2018.08.03

P の会議と言語学の話その三

どうも嶋村です。相変わらず暑い日が続きますが、みなさんどうお過ごしでしょうか。


今日は P を担当する先生が集まって会議がありました。前期に関するふりかえりなども含めて、おそらく学生の皆さんが気にしているだろう成績のことを中心に話し合いをしました。成績発表はまだですが楽しみ(?)に待っていてください。。。


さてさて、今回も言語学の話ということで、3回目の今日は、前回まで話していた「知っているけど知らない言語知識」ですが、なぜそのようなものを我々人間は持っているのかに関してちょっと深く考えていきたいと思います。前回も話したように人間は第1言語の文法知識をだいたい5歳くらいまでにある程度完成させることがわかっています。ところで「言語知識はどのように獲得するのか」という問いに対して大抵の人は「親や周りの大人から学ぶ」と答えるのではないでしょうか。


このような考え方は、哲学的に言えばいわゆる「経験主義(empricism)」に則しています。例えるなら、「オギャー」と赤ちゃんが生まれた時、その子の脳は新品のノートのように何も書かれていません(いわゆる「タブラ・ラーサ」)。しかし様々な経験を積むことで、そのノート(脳)にそれらの経験が記されていきます。ゆえに言語知識に関してこの考え方を採用すれば、例えばある子供が日本語を話す環境に生まれれば、その子の脳に日本語の経験が蓄積されていき、それがいつの日か日本語の文法として成立するという考え方です。


一方で人間の知識は生得的であるという考え方もあります。もちろん全てが生得的であるというわけではありませんが、我々知識の中核は生まれながらにして備わっているという考え方で、哲学的には「合理主義(rationalism)」と呼ばれます。


どちらが正しいのでしょうか。子供がどのように言語を獲得するか少し考えてみましょう。先ほども言いましたように子供の言語(文法)獲得は比較的早い段階で完了します。しかも実は親から教えてもらうわけではありません。「教わる」という行為は通常意識下で明示的に行われるものですが、これまで話してきたように我々の言語知識は暗黙的なものです。すなわち、「太郎は花子にケーキを食べさせた」は OK で「太郎は花子をケーキを食べさせた」はおかしいと判断できるけどなぜかはわからないというものです。中身がわからないもの(明示的でないもの)をどのように獲得できるのでしょうか。実際のところ、言語獲得において子供は親からの「~ではないから〜しなさい」という明示的な指示に従わないことがわかっています。つまりある所与の文構造の文法的間違いを自分で修正できるまで修正しないのです。


さらに問題なのは、我々の生み出す言葉(文)の数は無限であるということです。例えば、今僕が書いている文も、今僕が初めて生み出した文です。日本語の語彙の数は人によって差はあると思いますが、いずれにせよ有限です。その有限手段を使って生み出される文章はどれくらいあるのでしょうか。例えば、1日に 100 文作ったとしましょう。さて毎日 100 文作って、100 歳まで生きたとしましょう。ここでは 5 歳から毎日 100 文発話したとします。そうすると 100×365×96ですから3,405,000 文も作ることになります。これだけの数の文法的な文を生み出す装置が我々の脳にある言語知識(文法)なわけです。もちろんもっと数の多い場合も考えられるわけです。さらに我々は会話もしますから人が発話した文も解釈しないといけません。そうすると我々の脳が生み出したり解釈したりする文はすごく多いということになります。よって我々の文法知識はこのような膨大な量の文を処理できるものでなくてはなりませんが、そのような複雑な作業ができる装置を子供はなぜ親から教わることもなく、割と早い段階で獲得できるのかを考えないといけません。


さて、以上の議論に鑑みて、みなさんは「経験主義」的な立場を支持しますか、それとも「合理主義」的な立場を支持しますか。僕が専門としている「生成文法」は後者の立場をとっています。すなわち、言語知識の中核的な部分はすでに生まれた段階で持っているという見解です。もちろん僕が日本語を母語として話すのは日本に生まれたからであり、言語知識の全てが生得的というわけではありません。しかし、全ての言語に共通するような、いわば共通の言語の設計図のようなもの持って我々は生まれてくるのだという考え方を採用しています。次回はこの話をもう少し詳しくしていきたいと思います。っていつまで続くんだ~(笑)


では、良い週末を。ちなみに京都では「京の七夕」というイベントが開催されているので、よかったら週末は京都にお出かけしてみてはどうでしょうか。写真は二条城ですが(誰か知らない人が写ってしまっています。。。)、京都のあちこちでやっているそうです。