2014.01.12

「アンネのバラ接ぎ木会」のこと。

111()、妻や長女そして双子の孫たちに誘われて、京都府綾部市の谷あいの地域で開かれる「アンネのバラ接ぎ木会」に参加してきた。

ベルギーの園芸家による品種改良で生まれた「アンネのバラ」の名前は、ナチスによるユダヤ人迫害で15歳という短い生涯を終えたアンネ・フランクに由来している。アンネの父、オットー・フランクと「聖イエス会」との交流によって1970年代初頭、日本にもたらされたバラの苗木を基に、綾部市高槻町の山室隆一さん(故人)が接ぎ木によって増殖を繰り返し、バラは全国に贈られてきた(「あやべ市民新聞」2006/1/6付より)。現在は、父の意志を継いだ山室建治さんが「会」を主催していて、今回が15回目の「接ぎ木会」となる。

「もし神様が私を長生きさせて下さるなら、私は世界と人類のために働きます。戦争が何の役にたつのでしょうか。なぜ、人間は仲よく平和に暮せないのでしょうか。」(1944.4.11)と「日記」に記したアンネ・フランクの平和の願いを込めながら共に作業し、平和のバトンを受け継いで行きたいと願っているという。

フランク一家を含め計8人のユダヤ人がアムステルダムの隠れ家で暮らし、ここでの生活は2年間に及んだ。1944年8月4日、ゲシュタポに隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送されたが、ゲシュタポに荒らされた隠れ家に残されていたのがアンネが付けていた日記だった。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたアンネの父オットーの手で出版されたのが『アンネの日記』で、60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーとなって、アンネの「戦争と差別のない世界になってほしい」という思いを全世界に伝えている。

山室さんの実技指導の後で、ナイフやハサミを使って台木に穂木を接ぎ、接ぎ目をテープで縛り、ロウづけして何とか1株の出来上がり。こうして家族5人分の5株を植え込んでもらって終了した。接ぎ方次第で、上手く芽吹くのはなかなか難しいとのこと。これまでに約8000本の「アンネのバラ」が育って「平和のバトン」が受け継がれているという。我が家族も含めて60人以上の参加があった中から、何本の「平和のバトン」が受け継がれていくのか。3月までの「お楽しみ」といったところだ。

ところで、110日は私たち夫婦の38回目の結婚記念日だった。家族みんなとささやかなお祝いをしたのだったが、「アンネのバラ接ぎ木会」は1日遅れの素敵なプレゼントとなった。

会場前に早目に着くと、主催者の山室さんが駐車場確保のための雪かきをしているところだったので、孫たちと一緒に手伝った。田圃横の農道の幅5m奥行き20m程の雪かきは、孫たちにとっては初めての経験だったろうし、私にとっても京都に来て初めてのことだった。重い雪も全く苦にならない程楽しいものだった。そして配布された資料に目を遣りながら山室さんの「小講義」に耳を傾け、「アンネのバラ」のことを胸に刻みながら接ぎ木に精を出せた午後の一時は、何とも清々しいものだった。    mm