情報理工学部創立20周年記念座談会 常に先駆者であった学部の描く未来とは
2024年4月、立命館大学情報理工学部は創立20周年を迎えた。設立当初から全国に先駆けたユニークなコンセプトを打ち出し、現在まで情報分野を牽引する学部として国内外から注目を集めてきた。20周年の節目に大阪いばらきキャンパス(OIC)へ移転し、その新たな挑戦が期待されている。
今回は、歴代の学部長である飯田健夫名誉教授(初代)、仲谷善雄学長(第4代)、山下洋一教授(第5代)、現学部長の高田秀志教授、開設準備当時に準備業務を担当した長田勝さん(現学校法人立命館人事部次長)にお集まりいただき、本学部の歴史とこれからについて語り合ってもらった。
連携・融合を重視する「理系の情報」として出発
ーー情報理工学部の起源は、関西の私立大学に先駆けて理工学部に設置した「情報工学科」(1987年4月開設)にあります。1994年4月、理工学部が衣笠キャンパスからびわこ・くさつキャンパス(BKC)へと移転したことを契機に「情報学科」に改組・拡充されました。そこから学部が設置された経緯やねらいについてお話くださいますか。
長田 当時の時代背景を少しお話しますと、1980年代から1990年代にかけての国の高等教育政策は、臨時的な定員増を認めつつ、大学や学部の新増設を抑制する方向でした。これは、1992年までに18歳人口が205万人に急増後、急減することを見越した方針でした。ただ、社会が変化する中で多くの人材が求められている分野として、看護、情報、社会福祉、医療技術、先端科学技術などは抑制の例外とされたのです。こうした中で、情報学科は入学定員を440名まで定員を増やし、さらにこれからの時代は情報の高度利用や有効活用がますます重要になっていくという観点から、学部改組が検討されることになりました。
飯田 大久保英嗣先生を委員長とする設置委員会が設立されたんですよね。
長田 はい。2001年10月に設置委員会ができて、私はそのときに事務局を担うBKC調査企画課・情報系新学部準備室に異動しました。当時の資料を探してきましたが、当初は「情報学部」という名前で設置が構想されていました。
飯田 情報理工学部は入学定員600名でのスタートでしたね。学部改組の話が出る時点で、情報学科は定員も多く、志願者もたくさん集めていたからこそ、できた判断だったと思います。
山下 学部ができてから、あと2年ほど早く作ればよかったなと感じました。他の大学でも情報系の学部がたくさんできてきて、大分、競争も激しくなっていましたから。
長田 確かに、○○情報学部というのは割とたくさんできてきていて、山下先生がおっしゃるように少し出遅れた感はありました。ただ、当時、情報系学部というと社会科学系が中心となる事例も多い中で、理工系の情報系学部を設立するというのは、珍しい存在でした。そのこともあって、情報学部ではなく情報理工学部という学部名称になりました。
仲谷 そう、今とは全然違いましたね。立命館大学の情報理工学部は、理工系の情報系学部としては全国で2番目ぐらいだったんじゃないかな。入試広報では、「理系の情報」を相当アピールしていましたよね。当時からバイオやナノテク、環境、エネルギーなど最先端技術は情報科学からのアプローチが必須という認識がすでにありましたし、学部設立時から他分野と連携・融合することを特色の一つにしていました。現代の感覚に近い「情報」というか、その意味では先駆的だったと言えるんじゃないでしょうか。
長田 他分野との連携・融合という意味でいうと、情報学科は他学部や理工学部の他学科と共同で大型研究プロジェクトを行ってきた実績もありました。2002年度「21世紀COEプログラム」に採択された「京都アート・エンタテインメント創成研究」は文学研究科との連携の成果です。
山下 教員数の点でも、ここまで他領域の教員を揃えた学部は他にあまりなかったはずです。規模のメリットは、今に至るまでうちの強みですね。現在も教員が100人弱います。これだけ集まるといろんなことがやれるし、学生のいろんな要望に対しても誰かが応えられます。
国際性を方向づけた「ハノイ工科大学HEDSPI プロジェクト」
ーー情報理工学部の大きな特色の一つに国際化があります。その背景や、大きな実績となった「ハノイ工科大学ICT高等教育人材育成プログラム(Higher Education Development Support Program on ICT:HEDSPI)」についてうかがいます。
長田 「ハノイ工科大学HEDSPI」は、ベトナムのIT産業振興を支援する目的で行われた、円借款によるODAとJICAの技術協力が合わさった事業です。ハノイ工科大学(HUST)で日本語ととともに実践的で高度なIT教育を行い、産業界のニーズに合った人材を輩出することが目的でした。本学は技術協力事業の代表として、慶應義塾大学と共同で総勢31名(本学13名、慶応7名、その他企業10名)の専門家チームを組織して、2006年9月から2010年2月まで事業を実施しました。
飯田 HUSTの中に、経済産業省が体系化・策定した「情報処理技術者スキル標準(ITSS)」に準拠した教育プログラムを移管して高度なIT人材養成のためのコースを作ったんです。情報理工学部の情報システム学科と情報コミュニケーション学科の教員が中心になって、カリキュラムの設計、シラバスや教材の開発、向こうの先生へのアドバイスとかいろいろやりました。
高田 授業の仕方を教えたり、どんな機材をそろえてどんな実験をやるかとか。
飯田 担当された先生方は、ベトナムとの行き来があるので日程調整が大変で、現地の仕事だけでなく日本での事前作業も含めてかなりの負担だったと思います。担当職員の方もサポートのために数年ハノイに滞在されるなど、苦労されました。
仲谷 よく頑張っていたし、留学生はとても優秀でしたね。HEDSPIプロジェクトに立命館と慶応への留学が組み込まれていたんです。2009年から優秀な学生を2校に10名ずつ学部に転入してもらうのと、もっと少人数でしたが大学院への留学もありました。
長田 立命館はこの事業で、国際プロジェクトの実績をつくり、海外との共同研究の展開やネットワークを構築したいと考えていました。また、優秀な留学生の安定的な確保も期待していたようです。
山下 向こうでうちの先生に声をかけてもらったといって、私のところにも博士の留学生が来ました。学部の国際化に大きく貢献したプロジェクトだったと思います。
仲谷 本学では留学生が困らないよう、日本語の教育や就職活動のケアなどもすごく丁寧に行いました。この時の留学生がベトナムで会社を立ち上げ、今やベトナムのIT企業の成長頭へと成長しています。留学先の立命館と慶応にちなんで社名を「Rikkeisoft」と名付けたそうです。こんなふうに、プロジェクト卒業生たちが世界でますます活躍してくれることを期待しています。
日本の技術教育を世界へ。中国の大学と共同学部設立
ーーまた、2013年には大連理工大学軟件(ソフトウェア)学院と共同学部を設立しています。こちらはどんな経緯で始まったのでしょうか。
仲谷 2009年、日本に質の高い人材を留学させる環境を整える目的で始まった文部科学省の国際化拠点整備事業「グローバル30(G30)」で、立命館大学は国立私立13大学の中の1校に選ばれました。それが、大連理工大学との共同学部設立の大きなきっかけの一つだったと思います。
長田 当時、立命館は国際戦略の強化を考えており、中国を重要な拠点としてネットワーク強化を図ろうとしていた時期でした。大連の大学とは経済・経営等社会科学系の交流はありましたが、理系でも関係の構築・深化が必要だと考えていました。一方、大連にはソフトウェア関連産業が集積しており日本向けのソフト開発を手がける企業も数多くあったことから、ハイレベルな理系人材の育成機運が高まっていました。そうした両者の意向が合致したタイミングだったということもあると思います。
仲谷 G30の一環で2008年から大連理工大学と共同ワークショップの開催を初めていて、関係の強化を進めているところでした。そうした2009年10月に大連理工大学ソフトウェア学院の羅学院長が情報理工学部を訪れ、共同学部の構想を説明されたんです。こちらはそれを受けて、共同学部設立を検討しました。やろうと決めた要因には、HEDSPIで優秀な学生さんが留学してきてくれた実績があったことがあります。それ以上に、学部の多くの教員が「情報分野ではグローバルに活躍できる能力がぜひとも必要」という考えだったことが決め手だったと思います。
長田 当時は、JABEE(日本技術者教育認定機構)の評価システムによって、アメリカなどの海外諸国にも日本の工学教育が評価されるようになってきた時代でした。情報理工学部の教育も、国内にとどまらず海外に積極的に広めていくべきだという考えが、立命館内にありました。
高田 大久保英嗣先生(第2代学部長)が「卒業研究は学生を成長させるから、ぜひカリキュラムに入れるべきだ」とおっしゃって、HEDSPIの時も大連理工大学でも組み入れましたね。
仲谷 海外の大学だと理工系の学部生や修士課程の大学院生は単位を修得するだけで、自分の研究をするなんて考えられないんですよ。国際学会なんかでうちの修士の院生が発表すると、海外の先生はよく驚かれます。
長田 新学部の詳細設計を開始したのが2011年5月で、中国の設置審査やパイロットクラスの運営などを経て、2014年4月、「大連理工大学・立命館大学国際情報ソフトウェア学部」として正式に開設しました。定員100名のうち40名は、本学3年次に転入しダブルディグリーが取得できます。
仲谷 中国の教育制度の関係で、ダブルディグリーを取得するには科目、教員、単位のそれぞれ3分の1を本学で提供しなければならなかった。特に「教員の3分の1」を揃えるのがなかなか大変でした。
飯田 学部の教員が大連に行くだけでは足りなくて、特別枠で人材を採用することになって人件費がかかりました。
高田 HEDSPIは日本のODA予算がついていましたが、大連は立命館大学自前のプロジェクトですから、運営はなかなか大変でしたよね。特に大久保先生はとてもご苦労されたと思います。
山下 去年、一昨年ぐらいからは少し状況が変わり、共同学部の学費収入の一部が本学の経費に充当されるようになりました。
高田 中国での評価は高いようで、100名だった定員も今では300名にまで拡大しているようですね。
仲谷 こうした国際プロジェクトは、学部に良い影響があるんですよね。最も大きいのは、研究室の中に大体常に留学生がいる状況が生まれたことです。彼らはみんな優秀で、学部生にとってはとても刺激になっています。
長田 共同学部の設立を契機として大連の企業とのつながりができ、海外インターンシップの受け入れ先が増えたことなどもそうですね。また、何より中国での知名度が高まったのはとても大きなメリットではないでしょうか。留学希望者の増加にもつながっていると思います。
仲谷 日中学長会議の席でも共同学部の話題が出るなど、中国で本学の認知が広がったのを実感しますね。中国で知名度が高まれば当然アジアにも波及しますから、その意味では大きな成功例ではないでしょうか。
高田 設立時は日本の新聞の大連支社から取材に来たりして、大々的に報道されましたね。日本の工業教育を海外展開した成功事例の一つということで、国内でも注目されているようです。
OIC移転による新たな接点の創造と研究の深化
ーー学部創立20周年を迎えた今年4月、情報理工学部はOICへ移転しました。ここにはどのような意図があったのでしょうか。
山下 2015年にOICが開設される際にも移転の話があり、学部内にも移転した方がいいんじゃないかという声がありましたが、学部全体の議論にまではなりませんでしたね。
仲谷 今回は20周年という節目でもあり、次の10年を考えた時に何かブレイクスルーが必要なのではないか、というような思いがありました。
山下 今回のOIC新展開の一つのテーマが企業との連携であり、情報系にとっては多くの企業の本社が立地する地域の近くのほうがやはり連携しやすいという意見が学部内にも多かったです。また、少子化への対応として大学院などでの社会人教育が視野に入ってきており、その意味でもキャンパスに通いやすい立地というのが魅力だと感じました。
仲谷 社会人教育では、情報系が圧倒的に求められているという状況があります。マネージャー層や中堅層が情報技術の流れに追いついていく必要があって、こうした動きに対応するなら対面で教育しやすいロケーションも大事です。
飯田 私が今回の移転で注目しているのは、総合心理学部との連携ですね。一例ですけど、認知症の予防・改善のための療法にVR・MR、AIなんかを使うような研究とか、心理系と情報系が結びついた研究の可能性はかなり大きいと思っています。
仲谷 そうですね。情報理工学部の先生方がOICの見学に来た時、総合心理学部と一緒にやりたい、というような声がすぐ上がりました。また、映像学部とも同じキャンパスになるというのは、お互いに刺激し合って、なんか面白いことが生まれるんじゃないかと感じました。
山下 いろんな学部、研究科との連携が考えられますよね。スタートアップを立ち上げるなら、テクノロジー・マネジメント研究科とか経営学部とか、自治体との関係で言えば政策科学部とかも関係しますよね。
飯田 情報は柔らかいから、どこにでもくっつくことができるんです。情報がくっつかないような研究って、もうあり得ないかもしれません。
高田 情報ってリモートでも大丈夫、というような話になったりしますけど、実は、比較的人の要素が強い領域だと思います。工学であれば大きな装置が必要だったりして機械を相手にいろいろとやることも多いのですが、情報の場合は大きな都市の中に人が集まる、そこに研究対象やテーマがあり、実装の現場があります。その意味では、都会型の学部なのかもしれません。
長田 OIC開設時にも、キャンパスコンセプトを念頭に、どの学部とどの学部の教学が組みあわせるとシナジー効果が高まるのかというのが、すごく大事な議論でした。それから、大阪の都市型キャンパスなので、企業とか自治体との新しい接点を作っていくっていうこともテーマでした。今回の新展開で情報理工と映像が移転したことで、学問領域の新たな掛け合わせや外部機関との新たなつながりから何が生まれるのかがとても楽しみです。
情報技術で社会を創造する文理融合型の人材を育成
ーーこれから情報理工学部はどうなっていくのでしょうか。皆さんのお考えをお聞かせください。
山下 OIC移転に際して「コネクティッド」というキーワードが出ました。それが社会なのか海外なのか、あるいは過去、未来なのか地域なのか、いろんなつながり方があると思いますが、どうつながるかがやはりキーになりますね。
仲谷 情報は、つなげる技術でもありますしね。
高田 情報理工学部にとって、“入口”の対策は重要だと考えています。高校の「探究学習」と情報という学問は相性がいいので、高校から大学への積み上げの学びと大学から高校へおろしていく学びをそこでうまく組み合わせられないかなと。また、コロナ禍であったり、高校教育での情報の必修化や、大学入試の出題科目になったりするといった追い風はありつつも、情報技術者には長時間労働のイメージなどがあって、高校生にとって必ずしもよい印象を持たれていないという現実があります。
仲谷 情報の必修化で高校の情報教員は養成されますが、実際の採用数は伸びていません。多くの高校では、まだまだ情報教育が追いついていないと感じます。情報は、アルゴリズムという抽象化された手続きをどう考え、作っていくかという能力を鍛える、非常に重要で普遍的な学びであることをアピールしていきたいですね。
高田 2017年に設置した英語学位プログラムISSE(Information Systems Science and Engineering Course)の展開も、今後の大きなテーマですね。他大学に先んじた取り組みでしたが、最近ではもう十分に認知されてきました。
仲谷 今も理工系で英語基準のコース・学科を持っている大学はほとんどありません。特に最初から日本人が入学することを想定して作ったのは本学部だけです。
山下 英語と日本語でそれぞれ別の授業を行うので、それだけ教員数が必要です。情報理工学部は、それに耐え得る規模の教員がいたからできたと思います。今後は、学科にすることも考えたいですね。コースのままでは、独自のカリキュラムを持つことができませんから。
飯田 情報分野は、グローバルというのは大前提ですから、今後ますます学びやすいシステムに整えていかないといけませんね。
長田 グローバル化では、日本人学生の英語力を高めて世界で活躍できる人材に育てるかという問題に加え、留学生にいかに日本語を教えるかという課題もありますね。
飯田 情報分野の教育は、今後どうなっていくんでしょうか。研究対象はエネルギーや環境、医学など無限に広がっており、研究者にとっては戦国時代です。一方で、学生を社会に送り出すには、社会が何を求めているかも重要です。これだけ世の中が変わると情報教育も変えるべきところがあるのかと思ったりします。
山下 確かに変化しなければいけないところもありますが、根幹の体系自体はこれからもよりどころにしていいものだと思っています。そのあたりは揺らがないのではないでしょうか。
仲谷 先ほど、高田先生が入口の話をされましたが、これからは小学生の段階からプログラミングができるような人が育ってきて、高校生でかなりのレベルのことができるようになってきた時に、情報理工学部の教育をどうするかっていうのは1つテーマとしてありますね。
高田 IT技術者は日本ではまだちょっと不足していると言われますが、アメリカでは仕事が減ってきているそうです。その理由は、生成AIにいろんな仕事を任せられるようになって、プログラムを書けるだけなら人材としての価値がなくなってきたということらしいんです。
仲谷 そういうAIがプログラミングやってしまうような時代に、何を教えるのか。やはり重要なのが、人と人をつなぐところであったりすると思うんですね。情報技術で社会をどうしていきたいか、どんな社会を作りたいかっていうのを考えられる人を育てていかないといけないのではないでしょうか。そういう意味では、技術がちゃんと使える・わかる・開発できる、しかも社会のことも理解しているという文理融合型の人材を育成していく必要があると思います。
高田 まさに「コネクティッド」ですね。国を超え、社会ともつながり、世代間もつなぐというような学部の姿をめざしていきたいと思います。
最後に、「情報理工学部20周年記念事業」第2弾のご案内をいたします。2024年12月14日(土)に大阪いばらきキャンパス(OIC)H棟にて「記念講演・H棟ツアー・懇親会等」の実施を予定しています。現役学生だけでなく、多くのOB、OG、教職員、関係者の皆様にお集まりいただきたいと考えておりますので、是非、お越しください。
※詳細は情報理工学部HPをご参照ください。随時更新をいたします。