【知の拠点を訪ねて】文化遺産を災害から守る世界的な研究・教育拠点 歴史都市防災研究所
文化遺産や歴史的なまちなみは、一旦失われてしまうと元に戻すことはできない。この人類にとっての貴重な財産を災害の脅威から守ることは、「災害の世紀」とも言われる21世紀を生きるわれわれにとって重要な責務だろう。特に刻んできた長い歴史にこそ価値のある歴史文化遺産の保全には、一般的な防災とは異なるアプローチが求められる。こうした課題に挑戦し文化遺産防災に取り組むのが歴史都市防災研究所だ。その取り組みやビジョンについて、所長の吉富信太(理工学部教授)と副所長の村中亮夫(文学部教授)に伺った。
文理を超えた新しい学問「文化遺産防災学」の構築
歴史都市防災研究所設立の直接的なきっかけは、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で文化遺産が大きな被害を受けたことだったという。その経緯を吉富所長は次のように説明する。
「社会では文化財や古いまちなみを保存する活動が続けられていますが、災害時には大きな被害につながるリスクがあります。阪神淡路大震災を契機に、文化財の価値の保全と建造物やまちなみの安全や防災を一体的に扱う文化財保存の取り組みの重要性がクローズアップされました。本学のある京都は多くの歴史ある社寺建築やまちなみを擁する古都であり、これらの文化遺産を災害から守り長く維持管理することは非常に身近な社会課題です。文化遺産の防災や保全を『文化遺産防災学』という新たな学問分野として追究し、その知見を社会に役立てようという理念のもと、2003年8月、本研究所の前身である歴史都市防災研究センターが設立されました」
以来、文部科学省21世紀COEプログラム、学術フロンティア事業、同グローバルCOEプログラムなどの外部資金を積極的に獲得しながら活動を展開してきた。2013年4月に歴史都市防災研究所への改組を経て、20年以上の歴史を刻む。
本研究所の研究活動の軸となる「文化遺産防災学」とはどのようなものなのだろうか。吉富所長は「『文化遺産・歴史都市の保全活用』と『災害・防災』の両分野をつなぐ総合的な学問」だと説明する。
歴史のある建造物やまちなみは、美術品のようにミュージアムに展示されているのではなく、人々がそこで暮らしを営んでいる場所である。自然災害が激甚化する中でまちなみを保全するには従来以上の対策が必要になり、暮らす人々のニーズも時代とともに変化している。ハード面から防災性能を向上させるのはもちろん、まちづくりのあり方や制度面から解決しなければならないことも多い。さらに、それらが消失してしまうリスクに備えて地図や歴史的な遺物などをアーカイブ化しておく必要もある。
村中副所長も「このような課題に災害科学、土木工学、建築学、情報学、政策科学、歴史学、地理学など文理を超えた多様な分野の研究者が共同して文化遺産防災に取り組むことで学問の体系を構築し、社会課題の解決に貢献するのが本研究所の目的です」と言葉を継ぐ。
文化遺産防災学という全く新しい学問を創造し、社会実装していく拠点として設立された本研究所。その活動は年を追うごとに発展し、数多くの研究プロジェクトと人材が交流するネットワークハブの役割を果たすようになっているという。
3つの部会に分かれ幅広いフィールドで実践的な研究
研究活動の柱となっているのが、3つの研究部会である。その一つ「歴史文化都市の時空間データ基盤研究部会」では、センシングや視覚化、分析などの技術を活用して歴史都市の文化遺産の分布、古地図や過去の被災の記録を蓄積し、文化遺産の災害リスクなどの評価につなげる研究を行っている。
その中には、地域住民の被災の経験を掘り起こし可視化する『記憶地図』の作成といった研究もある。村中副所長は「個々の記憶や経験は質的情報と呼ばれ、災害の記憶や地域の価値、またその継承を考えていく材料になる大切なデータです」とその重要性を強調する。
「歴史文化都市の防災技術研究部会」では、伝統的建築の構造特性の解明や耐震設計・耐震補強による長寿命化について研究している。吉富所長は「古い建築物の中には近代的な耐震の手法がマッチせず、補強したところから壊れるケースもあります。そこで、先人たちが確立してきた防災のための意匠の効果を評価し、それを生かして新たな防災のシステムを提案するといったアプローチも行っています」と説明する。そのほか、都市や文化財の地盤環境の観測・予測、住宅用火災報知器を使った火災発生情報を共有するネットワーク開発など、幅広いテーマで防災技術の研究を行っている。
「歴史文化都市の防災デザイン研究部会」は、他の2つの部会の成果を実際の歴史文化都市に実装するための防災デザイン、コミュニティデザインを研究する。受け継がれてきた地域環境やコミュニティの特性・ニーズに合わせた都市防災計画や防災政策、地域の合意形成の手法などについての研究や提案が多数行われている。
たとえば、地域住民が災害リスクを共有するリスク・コミュニケーションに、ゲーミング・シミュレーションの手法を活用する研究もその一つだ。災害によって被る損害を調査・推計した結果をモデル化し、仮想世界で災害や災害後の対応を体験する防災学習ゲームを開発。タイなどで実際に人々にゲームを体験してもらい、その結果を分析している。
「研究と実践の境目が曖昧なのが文化遺産防災学の特徴」だと吉富所長は言う。研究と実践を行き来し、社会に貢献する成果をあげていくことをめざしている。
2024年1月1日に起こった能登地震の被災地域についてタスクフォースを立ち上げ、地盤災害、建物被害などの調査を行って現状把握を行っているのもその一つだろう。今後は、収集データに基づいて復興やまちづくりなど息の長い支援を続けていく方針だ。また、伝統的建造物群保存地区と呼ばれ、歴史的なまちなみや景観を自治体が保存・整備していく事業においては、地区防災計画の策定を行政から請け負うケースもある。さらに、ネパール、コソボなどの歴史文化都市の防災計画策定に関わるメンバーもおり、実践のフィールドは世界へも広がっている。
世界と地域とつながる。存在感のある教育活動
研究活動のかたわら、教育活動や人材養成に力を入れているのも本研究所の特色だろう。「文化遺産保全継承論」「歴史都市災害史」「文化遺産防災計画論」など関連講義を開講し、テキストを出版。大学院生や実務家である社会人学生が履修しやすいよう、履修証明制度を利用した「文化遺産防災学教育プログラム」を運営している。
その背景には、文化遺産防災は社会的な要請が高まる分野であるにもかかわらず、まだ新しい学問のため専門家が少ないという実情がある。「実務家に対して専門的な知識を教授し、社会に少しでも文化遺産防災の実践を根づかせていくことが重要」だと吉富所長は人材養成に力を入れるねらいを話す。
専門人材養成を、国内のみならず海外に対しても積極的に行っているのが本研究所の特色の一つだ。前身であるセンターの時代から、世界から文化遺産防災に関わる実務者を日本に招いて行う「国際研修」を実施。世界で唯一の文化遺産防災の研究拠点として、世界の歴史文化都市の防災にも早くから目を向けてきた。
このプログラムは、国際的な知識の交換と研究成果に基づく国際協力の促進を目的とするユネスコの取り組み「ユネスコ・チェア」に認定されている。毎年15名程度が参加しており、今までにのべ約200名以上の修了者を輩出しているという。実務家の養成にふさわしい実践的な教育を特色とし、専門的な内容についてレクチャーするだけでなく、文化遺産防災に関わる自国の課題を持ち込み、ワークショップを行って解決に向けた取り組みを立案する場も設けている。本研究所は人材養成機能の点でも国際的に存在感を増しており、2024年8月にはICOMOS(国際記念物遺跡会議)フィリピン委員会が「文化遺産防災学教育プログラム」を学ぶために来訪を予定している。フィリピン国内で同様のプログラムを立ち上げるのが目的だという。
教育と地域貢献とを両立させる取り組みとしては、「地域の安全安心マップコンテスト」がある。小学生に地域の安全安心への関心を高めてもらうことを目的に、2007年から毎年開催している。その意図を村中副所長は「文化遺産の保全をするのは人。地域を自分たちで守ろうという意識を、未来を担う子どもたちに持ってもらうための取り組み」と話す。「マップづくりには周囲の大人も協力していただいているので、文化遺産防災についての関心が広がるのもうれしいところです。マップをどうつくったらいいかわからないという声にお応えして、出張授業にも出かけています。また、この取り組みには幅広い業種の企業からも協賛いただいていますし、コンテストが研究所と地域・社会をつなぐ一つの装置になっているように感じています」とその役割を評価している。
社会の豊かさにつながる文化遺産防災の未来を担う
本研究所では、文化財を保有する自治体の実務者向けに防災のガイドラインや対策案を立てる際に役立つ知識をまとめた『文化遺産防災ハンドブック』を発行するなど、従来から情報発信に力を入れてきた。今後は、地域・社会とのつながりのさらなる強化につながる情報発信の在り方を検討していく方針だという。
「文化遺産防災学は、社会的意義が大きいことはもちろんですが、まだまだ解明できていないテーマが数多くあり学術分野としてさらなる発展が欠かせません。文化財や歴史的なまちなみを保有する地域、それらの保全に関わる文化庁、さらには海外も含めて社会とのネットワークを強化しながら実践の場を増やし、文化遺産防災学の成果や重要性を知っていただきたいと思っています」と吉富所長は意気込みを語る。
研究者育成についてもより強化を図り、2023年度から若手研究者を対象とした研究支援制度を設け、学会や国際会議への参加を奨励している。また、研究所内のコミュニケーションを活発にするため、対面で“雑談”できる機会を増やしたという。村中副所長は、「研究者同士の何気ない雑談のようなやり取りは、一見非効率なようですが、実は研究をうまく回していくのに欠かせないベースになります。文化遺産防災学は、人間が重要。もともと文理の垣根が低いという本研究所の良さをさらに伸ばし、相乗効果を最大化する環境つくっていきたい」と話す。
取材中に伺った「文化遺産を保全する社会や社会システムには、ゆとりや懐の深さがある」という吉富所長の言葉が印象に残った。文化財となる古い建物は、性能としては新しい建物に劣っても、文化や人の思いを受け継いできた歴史の重みは他には代えがたい。「その価値を理解し守れる社会は、豊かで暮らしやすい社会ではないでしょうか。安全性を担保しつつ文化的な価値も維持できる、みんながハッピーになる方法はあると信じています」と吉富所長。地域に住む人の豊かさにつながるような文化遺産防災を探究する本研究所のこれからに、改めて期待したい。