2019.05.24

∃ > ∀ か ∀ > ∃ の話

どうも、金曜担当の嶋村です。さて先週は色々書いたわけですが、僕の(しょうもない)ブログの読者の一人からデータを多角的な観点から評価するとはどのようなことか具体的に教えて欲しいと言われたので、今日は言語学の例を出しながらその辺の話をしたいと思います。


その前になんですが、実は先週タイポがありました。しかも英語で(笑)。実は、future のスペルが間違ってました。”u” が抜けていましたね。あはは。。。「弘法にも筆の誤り」ですね(笑)。まあイチローも三振してたし、僕もぱぱぱっと書いているとミスぐらいしますわ、そりゃ。。。まあ、以後気をつけます。


というわけで、今日の話ですが、具体的な事例として数量詞の解釈の話をしたいと思います。数量詞ってご存知ですか?いや言語学をやってない人は知らなくて当然ですが、皆さんは日常的に使っていらっしゃいます。例えば:


(1) Some boy loves every girl.


という英語には2つの解釈があると言われています。一つは「誰か一人男の子がいて、彼が(文脈上明確な誰かが分かる)全ての女の子を愛している」という解釈です。論理学・数学では「誰か」のような存在を表す(存在量化)記号を∃と書きます。それに対して「全て」を表す(全称量化)記号を∀と書きます。なのでこの読みは∃ > ∀と書くことができます。> は当該数量詞の作用域(スコープと言います)が広いことを表します。つまり、「全ての女の子」に対して「誰か男の子」は一人しかいないという読みです。


もう一つの解釈ですが、「全ての女の子」が「誰か男の子」よりも広い作用域を取る読みです。つまり、全ての女の子には彼女たちのことが好きな男の子が別々にいるという解釈です。これを∀ > ∃と表します。この読みは (1) の文の語順を反映していません。つまり some boy > every girl ではなく every girl > some boy なんですね。このように語順と違う数量詞の解釈を出せるのが英語の一つの特徴だと言われています。ちなみに今日の写真はこのような語順に合わない解釈がどう派生されるか言語学的にをぱっぱと書いてみました。写真がないのでこれでご勘弁。。。TeX で綺麗でしょ(笑)(Word なんかやめてみんな TeX にしたらいいのに)。


翻って日本語はどうでしょうか。(2) を考えてみましょう。


(2) 誰か男の子がどの女の子も愛している。


語順通りの解釈、すなわち∃ > ∀は簡単に出るような気がします。人によっては∀ > ∃も可能でしょうか???とりあえず、僕がやっている言語学の文献によれば、∃ > ∀しかないということだそうです。まあ確かに語順はと逆の解釈、「全ての女の子には彼女たちのことが好きな男の子が別々にいる」というのはなかなか難しいように感じます。


というわけで、日本語は英語のような数量詞の曖昧性はなく、語順通りの作用域関係しか出せないというのが共通の理解として今のところあります(間違っているかも知れませんが)。


このような言語現象を考えるときにやってはいけないことがあります。それは以下のような例です。


(3) 全ての男の子が誰か女の子を愛している。


この場合語順は∀ > ∃ですので、女の子を全ての男の子に分配する解釈が出来ますね。つまり愛すべき女の子が各男の子に一人いるという解釈です。さて日本語話者の皆さんの中には「いや、待って!∃ > ∀も出来るよ!」って人がいるかも知れません。つまり愛すべき女の子はどの男の子にとっても同じ人物であるという解釈です。これを証拠に日本語でも語順とは違う数量詞の作用域の解釈でるんだって主張したい人がいるかも知れませんね。しかし、これは間違いです。なぜかというと∀ > ∃は∃ > ∀を含意しているからなんですね。つまり、全ての男の子が好きな女の子がたまたま同じである場合です。この場合、女の子は全ての男の子に分配されて解釈されますが、現実世界ではそれは同一人物なので、結局解釈上∃ > ∀となります。なので、数量詞の作用域を見る場合必ず語順は存在量化が全称量化に先行していないといけません。というのも∃ > ∀は∀ > ∃を含意しないからです。


というわけで言いたいことは分かりましたか?重要なのは「含意」という概念ですね。しかしそれを知らずに (3) を解釈すると間違った方向に向いてしまいます。文法的(統語論的な)語順だけではなく「含意」という意味論的な要因が大事であることに気づかされます。


まあこんなミスは普通の言語学者ならしないと思いますし、これはあまりにも基本的なのですが、しかしこれと同じ種類のミスを犯して書かれているペーパーが割と(日本語研究関係では)あるように感じます。まあ今となっては統語論も意味論もバランスよくやっててよかったも思うし、このバランスの良さがアメリカの大学院プログラムの素晴らしさでもあります。本場で勉強するって大事ですね。


ではでは。