[ Tue ] の記事一覧

2018.06.19

非常時の家族連絡網

昨日の地震で非常時の安否確認とともに、家族の連絡網の必要性を感じました。

グラグラっと揺れたとき、私は当然ながらすでに出勤。
揺れが収まって真っ先にしたのは、80キロ離れた自宅にいる母の安否確認。
携帯から携帯へ、携帯から固定へ、固定から携帯へ、固定から固定へと、
何度も何度も電話しても通じず。何度目かでやっと通じた携帯から固定も
声は聞こえたのですが、すぐに切れてしまいました。
こういうとき、声が聞こえた安心よりも、「かすかな声だった」という妄想の
方が勝り、さらに不安が増すということも実感しました。

阪神淡路大震災で、3軒の家を失い、一週間、倒れた書棚の間にうずくまっていた
祖母のことが鮮明を思い出され、次に電話がつながるまでの数分間は生きた心地
がしませんでした。多くの人が同じ気持ちになったのではないでしょうか。

さて、夜帰宅すると、午前中いっぱい、安否確認の電話で大変だったと言う母。
よく話を聞いてみると、地震直後から、兄、弟、義理姉、義理妹、姪っ子、甥っ子と
それぞれが心配して電話をしてきてくれたそうです。それぞれ仕事を持っており、
学校に通っており、安否に関する横の連絡がとれていない状態でした。

もちろん、それぞれが心配してくれることはとてもありがたいのですが、
気持ちが揺れたせいもあり、少し落ち着きたかったこともあるのでしょうが、
なかなか大変だったようです。

この出来事があり、もしかしたら、家族の中の「連絡網」が必要ではないかと
感じました。あちこちから次々に安否確認をするのではなく、安否確認をする
者の順序と流れを決めた方がいいように思いました。
非常時に、一番目に連絡する者を決め、そこから順に連絡していく。
その後、少し落ち着いたころを見計らって、それぞれが連絡する。

ただでさえ、電話回線がパンクしている状態の中、4人も5人もが一人へ
電話していたら、繋がるものも繋がらないのではないかと思います。
情報の受け取り方、受け止め方もそれぞれ異なることも考えると、
「連絡網」が有効ではないかと強く感じています。

今回は、大事に至らなかったのですが、混乱すればするほど、冷静さが
必要となり、その冷静さの一つとしても有効ではないでしょうか。

みなさんは、非常時の決めごとを家族でされていますか?


2018.06.12

Hair Donation

週末、髪の毛を31cmカットしました。
耳の下、ギリギリくらいの長さになりました。
この31cmには理由があります。

みなさんは、Hair Donation(ヘア・ドネーション)という
活動をご存じでしょうか?

ヘア・ドネーションとは…
頭皮・頭髪に関わる何らかの病気が原因で髪の毛を失い、
ウィッグ(かつら)を必要としている子ども達に、
医療用ウィッグの原料となる毛髪を間接的に提供することです。
(Hair Donation HPから)

さまざまな病気、特に、小児がんの抗がん剤治療により、
髪の毛が抜けてしまった18歳以下の子どもたちにかつらを
提供している活動です。

なぜ、人工毛ではなく、人毛でしょうか?
ファッションウィッグであれば、高温でコテを巻いたり、ある程度
乱暴に扱うこともできます。ただし、そこには自然さがありません。
一方、人毛は、手触りや見た目は自然ですです。ふわっと風にも
なびくようです。ただ、当然ですが、髪の毛自体は再生しないため、
気分により短くはできても、伸ばすことはできません。

それでも、多くの子どもたちが、人毛でできたウィッグを待っています。
かなり多くの人がその順番を待っているようです。
その理由は、1人分のウィッグを作るのに、30人分の髪の毛が必要となり、
なかなか順番が回ってこないそうです。

一人ひとりの頭の形に合わせ、その子にあった、ぴったりフィットする
ウィッグができあがります。
好みの髪型にカットしてもらっている子どもたちのとてもうれしそうな
顔を以前テレビ番組で観てから、今回で3回目の提供となりました。
提供する髪は、カラーしていても、パーマをかけていても、どんなに
痛んでいてもいいのですが、できるだけ痛まないように、伸ばしている
間はいつもお団子にしてくくっています。紫外線から保護しているせいか
カットした髪は、割とサラサラしています。

31cm以下でも提供ができるようですので、みなさんも髪の毛を切る際は、
提供してみてはいかがでしょうか。協賛しているヘアサロンがたくさん
あります。お近くのサロンを探してみてください。

https://www.jhdac.org/index.html

2018.06.05

うれしい光景

少し前の週末、ごった返す駅構内でのできごとです。

私の前を歩く人たちにどことなく不思議な感じがしたので、
しばらくその後ろを歩いていました。

ご高齢のご婦人の周囲をなんとなく囲むように歩く、数名の高校生らしき男の子たち。
ほんの一瞬、「もしや、よからぬことをするのでは!」との思いが頭をよぎったのですが、
そういう雰囲気では一切なく、ごく自然に、楽し気に、会話をしながら歩いています。
でも、その歩調はとてもゆっくりと、そのご婦人のスピードにまるで合わせるかのようです。

その光景に惹きつけられ、そのまま彼らと同じ方向に歩きました。
ご婦人が改札を出て、待ち合わせの方と合流すると、高校生らしき男の子たちは、
別の方向へ歩き出しました。

そのとき、ピンときました!
彼らは、杖をついて歩くご婦人をそれとなくガードしながら歩いていたのです。

杖をついた小柄なご婦人は、誰かの体が少しでも当たれば、転倒してしまいます。
スマートフォンを見ながら歩いている人、イヤホンをつけて歩いている人が多く、
小柄な・杖をついて歩くご婦人に注意が向く人は多くありません。


これまで、サポートが必要な方をサポートする光景は何度も見てきましたが、
このような光景に出くわしたことがなく、気持ちが昂りました。

この機会を逃すまいと、彼らの後を追って、突撃インタビューをしました。
さっき私が見た光景について、ご婦人をガードしていたのではないか訊ねました。
私の突然の出現と質問にぎょっとした様子でしたが、答えてくれました。

彼らの通う高等学校のある先生が、次第に筋力が低下していく難病になったそうです。
2年間でみるみる筋力が低下し、歩くことも次第に難しくなっているそうです。
先生の歩行が難しくなるに伴い、先生の周囲には、先生を転倒から守る生徒の
クッションの壁ができ始めたそうです。「人間の肉壁」とも言っていました。

「『歩けるうちは自分の足で歩きたい』と言った先生のことばが頭に残っている」
と、彼らの一人が話してくれました。
また、別の子は、「先生は自分の足で歩きたいから、先回りした手伝いはしない」
と、話してくれました。

このような環境の中、駅構内で目の前にいたご婦人に対し、彼らは、自然に
自らがクッションのような壁となる歩行をしたようです。

「あんまり意識してないけど、まあそんな感じに勝手になるかなあ」
「別に急いでないし、ちょっとゆっくり歩くだけだから」

とても穏やかな気持ちになりました。
私は、障がいや特性、障がいや特性のあるひと、に関する講義を担当していますが、
その伝え方にいつも苦戦しています。講義だけでは、イメージに留まり、現実的な
こととして実感されにくく、とても行動変容にまでは届きません。

彼らとの出会いにより、「生の体験」や「接すること」には敵わないとの思いが
強くなり、私自身の無力さを禁じえませんが、同時に、さらなる工夫をしなければ
と、改めて気持ちが引き締まりました。



2018.05.29

変わりゆく地域

「地域」ということばからみなさんは、何を想像しますか?
地域ということばはよく耳にしますが、どこからどこまでを指すのか、ピンとこないままでいました。
でも、最近、自分の住んでいる、小さな村の中でのひととひととの関係が「地域」かなと思います。

私の住んでいる場所は、大阪市内から30分ほどにある、もとからそこに住んでいる「地のひと」と45年ほど前に新興住宅地として開発された「地でないひと」が暮らす小さな丁番地です。
町という範囲には、1丁と2丁がありますが、入り組んだ私道に囲まれた1丁の番地の中に30世帯ほどが暮らしています。

現在、私にとって実感できる「地域」は、この30世帯ほどが織りなすひととひととの関係、ひとの行為とひとの行為がつむぐ連鎖のようなものです。

私が中学生・高校生の時代には、この地域をとても煩わしいものと感じていました。
自治会活動が盛んで、様々な催しへの参加は義務で、あちこちの井戸端会議からは、その場にいない人の陰口が聞こえてくる。
また、そこでは、ヒエラルヒーが色濃い人間関係が展開されており、窮屈さを感じていました。

その空気が、ここ5年くらいの間に、なんとなく変化し始めました。
あれこれとその理由を考えていたのですが、その大きな理由として、君臨していたボスのような存在の人が、そのようなポジションが、薄らいでいってるからです。村の若者がどんどん外に出ていき、10年前あたりから老齢化が加速しています。そのような環境の中、誰かがボスになり力をもったり、ボスの機嫌をうかがったり、違うボスをたてた別集団の組織化ができなくなったりしていったように思います。

すると…
ヒエラルヒーは崩れだし、だれもが同じ位置で、だれもが助け合う関係が出てきました。
助け合うというよりは、お互いがお互いを見守る・気にかけると言った方が適切かもしれません。

家の外を箒ではいているとき、買い物に行くために村の私道を歩くとき、どこかの家の雨戸が閉まっていれば、ちょっと気に留める。翌日も雨戸が閉まっていれば、「〇〇さんちの雨戸閉まったままだけど、旅行中かなんか?」と、道であった村のひとに聞いてみる。誰も知らなければ「いますか~」と声をかける。

老齢になり、車を運転しなくなったひとに「いつでも車を出すから、遠慮せず言ってくださいね」と声がかかる。

若い世代がちらほら戻り始め、あまり見られなくなった、子どもが外で走る回る、ミニだんじりを曳く楽し気な声が響くようになりました。そうすると、おじいちゃん、おばあちゃんも外に出てきて、その姿を眺めています。

こんなふうに、互いが互いを気にかける関係では、上下関係も、強いリーダーシップ性も、ヒエラルヒーも存在しなくなっているように思います。強い絆というものではなく、ゆる~く、でも繋がっている。そんな空気はとても心地よく、この5年ほどは、自分の住むこの村「地域」がどんどん好きになっています。

みなさんの「地域」は何を指しますか。そこではどんな変化が起こっていますか。


2018.05.22

「国民年金と障害基礎年金」

「国民年金と障害基礎年金」

20歳以上のみなさんは、毎月国民年金を支払っていますか?
よくあるのは、大学に入学し、一人暮らしを始めた人が支払い開始をうっかり見逃してしまうケースです。
国民年金支払い開始の通知は、住民票のある住所に届きます。
そのため、大学への入学に伴い、一人暮らしを始めた市(区)役所に移している場合、その住所に支払い通知が送られ、保護者の方も気づかないことが多くあります。
結果的に、未払い(滞納)となり、その期間分の保険料が減額され支給、あるいは不支給ということが起こります。

しかし、それ以上に大変なことが起きるのをみなさんはご存じでしょうか。

国民年金に加入している間に、一定の障害の状態になった場合、「障害基礎年金」を受給できるのですが、その条件として「国民年金」の納付があります。
例えば、学生のみなさんが、事故やスポーツなどにより、けがを負い、障害の状態となった場合、その初診日の「前日」において、下記の要件を満たしていなければ「障害基礎年金」を受給することができません。
(1)初診日のある月の前々月までの公的年金の加入期間の2/3以上の期間について、保険料が納付または免除されていること
(2)初診日において65歳未満であり、初診日のある月の前々月までの1年間に保険料の未納がないこと

この2つの条件ですが、うっかり忘れていたという理由は一切受けつけてくれません。
条件に記されているように、国民年金には「免除」という仕組みが申請制で設けられています。
また、大学生の間は、「学生納付特例制度」を利用することができます。

ご自身の国民年金の状況、様々な年金の仕組みとしなければならないことを確認してみてはどうでしょうか。
http://www.nenkin.go.jp/index.html

2018.05.15

「根を張る」と「地に足をつける」

今年の春は本当におかしな気候が続いていますが、
みなさん、体調を崩されていないでしょうか。

先週に引き続き、野菜の発芽とひとについてお話します。
今年の発芽率が芳しくないのは、先週お話した通りですが、
こんな悪条件にも負けず、がんばって芽を出している野菜たち。

どれも、見た目には同じように発芽しているのですが、
数日経つと、ヘタッとしてしまう芽があります。

ヘタッとしてしまった苗のポットを開いてみると…
「根」らしきものがありません。

小さい・小さい芽ですが、ゆっくりと伸びている芽のポットをそ~っと開いてみると…
先ほどのポットのように土がパラパラと崩れず、「根」が土に絡み始めています。

土から上の、目に見える表面的な部分は同じでしたが、
「根を張っている」かどうかに大きな違いがありました。

次に、すでに畑に定植した苗。
定植時に一番小さくて、枯れてしまうかもしれないと心配した苗がいくつかありました。
定植から2週間の間、小さな苗の成長スピードは、他の苗と比べて少しゆっくり。
ただ、不思議なことに、ほとんど虫に食べられていません。
他の苗が今のこの苗と同じくらいの大きさの時には、虫に食べられ始め、
葉が残っていないものもあります。

そこで、確認をすることにしました。本当はやってはいけないのですが、好奇心が勝ります。
苗の周囲を大きく掘り起こしてみると…
やっぱり「根!」なんです。
虫のついていない苗は「根」は、芽の大きさからは驚くほど土にどっかり張りついています。
成長スピードは速かったけど、虫に食べられてしまった苗の「根」は、か細~い。

ひとも同じですね。
背伸びをするばかりでは、表面上は勢いよくても、内実が伴わないためいつか崩れます。
まずは、「地に足をつける」ことが大切ではないでしょうか。
大学の学習の中で言えば、まずは基礎を確実に修得することだと言えます。
小さな芽が大きな芽を追い抜く姿は、ひとで譬えられる「大器晩成」に似ていますが、
そこにも「地に足をつく」「基礎をおさえる」という「根を張る」下地があるように思います。

新年度が始まり2か月が終了するまであとわずかになりました。
みなさん、それぞれにとって「根を張る」「地に足をつける」とは何を意味しますか。




2018.05.08

野菜とひと(1)

みなさんは、どんなゴールデンウィークを過ごされたのでしょうか。
私は、この時期、野菜の発芽と育苗に一喜一憂しています。
ゴールデンウィーク期間中、家屋の隣にある畑で発芽のチェックをしながら、
ふと、野菜とひととの類似点にあれこれ気づきました。

今日は、発芽とひととについて書いてみようと思います。

4月上旬から中旬にかけてポットに蒔いた種は、6種類。約60個のポットです。



種の中には、光を嫌う(嫌光性)と光を好む(好光性)があります。
嫌光性種子は、種の2~3倍の深さに種を隠します。その上を新聞紙で覆う場合もあります。
好光性種子は、うっすらと土をかけるだけ。

種まき時点でたっぷりと水をやりますが、ほとんどの種子は発芽まで水はやりません。
中でも、豆類は水分ですぐに膨張し、腐ってしまうため、水は控えめ、乾き気味にします。

25度の高温を好むゴーヤやトウモロコシ。
20度前後がベストなきゅうりやトマトやなす。

野菜という同じくくりでも、それぞれ好む条件があり、条件が整ってはじめて発芽します。
ひとという同じくくりでも、そのひとらしい芽が出る条件が異なります。
一人ひとりに適した、そのひとがそのひとらしく芽吹く環境を整える教育と似ています。

今年の発芽は、とても難しいのですが、その原因は、気温の乱高下にあります。
気温が足りず、土が湿ったままの状態が長く続き、ほとんどの種子が土の中で腐ってしまいました。
種まきの時期が少し早く、ちょっとしたタイミングのズレから発芽が生じませんでした。

ひとも同じですね。
一番いいタイミングでの学び、それに必要な刺激が、そのひとを伸ばします。

野菜とひと。
同じ生き物で考えると、似ているところが多いのも不思議ではないのかもしれません。

2018.05.01

「みとり」

先日、在宅医療の医師「徳永進」氏 × 社会学者「上野千鶴子」氏の対談に参加してきました。
対談のタイトルは、「アマからみとりの話、してみーひん?」。
大阪@尼崎から、「看取り」について、話してみませんか?考えてみませんか?という趣旨で、
在宅での看取りに奔走する徳永医師とおひとり様で在宅死が可能だとする上野氏の対話でした。



徳永さんは、在宅で最期を迎えたいと願う当事者・迎えさせてあげたいと願う家族の願いを、当事者+家族+徳永さん+スタッフとともに達成すべく奔走されています。その豊富な体験から、さまざまなエピソードを取り出し、冗談も多く交えながら話されていました。「在宅」で「看取る」という、今の社会では、とてつもなく高く思える壁の高さを少しでも下げようと工夫されているように見えました。

あるご家族のお話。末期のガンで「死ぬか・生きるか」という生死の真っただ中のご高齢のご婦人。
でも、その方の主訴は「お腹がかゆい」。
ものすご~く、きつい現状。
でも、「このかゆみをとめておくれ」「このかゆみがとまるんなら、いつ死んでもいい」と。
いつ亡くなってもおかしくないという日々は、とても重たい日常なのに、実はこんな些細なことが、生き死によりも身近にあり、「今」を悩ませる。それが、今「生きている」ということというメッセージかもしれません。

上野氏は、いつもながらのサバサバとしたキレのある語り口でした。
「おひとりさま」にはじまり、「おひとりさまの老後」「おひとりさまの最期」と続く。
その間には、「男おひとりさま道」という著書も出し、おひとりさまシリーズは、確固たる思想のもと、かなり極端な、一面的な切り口ではあるものの、「うんうん」と納得するかしょも多いと思います。

その延長線上とでも言いますか、今彼女が考えているのは、おひとりさまの「在宅」での「死」。
自身が選択した「ひとり」の先にある「死」を「孤独死」と呼ぶことに反対。
その代わりに「在宅ひとり死」(@UENO CHIZUKO)という呼び方を提唱する。
「うんうん、なかなかいい呼び方だな」と、一緒に対談に出かけていた人たちと話しました。

お二人の対談を聞き、参加していた仲間と話しました。
さまざまな最期のあり方が可能になってきている時代です。
ただし、それは、「どういうあり方がいいのか」という意志を持っているひとだけに限られる選択です。
また、家族やパートナーがいる場合は、当事者の意志とその周囲の者の意志とのすり合わせも必要です。

私は、身近なひとたちとは、これらのテーマが重た~い空気を誘わないように、どんなふうに最期を生きて、どんなふうに最期を迎えたいのか、などなど、日常の中で自然に対話しています。

みなさんの「みとり」像や希望はどんなものでしょうか。

2018.04.24

スポーツ人文社会学特論

大学院前期課程の授業のひとつに「スポーツ人文社会学特論」があります。
自然科学領域を専攻する学生を中心にスポーツ人文社会学の基礎を学ぶ授業です。
スポーツマネジメント領域は種子田教授が、スポーツ教育学領域は私が担当します。

初回である先週の課題は、スポーツ科学あるいはスポーツ健康科学(どちらかは受講生が決めます)の体系化でした。テキストや文献を一切参考にせず、各受講生が自身で考え、A3用紙に体系図を作成し持ち寄りました。25人の受講生それぞれの25の体系図。同じものはひとつもなく、似ているものもありませんでした。それぞれユニークな体系図です。

どの体系図にも、自然科学領域に含まれる分野は網羅されているのですが、人文社会学領域に含まれる分野はなかなか難しいようです。スポーツ原理・言論、社会学、哲学や歴史、文化、などをはじめ、その他の人文社会学領域の分野がなかなか見当たりません。そういう意味では、この授業の位置づけ、重要さを初回から実感しました。

スポーツ教育学、スポーツマネジメントとは何か、その役割は、意義は?
各専門分野だけを取り出してみても、全体像が見えなければ、その分野の意義や意味は見えません。
自身が研究する意味や意義、他との関連、自身の立ち位置が見えません。
それは、〇〇町1番地に住んでいるとわかっていても、市区町村、都道府県、国が見えないのと同じです。

この授業の目的は、シラバスにあるように「近視眼的なアプローチではなく、多面的な視座から捉えることのできる力を培う」です。まず、自身の領域も含め、全体の中のスポーツ教育学の位置を見出すことから出発です。

初回授業の後半は、4~5人のグループを組み、それぞれの体系図の説明をした後、各グループでよりよい体系図の作成をしました。が、十人十色の体系図、なかなかすり合わせも難しく、まとまらない様子。「う~ん」とうなる声、鉛筆が宙に浮いている手、書いたり消したりで真っ黒になっていく紙、それぞれが熟考しています。

今週は、グループで作成した新たな体系図を各自がバージョンアップして持ち寄ります。
課題は2つ。
(1)2つの文献を参考に、体系図のバージョンアップ。ただし、同じものを作らない、引きずられない。
(2)体系図に使用するすべてのことばの定義をする。
スポーツをはじめ、スポーツ科学、スポーツ健康科学。そもそも、科学とは何?
基礎科学と応用科学、社会学、社会って? などなど、多くの定義が必要になります。

「う~ん」と悩み、考え、熟考し、バージョンアップされた体系図を楽しみにしています。

2018.04.17

新しい一歩

火曜日のブログを担当しますANです。

授業開始から約10日間が過ぎました。
新入生のみなさん、大学生活に慣れてきたでしょうか。
2回生のみなさん、新入生を迎え、気が引き締まっているのではないでしょうか。
3回生のみなさん、大学生活の折り返しに入り、将来のことを考え始めていますか。
4回生のみなさん、大学生活最後をどう過ごすか設計していますか。
ちょっとのんびり大学生活を送っているみなさん、今年度の計画を立てていますか。

私は3回生から担当する授業がほとんどなので、
1回生・2回生のみなさんとお会いすることが少なく残念です。
改めて、本学部の新しい仲間となった新入生のみなさん、
新しい回生となったみなさんへこの言葉を贈ります。

「桜梅桃李」
もっともシンプルな意味は、「それぞれが独自の花を咲かせること」ですが、
いろいろな解釈ができますね。
みなさん、一人ひとり、このことばを自身にひきつけ、解釈してみてください。
それぞれの新しい生活、未知の未来にこのことばが有用であることを願います。