2018.05.01

「みとり」

先日、在宅医療の医師「徳永進」氏 × 社会学者「上野千鶴子」氏の対談に参加してきました。
対談のタイトルは、「アマからみとりの話、してみーひん?」。
大阪@尼崎から、「看取り」について、話してみませんか?考えてみませんか?という趣旨で、
在宅での看取りに奔走する徳永医師とおひとり様で在宅死が可能だとする上野氏の対話でした。



徳永さんは、在宅で最期を迎えたいと願う当事者・迎えさせてあげたいと願う家族の願いを、当事者+家族+徳永さん+スタッフとともに達成すべく奔走されています。その豊富な体験から、さまざまなエピソードを取り出し、冗談も多く交えながら話されていました。「在宅」で「看取る」という、今の社会では、とてつもなく高く思える壁の高さを少しでも下げようと工夫されているように見えました。

あるご家族のお話。末期のガンで「死ぬか・生きるか」という生死の真っただ中のご高齢のご婦人。
でも、その方の主訴は「お腹がかゆい」。
ものすご~く、きつい現状。
でも、「このかゆみをとめておくれ」「このかゆみがとまるんなら、いつ死んでもいい」と。
いつ亡くなってもおかしくないという日々は、とても重たい日常なのに、実はこんな些細なことが、生き死によりも身近にあり、「今」を悩ませる。それが、今「生きている」ということというメッセージかもしれません。

上野氏は、いつもながらのサバサバとしたキレのある語り口でした。
「おひとりさま」にはじまり、「おひとりさまの老後」「おひとりさまの最期」と続く。
その間には、「男おひとりさま道」という著書も出し、おひとりさまシリーズは、確固たる思想のもと、かなり極端な、一面的な切り口ではあるものの、「うんうん」と納得するかしょも多いと思います。

その延長線上とでも言いますか、今彼女が考えているのは、おひとりさまの「在宅」での「死」。
自身が選択した「ひとり」の先にある「死」を「孤独死」と呼ぶことに反対。
その代わりに「在宅ひとり死」(@UENO CHIZUKO)という呼び方を提唱する。
「うんうん、なかなかいい呼び方だな」と、一緒に対談に出かけていた人たちと話しました。

お二人の対談を聞き、参加していた仲間と話しました。
さまざまな最期のあり方が可能になってきている時代です。
ただし、それは、「どういうあり方がいいのか」という意志を持っているひとだけに限られる選択です。
また、家族やパートナーがいる場合は、当事者の意志とその周囲の者の意志とのすり合わせも必要です。

私は、身近なひとたちとは、これらのテーマが重た~い空気を誘わないように、どんなふうに最期を生きて、どんなふうに最期を迎えたいのか、などなど、日常の中で自然に対話しています。

みなさんの「みとり」像や希望はどんなものでしょうか。