研究プロジェクトレポートvol.2

2023.04.07 TOPICS

研究プロジェクトレポートvol.2
当事者とともにつくるアーカイブズ。
歴史に埋もれた医療分野のELSIを検証する研究基盤構築

医療の進歩は人類の歴史を大きく変えてきた。しかし、過去の医療政策の中には、現在から見れば重大な問題を抱えていたものも存在する。たとえば精神医療や優生保護法に関する政策がそれに当たるだろう。近年、新しい科学技術の導入に際してELSI(Ethical, Legal and Social Issue:倫理的・法的・社会的課題)を検討する動きが一般的になっている。その一方で、過去を顧みることはこれまでほとんどなされてこなかったそうだ。これは当事者の現在と未来にとって切実な問題だ。

立命館大学の副学長が手掛ける研究プロジェクトレポート第2弾では、優生政策をはじめ科学史と生命倫理の問題を研究する副学長の松原洋子先生と、松原先生とともにELSIの研究プロジェクトに取り組む同プロジェクト代表の後藤基行先生にお話を伺った。

医療史研究で痛感したELSIと歴史研究のギャップ

後藤先生と松原先生が取り組むのは、RISTEX 社会技術研究開発センターが募集するELSIへの包括的実践研究開発プログラムに採択された「医療・ヘルスケア領域におけるELSI の歴史的分析とアーカイブズ構築」というプロジェクト。ELSIといえば最新の科学技術において問題にされることが多いが、あえて過去に目を向けるねらいを後藤先生に伺った。

「私の専門は医療社会学や歴史学・歴史社会学ですが、以前に医療政策の立案に関わる国立の医療系シンクタンクで働く機会がありました。それまで私は医療政策というのは過去の医療制度の歴史的考察を踏まえて検討されるものだと思っていたのですが、実際にはそうした視点はほとんどなく、『歴史学って現在にどんな意味があるの?』と真顔で聞かれたことがあるほどでした。翻って歴史研究の側はどうかというと、その専門性を通して今の社会に貢献することはほぼ考えられていないのが実情です。歴史と現代、そして未来は何らかの形でつながっているはずなのに、現実には両者の間に大きな乖離があることを知りました。

今回のRISTEXの公募では科学技術を社会のためにどう役立てられるかという大枠のテーマが設けられていて、従来の歴史学の枠組みに収まらないテーマに取り組むチャンスだと考えました。自分の研究がどのように社会に貢献できるのか、松原先生とも相談させていただく中で見えてきたのが、ELSIの視点を医療の歴史に向けてみるということでした。考えてみると、私が主に取り組んでいる精神医療の歴史の中にも現在で言うELSIに該当するような問題は沢山ありますが、ELSIの対象になるのは先端科学技術ばかりです。このことに疑問を覚えました」

優生保護法のもとで強制的に行われた不妊手術の問題や精神科の長期入院の問題など、医療科学分野では今で言うELSIの原型のような問題が存在していたが、これまでそれがほとんど認知されてこなかった。後藤先生が持っていた医療制度史にまつわる問題意識とELSIというテーマ自体に内包された問題とを合わせて考えることが、今回のプロジェクトにつながったそうだ。しかし、問題はそれだけではない。

「先端科学技術におけるELSIでは、とくに北米の先端医療においては当事者が関わりながら研究するスタイルが市民権を得つつあります。市民参加型の研究は日本でも始まっていて、私自身、医療アーカイブズの調査活動をしている中で、当事者の方々に関わっていただく重要性を身をもって感じています。資料を提供してくださる当事者の方から『資料を使う際は当事者に還元される形で研究に生かしてほしい』『当事者の声を聞かないなら、私たちのことは研究に使ってほしくない』というお声をいただくのです。なぜなら、当事者に悪意をもつ人に資料を悪用される可能性もあるからです。当事者の方に入っていただいて研究を進めることは、そうしたリスクを減らしながら当事者に成果を還元することになりますし、もちろん研究者にとっても大きなフィードバックがあります。しかし、歴史研究においては当事者が関わるような研究は少数派で、研究手法としては確立していません。むしろ、客観性を保つために研究者は当事者から一定の距離を置くべきだとする考え方が主流といえます。

さらに、こうした研究のエビデンスとなりうるヘルスケアに関する資料の扱われ方にも課題があります。医療政策を検証する際に医療機関が作成したカルテなどの文書は重要な資料になりますが、日本では5年間保管した後はそれぞれの医療機関で廃棄や保管を含め自由にしていいということになっています。実際に、某学会の公式な活動で優生手術に関する調査として医療機関にカルテの閲覧・研究をお願いしたことがあるのですが、相当な困難がありました。このような状態のままでは、過去の医療政策を体系的に検証することは到底叶いません。こうした資料を、個人のプライバシーを守りつつ研究に利用できるように、当事者や市民の意見を聞きながらガイドラインを作っていく必要があります」

プロジェクト代表の後藤基行先生
プロジェクト代表の後藤基行先生

1990年代にヒトゲノム計画を進めるにあたって提唱されたELSIという概念は、最新技術を社会実装するために「転ばぬ先の杖」として機能してきた。しかし、どんな技術も実装されたあとには現在、そして過去のものになる。松原先生は、ELSIの視点で歴史研究に取り組むことは先端技術が実装された後の検証・改善のプロセスを確立する意味でも不可欠なことなのだと指摘する。

「過去を振り返れば、優生手術だけでなく非人道的な人体実験など、当時は合理性があるとみなされていたけれど現在から見れば大いに問題のある事例は枚挙に暇がありません。科学技術は過ぎ去ったことを振り返らないというのが基本的な性格としてありますが、むしろ時間が経ったあとにこそ検証が必要なのです。ところが、科学技術のELSIに関する判断の妥当性を事後的に評価し、次の政策に生かす仕組みがないのが実情です。

今回のプロジェクトの大きな目標は、過去に起こったELSI問題をきちんと検証できるようなインフラを整備することです。当事者の方々や団体の受け止めや希望、声を伺いながら、インフラの立ち上げのプロセスに最初から参画していただく。そうした方々と一緒に未来を切り開いていくための取り組みをしていきたいと考えています」

当事者とともに、過去を検証するためのアーカイブズを構築する

プロジェクトではヘルスケアに関わる過去の諸問題についてのELSI研究を進めるとともに、実際に過去のヘルスケアに関する資料を収集し、アーカイブを構築しながらその方法論自体を研究の形にまとめていくという。

「ヘルスケアの構造的変遷を把握するためには50年、100年といったスパンの資料を見る必要があります。たとえば、日本の精神病床数の推移を調べようと思うと、戦後1960年代頃以降ならばインターネット上ですぐみつかりますが、紙の資料としては過去100年超は残っています。現在はそうした資料を収集してデータ化しているところです」

収集した資料は、大きく3種類に分けてアーカイブすることを考えているという。まず、個人情報が含まれない統計情報などは順次ウェブサイトでローデータを公開する。研究者や政策立案者、当事者など誰もが長期的な医療データにアクセスし、分析・利用できるようにするのがねらいだ。次に、公文書館が個人情報を黒塗りにして提供する公文書については、当事者にヒアリングを行いながらウェブ上での公開範囲を検討し、原則研究者のみがアクセスできるようにする。最後に、著作権が切れた刊行物の中で貴重かつ重要なものはフルオープンで公開する、という具合だ。

こうしたアーカイビング作業を行いつつ、さまざまな当事者の意見を取り入れながら資料の扱いを検討し、最終的には医療機関が利用できるようなヘルスケアアーカイブズの利用に関するガイドライン・提言書をまとめたいという。

資料の扱いは一筋縄ではいかない問題だ。簡単にアクセスできない資料ほど、深刻な問題に紐づいている場合が多いと松原先生は指摘する。

「自治体の施策などに関する情報は公開されているものが多いのですが、精神疾患や優生保護法に関する施策は関係者が情報をオープンにしないという前提で進められてきました。たとえば優生手術の場合、手術に関係した人はそのことを言ってはいけない、本人にも知らせず、『盲腸の手術だ』などと騙してもいいという国のガイドラインが存在したのです。そうすると資料も限られ、後から検証することがきわめて困難になってしまいます。

過去の問題を検証する場合、エビデンスにアクセスしやすい問題ほど取り上げられやすいのは当然ですが、調査のハードルが高い問題や問題として認識すらされていない問題、学問の対象として適切ではないとされている問題のほうに、より深刻な人権侵害や倫理的問題がひそんでいる場合があるのです。そうした問題に光が当てられるようになったのは、ひとえに当事者の方々の命がけの抗議行動や情報公開に向けた働きかけがあったからです。

そういう意味で、今回のプロジェクトは立命館大学だからこそ挑戦すべき内容になっています」

優生手術などの問題に長年取り組んできた松原洋子先生

当事者の視点で研究を蓄積してきた立命館だからこそできること

立命館大学だからこそ挑戦すべきプロジェクトとは、一体どういうことだろうか?

「立命館大学には、私や松原先生が所属する先端総合学術研究科、そして生存学研究所といった研究拠点があります。ここには障害をもつ当事者や関係者がたくさん在籍しており、長年にわたって医療や障害に関する研究を蓄積してきました。この先、私たちの社会は病気や障害とともに生きていくことがますます当たり前になっていくと考えられます。今回のプロジェクトのように過去から何かを学ぼうとするとき、これら学内の教育・研究機関が築き上げてきたアーカイブや人的ネットワークは非常に大きな助けになります」と後藤先生。

松原先生によると、当事者性を大切にしてきたことは学術的な意味でも立命館大学の大きな特徴なのだそうだ。

「医師や科学者とその対象となる当事者との間には、ずっと眼差しの格差、あるいはパターナリズムが存在してきました。一方的な立場から『障害をもつ人はこうしたほうがよい』と押し付けられても、当事者からすればその助言自体が有害なことがしばしばあります。その人の病気や障害の部分だけを見るのではなく、人間まるごとのところで病気や障害とともに生きる人としてとらえると、見えるものは全く変わってきます。まさにそうしたことに取り組んできたのが障害学であり、また私たちが推進してきた「生存学」という領域です。

立命館大学では、生存学研究所の前身であるグローバルCOEプログラムの時代から、病気や障害をもつ当事者本人が研究者として学術研究に携わるという日本においてはきわめてユニークなスタンスで、「生存学」を切り拓いてきました。こうした強みがあるからこそ、今回のプロジェクトに満を持して臨むことができるのです」

後藤先生には、プロジェクトを通して立命館大学で実現したい展望があるという。

「先端総合学術研究科や生存学研究所をベースにしながら、歴史学や医療社会学といった人文系の学問においてもより体系的に当事者を巻き込む研究手法を切り拓いていきたいと考えています。COVID-19をめぐる一連の政府の対応でも明らかになったように、医療政策は今生きている人に重大な影響を与え、人権上の問題に関わる側面もあります。そうした問題を検証するための学問を、21世紀の今こそ研究領域として成立させるべきだと考えています。そのためにまずは立命館大学に医療政策史・ヘルスケア政策史の研究拠点を立ち上げたいです」

大学から市民へ、そして世界へ知を開く。

最後に、立命館大学が掲げる「次世代研究大学」というビジョンについて松原先生に伺った。

「『次世代研究大学』とは、次の時代に世界一の研究大学をめざすということでしょうか。もちろんそうなればよいと思っていますが、それだけではありません。

立命館大学は『次世代研究』を推進する大学をめざす必要があると考えています。私の考える次世代研究とは、学問のための学問に終わらず、社会に生きるさまざまな人が共生していくための価値を作り出す学問です。これを実現するためには、大学の中だけでなく市民や当事者、在野の独立研究者などさまざまな方々とも協力する超学際研究が鍵になります。

近年はインターネットを介して研究者以外の人々の間でも知的生産が行われるようになり、学術情報を広く公開する意義はますます強まっています。また、医療政策などのテーマは国や地域間の比較研究も重要ですから、世界にも開いていく必要があるでしょう。今回のプロジェクトを通して、これからの知的生産のあり方を考え、学術による社会貢献につながる流れを生み出せればと考えています。

立命館大学には多種多様な研究者が在籍し、さまざまな研究が行われています。中には重点的に予算がつくような研究もありますが、100年後、1000年後にならないと本当の価値がわからない研究もあります。ですから、多様な研究が活発に行われている状態こそが大学にとっての理想だと思います。立命館大学は、2025年に創立125年を迎えます。多くの卒業生を輩出してきた立命館大学の多様性という財産、そして自由と清新の学風を未来に活かすことで、次世代研究大学、社会共生価値の創造というビジョンを実現していきたいです。」

関連情報

NEXT

2023.04.06 NEWS

文部科学省「ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(特色型)」の事後評価でS評価(最高評価)を獲得

ページトップへ