2019.06.07

雨ですね。。。

こんにちは、嶋村です。今日は結構な雨ですね。。。今朝娘を保育園に送って行ったんですが、長靴を履いた時はやたらと水たまりに入りたがるのでかなり面倒です。


さて、あいにくの雨ですが今日はいろいろやることがあるので大学にいます。このブログも含めて。。。しかし特に何か書くこともないんですよね。まあこれから学会にちょこちょこ行ったりするのでまたその報告もできたらいいんですが、今のところのその準備や論文を書いたり読んだりなどで忙しくしています。まあとにかく書くことがないので、今日は前回に引き続き意味論の話をしたいと思います。今日のテーマは態度動詞にしましょうかね。態度動詞というのは「言う」や「思う」などの話者や主語がどのような信念を持っているかを表すために使います。例えば「太郎は、神が存在すると思っている」のような文の意味は、先週話した形式意味論的な考えに則れば太郎がそう思っているなら真ですし、そうでなければ偽となります。ところが、例えば、「山田さんが僕にご飯を作ってくれた」は、山田さんが存在して、彼が僕にご飯を作ってくれたという事実がある限り真ですが、「神が僕にご飯を作ってくれた」は突然胡散臭い文になります。もちろん奥さんのことを「神」と読んでいれば別ですが(笑)。この胡散臭さはどこから来るかというと、この文は「神」の存在を前提としているからなんですね。これは指示性の問題なのですが、「神が僕にご飯を作ってくれた」みたいな文を発する時に、名詞の指示対象は現実世界の中で評価されます。ところが、態度動詞の選択する文は、事情がちょっと変わってきます。すなわち、これらの動詞は可能世界への扉を開くことになります。このへんの事扱う意味論を可能世界意味論なんて言ったりしますが、クリプキやヒンティッカみたいなえらい哲学者によって考え出されました。話を「太郎は、神が存在すると思っている」に戻すと、この命題が真であるのは、現実世界の太郎が置かれている状況や彼の信念にとって「神が存在する」という命題が成立する世界に必ずアクセスできるようであれば、真となります。このため、命題はその命題が成立する世界の集合だということが出来ます。可能世界は様々です。例えばみなさんは今日どのような夜を過ごすでしょうか?晩御飯は唐揚げかも知れません。ブリ大根かも知れません(季節的にはどうかと思いますが)。タコライスかも知れません。いろんな可能性があるわけですが、どの世界でも「神が存在する」が太郎にとって成立する命題なら「太郎は、神が存在すると思っている」という文は真になります。


さて上で見たように、態度動詞を使わない環境ではデフォルトで現実世界が真偽の評価の場になるので、存在しないようなものに言及すると意味がおかしくなります。例えば「現在のフランスの王様はハゲだ」という言語学・哲学ではよく使われる例文があるのですが、これはそもそも「現在のフランスの王様」が存在しないので、へんな文だと思います。さてここで質問です!この文は偽でしょうか?それともそもそも存在しないものを語っているのでナンセンス(意味がない)なのでしょうか?ちょっと考えてみてください。


続きはまた来週。