みなさん、こんにちは、嶋村です。突然ですが最近とっても忙しいです。。。しかもメバチコ(ものもらい)ができて痛い。。。ストレスですかね。頼まれていた論文やら6月の学会の予稿集の原稿やらその他諸々の書類関係やら授業やら。。。他にもありますが、どうしてもやらなければいけない研究関係以外の事を後回しにするクセがあるんですがそれ自体も後になってストレスのもとになります。というわけで3週間前に預かっていた宿題を来週返すことになっております(あくまでも予定 笑)。結局のところ一番時間を忘れて没頭できるのが論文を書いたり読んだりするのなんで、どうしてもそうなってしまうんです。。。
まあというわけで、このブログも自分の研究関係をやっている最中に気分転換で書いています(笑)。そして特に何も書くことがないので今日は人間の言語(自然言語)の意味について書くことにします。僕がやっている言語学の意味研究は形式意味論と言われるのですが、その理論は集合や関数など数学的概念に依拠しております。まあこれまで何度かご紹介したかも知れませんが、そういうことなんです。以前機械学習の研究を紹介した時に、機械が利用するデータが形式意味論的に表現されているという話をしました。というわけ、形式意味論はその性質上工学分野との親和性も高いのですが、ある意味形式化され過ぎて実際の人が使う言語の意味を表現できていないことがあります。というのも(原則として)言語の意味というのは形式意味論では二値なんですね。つまり真か偽であるかということです。「太郎が本を読んでいる」という命題が真であるのは現実世界で太郎が本を読んでいる場合のみでそれ以外は偽です。しかし、言葉の意味はというのはなかなか不思議で、人は「花子のことがめっちゃ好き過ぎてもう憎たらしい!」という複雑な感情を持つことができますが、これを表現するのに「花子のことが好きだけど嫌いだ」と発したら機械はどう判断するでしょうね?さらに「時計持ってる?」も文脈によって「何時?」という意味になりますよね。こういう文脈依存性もなかなか難しいところです。これに関して「言われていること」と「暗に意味されていること」が違うというのもあります。つまり「太郎が来やがった」というのは命題的には「太郎が来た」と同じですが、前者はさらに別に意味を暗に表しています。つまり「太郎が来た事を発話者はよく思っていない」という意味です。このような意味を習慣的含意(conventional implicature)というのですが、この意味は命題レベル(二値)ではないので、命題を否定するような否定表現、たとえば「それは嘘だ!」のようなもので否定することはできません。例えば A さんが「太郎が来やがった」と発し、B さんが「それは嘘だ!」と言うと「太郎が来た」ことは否定できても「太郎が来た事を A はよく思っていない」という意味は否定できません。このように自然言語の意味は複雑です。私たちにとっては当たり前のことだけど、いざ機械に学ばせるとなると大変そうですね。今は21世紀、あと82年ほどで22世紀になります。ドラえもんが誕生するってことになっているのが22世紀なんですが、どうなんでしょうね?(笑)
ではでは。(ちなみに今日も新しい写真がないのでオフィス鴨川でご勘弁)