SERIESリベラルアーツ第二弾「なぜ人はあいまいさを嫌うのか〜コントロールしたい欲望を解き放つ〜」開催
立命館大学教養教育センターでは、コロナ禍により授業の一部がWEBで行われる中、今まさに起こっている社会問題や若者の悩みに対して、学生と教員がもっとフラットに出会い、自由に語り合う場を生み出したいと考え、「SERIESリベラルアーツ:自由に生きるための知性とはなにか」をスタートしました。
10月18日(日)、第二弾では「なぜ人はあいまいさを嫌うのか~コントロールしたい欲望を解き放つ~」と題して、先端総合学術研究科の小川さやか教授と美馬達哉教授によるオンライン・トークセッションを開催しました。
まず、美馬教授が「あいまいさを飼い慣らす・好む・利用する」をテーマに講演し、近代社会において計算と予測により飼い慣らそうとしてきた「あいまいさ」は、今や避けられるだけでなくチャレンジの対象ともなるが、持てる者・強い者にとって有利に働くのでは?と投げかけました。
続いて、小川教授が「偶然であること、曖昧であることの豊かさ」をテーマに講演し、自分と他者、世界をコントロールすることが問われる社会のなかで、不確実性を肯定するのは難しいが、タンザニアの都市民や香港にいるタンザニア商人の生活世界や人間観をヒントに、偶然性の豊かさを再発見していくことが大事なのでは?と語りました。
後半は、参加者からの質問も交えながら、偶然性を肯定するための条件とは?確実性を高めることが逆に弱さにつながることもあるのでは?などの議論を行いました。
当日寄せられた質問(抜粋)
・ タンザニアの人々が余裕のない中にもままならなさに寛容であれる理由は何でしょうか?
・ 専攻や就職する分野などを決めていないまま時間が過ぎているのですが、それは、分からないことのあいまいさを持つことは悪いことだけではない、というふうに捉えてもよいでしょうか?
・ コロナ禍において先が見えず「曖昧な」未来に耐え切れずに、政府が確実な未来を実現してくれると信じ、自らの自由なライフスタイルを放棄して政府に規定された「新たな生活様式」を進んで望む日本の風潮の根源は何なのか、なぜ人は自由を求める一方で規定されることを望むのか、を知りたいです。
・ 学問(科学)や医療は、「どうにもならない」と放置せず、人間が「どうにかする」ための手段にもなり得ます。学者や医師である先生たちも「曖昧なもの」とは相性が悪いように思うのですが、ご自身の専門領域において曖昧なものとどのように向き合っておられるのか、ぜひ知りたいです。
今回も立命館大学と立命館アジア太平洋大学の学生・院生はもちろん、他大学の学生・院生、高校生や一般参加の皆さんを含め450人近くの申込みがあり、以下のような感想が寄せられました。
参加者の皆さんの感想(抜粋)
・ 大小さまざまなリスクが身の回りにあふれている状況が日常生活になってしまった私たちの生活では、新しく見聞きするリスクに対しては敏感になるが、将来的で不確定性が高いリスクに対しては無力さや慣れによって鈍感になってしまうように思った。
・ みんながみんなを監査する社会であるというお話では、大変生きづらい世の中で、それを自覚せずに、自分自身も気付かぬうちに監査し監査される1人になっているのだと考えさせられました。そして、確実性には弱さもあるのだから、不確実性や偶然性を受け入れる視点も持っていきたいと感じました。
・ 自分の曖昧さを認めてもらうには、相手の曖昧さを認めていけるようにしないといけないという最後の言葉が心に残りました。
・ 曖昧さというのは、個人によって程度や許容範囲が違うものなので、他人の曖昧さを理解し認め合うことは簡単ではないと思いました。しかし認め合うことができたら、曖昧さによって生まれた偶然の多種多様なアイデアが世の中にもっと増えて、様々な人が生きやすくなるのではないかと思いました。
・ お二人が言われていたように、あいまいさという何が起こるかわからない中で生きるには、どうにかなるという安心感が必要だと思います。そのためにはある程度の先を予測する技術と失敗しても大丈夫と思えるセーフティーネットがいるということも学びました。また、そういった環境の中で、小川さんの言われた「私が私の行動を決める」と「行動しながら『私』が現れる」を行き来できれば最高だなとも感じます。
本企画の録画映像は、編集のうえ、YouTube「Ritsumeikan Channel」にて公開を予定しています。
公開日や、次回「SERIESリベラルアーツ:自由に生きるための知性とはなにか」の告知は、教養教育センターホームページやTwitterでご案内します。Twitterアカウントお持ちの方は教養教育センターTwitterをぜひフォローしてください。