必要があります。数ある商品のなかからある商品を選んでもらうためには、それによってどんな体験を得られるのかを〈しな〉という形で示すことが必要なのです。
〈もの〉と〈こと〉をつなげるという視点に立つと、人々がものを通してどんな願いを叶えたいのかを知ることが重要になります。ここで役に立つのが、TEMのような心理学にもとづく質的研究手法です。インタビューを通じて人々の願いを汲み取り、商品開発やその先の『ことづくり』に役立てる。これがセンターの基本理念です」
その言葉のとおり、センターには質的研究を必要とする企業や自治体からのオファーが次々と舞い込みつつあるという。化粧品メーカーの新商品の使い心地の質的評価、ウェアラブルウォッチを使った新しい「ことづくり」、自治体が取り組むまちづくりの評価まで、多種多様なプロジェクトが進行しているそうだ。
人がたどった選択や行動を時間経過のなかでとらえる「TEM」
センターの大きな特色である質的研究手法、TEMとはどんなものなのか。TEMの第一人者である安田先生に伺った。
「あるテーマについて人々がどんな願いをもちどんな選択をするのかを、人生との関連、つまり時間経過に沿って可視化するのがTEMという手法です。
TEMは時間を横軸に取った径路図になっています。ゴールである〈等至点〉(たとえば『自動車を購入する』という出来事)を定めたうえで対象者にインタビューを行って、径路が分岐する〈分岐点〉、おおよその人が必ず経験するような〈必須通過点〉といった出来事を、プロットしていきます。どんな径路で等至点に行き至るかには、社会的・文化的な力が働いてもいます。とくに、多くの人が通る必須通過点には、社会的・文化的背景が現れやすいです。等至点に向かう選択を助けるような力を社会的助勢、逆に選択を邪魔するような力を社会的方向づけと呼んでいます。このようにして、等至点までの潜在的な道筋も含めた選択のプロセスやそこに働く力を可視化するのです」
TEMの基礎となる「等至性(Equifinality)」という概念は、もともと文化心理学者ヤーン・ヴァルシナー氏によって提唱されたもの。サトウ先生がこの概念に着目してヴァルシナー氏を日本に招聘したことをきっかけに、安田先生が自身の論文に取り入れたのが現在につながるTEMのはじまりなのだという。研究手法としてのTEMと、それを支える理論を合わせた研究アプローチ全体を「複線径路等至性アプローチ(Trajectory Equifinality Approach 以下TEA)」と呼ぶそうだ。
「これまで研究会という形で設けていたTEAに関する学びの場をさらに広げるために、2022年4月に『TEAと質的探究学会』を立ち上げました。学術的な研究手法として見たときに、質的研究はその分析において、いわゆる『信頼性』に疑問をもたれやすいというハードルがあります。TEAを使って研究されている方々が高いモチベーションをもって研究に取り組むためのプラットフォームになればいいなと思っています」
学びの場は、研究者やものづくりや人材育成などにかかわる実務家が集うネットワークとしても機能しているそうだ。なかには自身でTEAの講習を始めた人もいるという。誰もが自由にTEAを使い、その情報を共有することで、手法自体がさらに洗練されてゆく好循環が起こっている。
文理融合で挑戦する「4つのアクション」
ものづくり質的研究センターでは、心理学、認知科学、社会情報学、イノベーションマネジメントの4分野の専門家が協働する「4つのアクション」で新しいものづくりのあり方を模索しているという。その内容をサトウ先生に伺った。
「第1のアクションは、顧客を深く理解することを通して既存の商品やサービスの概念を検証することです。ここではこれまでお話してきたように、TEMをはじめとする心理学的アプローチを使います。第2のアクションはストーリーテリングです。浮かび上がってきた顧客一人ひとりの願いから新たな商品サービスのコンセプトを立ち上げるため、映像という伝達手段で顧客のストーリーを再編します。第3のアクションでは、VR(仮想現実)などの技術を使ってまだ実現していない未来の顧客体験を描きます。そして、これらのアクション全体を経営的な視点も含めてマネジメントするのが第4のアクションです」
伝達手段を広げることで、TEM自体もより応用的に扱えるようになると安田先生は言う。
「私たちは通常、TEMを平面上で扱っていますが、かつて、複数の人びとの体験をひとつの立体図として捉え可視化しようとする研究もありました。たとえば、ある分岐点をクリックすると、個々の多様な体験を一覧表示できるような映像技術を用いたツールが開発されてもいます。ストーリーテリングとデザインを組み合わせて映像で表現し、さらにVRにより可視化することで、受け手が当該経験を理解することのできる環境を創り出していく。文理融合の掛け算で新しい何かを作り出していくという挑戦です」
4つのアクションそれ自体が、過去から現在、未来の体験へと時系列に沿って進むTEM的な構想だとサトウ先生。文理融合でどんな未来が拓けるのか、その可能性は計り知れない。
ものづくりと質的研究の和集合を幅広く探究したい
センターの活動は今後どう展開していくのだろうか? サトウ先生はこう語ってくれた。
「私たちの取り組みはあくまでものづくりと質的研究の和集合なので、狭い範囲にとどまらず、なるべく幅広く研究を進めていきたいですね。どちらかの研究が進展することが、もう一方を引き上げることにもつながります。
それと、ゆくゆくは発展的解消もありかなと思っています。というのも、未来志向のものづくりを追求していけば、いずれは社会そのものの仕組みとどう調和していくかという問題に直面するでしょう。たとえば、空飛ぶ自動車を開発するならば、新しい法制度のあり方についても考える必要が出てきます。そうしたときに、より広い視座からアプローチができる研究機関と協働したり、場合によっては一体化したりすることで、立命館が発信するものづくりの価値を高めていくことも大切になってくるのではないでしょうか。もちろん、その場合も核となる質的研究の革新については手綱を緩めるつもりはありません」
想像を超えた革新が生まれそうな予感がする。