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2019.06.14

先週の問題の答え

こんにちは、嶋村です。なんか最近曇りの日が多く、さらにやることがたくさんあって気分も沈んできそうですが、この前何と初めてドクターイエローを見ました!!新幹線電気軌道総合試験車のことですが、いつどこを走っているのか知られていないので見ると幸運が訪れるなんて言われたりもします。まあ全体を見たのではなく、チラッと一部を見ただけですが、何かいいことがあればいいなあ。。。


さて先週は、「現在のフランス国王はハゲである」が偽であるか、あるいはそもそもそんな人物はこの世に存在しないのでこの命題は何も意味をなさないのか考えてください、っていう無茶振りで終わった気がします(笑)。しかしこれは論理学・言語哲学にとって重要な問題で、真であるか偽であるかの2値に依拠する意味研究では、排中律が前提となっていて、「現在のフランス国王はハゲである」はこの考え方にとってちょっとした脅威なんです。排中律は、Law of Excluded Middle と言いまして、要は真か偽の真ん中はないってことです。もう少しフォーマルに言うと、ある任意の命題 P はそれが成り立つか成り立たないかのどちらかしかない 、P ∨ ¬P (P or not P) だっていうことなんですね。 例えば、「立命館大学スポーツ健康科学部は BKC キャンパスにある」という命題は真ですね。その否定は「立命館大学スポーツ健康科学部は BKC キャンパスにはない」は偽ですので排中律を満たしています。そうすると「現在のフランス国王はハゲである」は何が問題なのでしょうか?この世の中にフランス国王は存在しないので仮にこれを偽であるとしましょう。さてその否定形はどうでしょうか。「現在のフランス国王はハゲではない」は真ですか、それとも偽ですか?真と言えないですよね、だって「現在のフランス国王」は存在しないのですから。。。とういうことは偽になってしまい、排中律にとっては問題となるわけです。論理学者・言語学者たちは「えらいこっちゃ」となるわけですね。


上述の問題に関して「現在のフランス国王はハゲである」は「現在のフランス国王」という確定記述(definite decription のことで、要は定冠詞が付くような指示対象が一つに決まる名詞表現)を持っていますが、これに関して哲学者のバートランド・ラッセルは当該命題は以下の三つの意味を表していると言いました。


(1) フランスの国王が少なくとも一人存在している。

(2)   フランスの国王が多くても一人しかいない。

(3)   フランスの国王であるものは全てハゲである。


ということなんですが、以前存在を表す記号を紹介した時に ∃ と書いたと思います。「~が(少なくとも)一つ・一人存在する」という意味ですが、この存在をたった一人(一つ)にすることで確定記述を表現できます。 三つの意味を論理式で書くと:


(4)    ∃x[KF(x)]

(5)    ∀x.∀y[KF(x) ∧ KF(y) x=y]

(6)    ∀x[KF(x) B(x)]


となります。KF は「現在のフランスの国王」を表し、B は「ハゲである」を表します。ということで (4) は「 KF である個体 x が(少なくとも一人)存在している」を意味し、(5) は、「全ての個体 x と y に関して、x が KF でありかつ y も KF であるならばは x = y は同一である」を意味し、全ての個体(人間)について検討しています。そしてどんな全ての個体も KF であるならそれは全て同じであるということで KF が一人しかいないことを表現しています。そして最後に (6) ですが、「全ての個体 x に関して、x が KF ならば、x はハゲである」を表しています。これらを全て合わせると:


(7)    ∃x[KF(x) ∧ ∀y[KF(y) x=y] ∧ B(x)]


みたいな感じになります。なぜかは説明しませんが、こうなります(笑)。さて (7) は 「ある個体 x が(少なくとも一つ)あって、x は KF であり、かつ全ての 個体 y に関して、y が KF なら x と y は同一であり、かつ x はハゲている」と読みます。それが「現在のフランス国王はハゲである」の意味です(笑)。日々私たちは「現在のフランスの国王」みたいな表現をこのように解釈しているんですね(笑)。これがラッセルの確定記述なのですが、これのエラいところは排中律に合うというところです。つまり、(7) を否定すると:


(8)    ¬∃x[KF(x) ∧ ∀y[KF(y) x=y] ∧ B(x)]


となりますが、これは x の存在を否定しているので真になり、排中律が保たれるのです。このラッセルの考え方とは違った考え方もあります。ストローソンという哲学者は「現在のフランス国王はハゲである」はそもそも前提がおかしいから真偽値を持たない文であると言っています。まあどっちも正しいと思いますが、どっちかというと僕はストローソン派です。皆さんはどっち派ですか?(笑)


というわけで、もう今日は十分だと思うので続きはまた来週。

2019.06.07

雨ですね。。。

こんにちは、嶋村です。今日は結構な雨ですね。。。今朝娘を保育園に送って行ったんですが、長靴を履いた時はやたらと水たまりに入りたがるのでかなり面倒です。


さて、あいにくの雨ですが今日はいろいろやることがあるので大学にいます。このブログも含めて。。。しかし特に何か書くこともないんですよね。まあこれから学会にちょこちょこ行ったりするのでまたその報告もできたらいいんですが、今のところのその準備や論文を書いたり読んだりなどで忙しくしています。まあとにかく書くことがないので、今日は前回に引き続き意味論の話をしたいと思います。今日のテーマは態度動詞にしましょうかね。態度動詞というのは「言う」や「思う」などの話者や主語がどのような信念を持っているかを表すために使います。例えば「太郎は、神が存在すると思っている」のような文の意味は、先週話した形式意味論的な考えに則れば太郎がそう思っているなら真ですし、そうでなければ偽となります。ところが、例えば、「山田さんが僕にご飯を作ってくれた」は、山田さんが存在して、彼が僕にご飯を作ってくれたという事実がある限り真ですが、「神が僕にご飯を作ってくれた」は突然胡散臭い文になります。もちろん奥さんのことを「神」と読んでいれば別ですが(笑)。この胡散臭さはどこから来るかというと、この文は「神」の存在を前提としているからなんですね。これは指示性の問題なのですが、「神が僕にご飯を作ってくれた」みたいな文を発する時に、名詞の指示対象は現実世界の中で評価されます。ところが、態度動詞の選択する文は、事情がちょっと変わってきます。すなわち、これらの動詞は可能世界への扉を開くことになります。このへんの事扱う意味論を可能世界意味論なんて言ったりしますが、クリプキやヒンティッカみたいなえらい哲学者によって考え出されました。話を「太郎は、神が存在すると思っている」に戻すと、この命題が真であるのは、現実世界の太郎が置かれている状況や彼の信念にとって「神が存在する」という命題が成立する世界に必ずアクセスできるようであれば、真となります。このため、命題はその命題が成立する世界の集合だということが出来ます。可能世界は様々です。例えばみなさんは今日どのような夜を過ごすでしょうか?晩御飯は唐揚げかも知れません。ブリ大根かも知れません(季節的にはどうかと思いますが)。タコライスかも知れません。いろんな可能性があるわけですが、どの世界でも「神が存在する」が太郎にとって成立する命題なら「太郎は、神が存在すると思っている」という文は真になります。


さて上で見たように、態度動詞を使わない環境ではデフォルトで現実世界が真偽の評価の場になるので、存在しないようなものに言及すると意味がおかしくなります。例えば「現在のフランスの王様はハゲだ」という言語学・哲学ではよく使われる例文があるのですが、これはそもそも「現在のフランスの王様」が存在しないので、へんな文だと思います。さてここで質問です!この文は偽でしょうか?それともそもそも存在しないものを語っているのでナンセンス(意味がない)なのでしょうか?ちょっと考えてみてください。


続きはまた来週。

2019.05.31

(言語学的に)ドラえもんは22世紀にできるのか?

みなさん、こんにちは、嶋村です。突然ですが最近とっても忙しいです。。。しかもメバチコ(ものもらい)ができて痛い。。。ストレスですかね。頼まれていた論文やら6月の学会の予稿集の原稿やらその他諸々の書類関係やら授業やら。。。他にもありますが、どうしてもやらなければいけない研究関係以外の事を後回しにするクセがあるんですがそれ自体も後になってストレスのもとになります。というわけで3週間前に預かっていた宿題を来週返すことになっております(あくまでも予定 笑)。結局のところ一番時間を忘れて没頭できるのが論文を書いたり読んだりするのなんで、どうしてもそうなってしまうんです。。。


まあというわけで、このブログも自分の研究関係をやっている最中に気分転換で書いています(笑)。そして特に何も書くことがないので今日は人間の言語(自然言語)の意味について書くことにします。僕がやっている言語学の意味研究は形式意味論と言われるのですが、その理論は集合や関数など数学的概念に依拠しております。まあこれまで何度かご紹介したかも知れませんが、そういうことなんです。以前機械学習の研究を紹介した時に、機械が利用するデータが形式意味論的に表現されているという話をしました。というわけ、形式意味論はその性質上工学分野との親和性も高いのですが、ある意味形式化され過ぎて実際の人が使う言語の意味を表現できていないことがあります。というのも(原則として)言語の意味というのは形式意味論では二値なんですね。つまり真か偽であるかということです。「太郎が本を読んでいる」という命題が真であるのは現実世界で太郎が本を読んでいる場合のみでそれ以外は偽です。しかし、言葉の意味はというのはなかなか不思議で、人は「花子のことがめっちゃ好き過ぎてもう憎たらしい!」という複雑な感情を持つことができますが、これを表現するのに「花子のことが好きだけど嫌いだ」と発したら機械はどう判断するでしょうね?さらに「時計持ってる?」も文脈によって「何時?」という意味になりますよね。こういう文脈依存性もなかなか難しいところです。これに関して「言われていること」と「暗に意味されていること」が違うというのもあります。つまり「太郎が来やがった」というのは命題的には「太郎が来た」と同じですが、前者はさらに別に意味を暗に表しています。つまり「太郎が来た事を発話者はよく思っていない」という意味です。このような意味を習慣的含意(conventional implicature)というのですが、この意味は命題レベル(二値)ではないので、命題を否定するような否定表現、たとえば「それは嘘だ!」のようなもので否定することはできません。例えば A さんが「太郎が来やがった」と発し、B さんが「それは嘘だ!」と言うと「太郎が来た」ことは否定できても「太郎が来た事を A はよく思っていない」という意味は否定できません。このように自然言語の意味は複雑です。私たちにとっては当たり前のことだけど、いざ機械に学ばせるとなると大変そうですね。今は21世紀、あと82年ほどで22世紀になります。ドラえもんが誕生するってことになっているのが22世紀なんですが、どうなんでしょうね?(笑)


ではでは。(ちなみに今日も新しい写真がないのでオフィス鴨川でご勘弁)

2019.05.24

∃ > ∀ か ∀ > ∃ の話

どうも、金曜担当の嶋村です。さて先週は色々書いたわけですが、僕の(しょうもない)ブログの読者の一人からデータを多角的な観点から評価するとはどのようなことか具体的に教えて欲しいと言われたので、今日は言語学の例を出しながらその辺の話をしたいと思います。


その前になんですが、実は先週タイポがありました。しかも英語で(笑)。実は、future のスペルが間違ってました。”u” が抜けていましたね。あはは。。。「弘法にも筆の誤り」ですね(笑)。まあイチローも三振してたし、僕もぱぱぱっと書いているとミスぐらいしますわ、そりゃ。。。まあ、以後気をつけます。


というわけで、今日の話ですが、具体的な事例として数量詞の解釈の話をしたいと思います。数量詞ってご存知ですか?いや言語学をやってない人は知らなくて当然ですが、皆さんは日常的に使っていらっしゃいます。例えば:


(1) Some boy loves every girl.


という英語には2つの解釈があると言われています。一つは「誰か一人男の子がいて、彼が(文脈上明確な誰かが分かる)全ての女の子を愛している」という解釈です。論理学・数学では「誰か」のような存在を表す(存在量化)記号を∃と書きます。それに対して「全て」を表す(全称量化)記号を∀と書きます。なのでこの読みは∃ > ∀と書くことができます。> は当該数量詞の作用域(スコープと言います)が広いことを表します。つまり、「全ての女の子」に対して「誰か男の子」は一人しかいないという読みです。


もう一つの解釈ですが、「全ての女の子」が「誰か男の子」よりも広い作用域を取る読みです。つまり、全ての女の子には彼女たちのことが好きな男の子が別々にいるという解釈です。これを∀ > ∃と表します。この読みは (1) の文の語順を反映していません。つまり some boy > every girl ではなく every girl > some boy なんですね。このように語順と違う数量詞の解釈を出せるのが英語の一つの特徴だと言われています。ちなみに今日の写真はこのような語順に合わない解釈がどう派生されるか言語学的にをぱっぱと書いてみました。写真がないのでこれでご勘弁。。。TeX で綺麗でしょ(笑)(Word なんかやめてみんな TeX にしたらいいのに)。


翻って日本語はどうでしょうか。(2) を考えてみましょう。


(2) 誰か男の子がどの女の子も愛している。


語順通りの解釈、すなわち∃ > ∀は簡単に出るような気がします。人によっては∀ > ∃も可能でしょうか???とりあえず、僕がやっている言語学の文献によれば、∃ > ∀しかないということだそうです。まあ確かに語順はと逆の解釈、「全ての女の子には彼女たちのことが好きな男の子が別々にいる」というのはなかなか難しいように感じます。


というわけで、日本語は英語のような数量詞の曖昧性はなく、語順通りの作用域関係しか出せないというのが共通の理解として今のところあります(間違っているかも知れませんが)。


このような言語現象を考えるときにやってはいけないことがあります。それは以下のような例です。


(3) 全ての男の子が誰か女の子を愛している。


この場合語順は∀ > ∃ですので、女の子を全ての男の子に分配する解釈が出来ますね。つまり愛すべき女の子が各男の子に一人いるという解釈です。さて日本語話者の皆さんの中には「いや、待って!∃ > ∀も出来るよ!」って人がいるかも知れません。つまり愛すべき女の子はどの男の子にとっても同じ人物であるという解釈です。これを証拠に日本語でも語順とは違う数量詞の作用域の解釈でるんだって主張したい人がいるかも知れませんね。しかし、これは間違いです。なぜかというと∀ > ∃は∃ > ∀を含意しているからなんですね。つまり、全ての男の子が好きな女の子がたまたま同じである場合です。この場合、女の子は全ての男の子に分配されて解釈されますが、現実世界ではそれは同一人物なので、結局解釈上∃ > ∀となります。なので、数量詞の作用域を見る場合必ず語順は存在量化が全称量化に先行していないといけません。というのも∃ > ∀は∀ > ∃を含意しないからです。


というわけで言いたいことは分かりましたか?重要なのは「含意」という概念ですね。しかしそれを知らずに (3) を解釈すると間違った方向に向いてしまいます。文法的(統語論的な)語順だけではなく「含意」という意味論的な要因が大事であることに気づかされます。


まあこんなミスは普通の言語学者ならしないと思いますし、これはあまりにも基本的なのですが、しかしこれと同じ種類のミスを犯して書かれているペーパーが割と(日本語研究関係では)あるように感じます。まあ今となっては統語論も意味論もバランスよくやっててよかったも思うし、このバランスの良さがアメリカの大学院プログラムの素晴らしさでもあります。本場で勉強するって大事ですね。


ではでは。

2019.05.17

「ゴマをする」ことに関して

遅めの更新、すみません。嶋村です。ちょっと色々忙しくてこの時間になりました。


まあしかし書くこともないので、最近思ったことを1つ。


「ゴマをする」って表現ありますよね。人に気に入られるようにおべっかを使うということです。現在僕が担当している P3 は中間発表中ですが、まあお勉強が得意でなくそれほど努力もしない連中で、割と僕にゴマをする人はいます。そういう人はこちらとしても分かっているので、ドラえもんのジャイアン風に言うと「ギタギタのメロメロのボコボコにしてやる」ということで、質疑応答で僕に詰められることになります(笑)。


まあ、それで思ったんですが、僕って人生においてあんまりゴマをすることがなかった気がします。先輩や上司に気に入られようとかいう機会は一回もなかったような気がします。先輩の言うことは絶対である(と勝手に思っているんですが)体育会系のクラブに一回も所属したことはないし、完全な文系人間です(言語学の研究では数学的な概念も使いますが)。なのでたぶん僕はゴマをすりられ慣れていないのではないのかと思いました。割と正直に生きてきて、目上の人であろうが研究に関しては「バーカ」というニュアンスで「それは違うんじゃないすか?」って言ってきたので、自分も変に褒められることに慣れていないんですね。うちの親も僕をほとんど褒めなかったし(笑)、そういうわけで僕に変にゴマをすらないでください。。。


なんでこんな話をしたかと言うと、僕の研究している言語学でもなんというか「大御所が言っているから」とか「最近これが流行りの理論・研究だから」とかがあるんですよね。みなさん言語学者と思うといろんな言語に精通している人を思い浮かべると思います。実際はそうではないことも多くて、例えば日本語のデータだけで理論的に大きなことを言う人もいます。当然私たちの言語学は言語の普遍性を捉えたいわけですから日本語をもとに提出した理論は他の言語でも適用可能であるべきですが、とりあえず日本語ではうまくいくし、あの大御所も言っているしだからこれはいい分析だ!ってことを言う連中が結構いるような、いないような。。。


で何が言いたいかと言うと、研究者はどこまで自分の研究に誠実にいられるのでしょうかってことです。よく言語学の論文はその見せ方だと言われますが、自分の理論をサポートするデータばかり出して、あるいは大御所や先行研究が出している都合のいいデータばかり出して、その妥当性を多角的に検証せずに無責任に自分の分析が正しいと言うことがあります。これは言語学というか僕がやっている生成文法理論の癌みたいなもんで、こんなことをしていたらたぶんいつか生成文法がなくなってしまうのではないかと思います。僕はこんな状況を selective fact と言うようにしたいと思います。まあ確かに個々のデータは本当なんだけど、反例は脚注にちょっとあって I will leave this for my futre research みたいな(笑)。これはある意味先行研究や大御所の論文への「ゴマすり」ですね。研究とは批判的な精神から発展すると思うのですが、どうなんでしょうね。


ちなみに今週からオフィス鴨川がオープンしました(写真参照)。とりあえず今日はこの辺で。また来週。

2019.05.10

GW 終わりましたね。。。

みなさん、こんにちは、嶋村です。GW のお休み中はどうお過ごしだったでしょうか。


僕は友達に会ったり奈良の実家に帰ったりと特に何かしたというわけではありませんでしたが、まあのんびりと過ごさせてもらいました。奈良の実家に帰っているときに久しぶりに 20 km 走りました。今日の写真は奈良公園内にある浮見堂です。最近花粉症で外に出るのが億劫になっていて全然走れてないのですが、今月からまた頑張って距離を稼ぎたいと思います。ちなみに僕の京都でのランニングコースは鴨川や二条城や嵐山方面などいろいろあるのですが、奈良も走っていて楽しいところがあります。それに京都ほど観光客もおらず、ストレスなく走れる気がします。それでも最近奈良も観光客だらけですけどね。


さてみなさんもご存知のように、先日大津市で自動車事故があり小さいお子さんが2人お亡くなりになられ、今でも事故で大きな怪我をして辛い時期を過ごしている子供さんや保育園の先生がいらっしゃるそうです。僕にも保育園に通う娘がいるのでとってもつらいニュースでした。まあ、いろいろマスコミの連中は彼らが報道したいようにしているし、事故を起こした当事者は法の下に裁きを受けるわけですが、自分としては短い間しか生きられなかった2人のことを思うと本当につらいですね。。。


それでふと思ったのですが、日本とアメリカを比べた時、やはり歩行者優先の意識って日本では薄いような気がします。まあ今回の大津市の件はそういう話は関係がないどうしようもなかった事故なのかも知れませんが、例えば日本では信号機のついていない横断歩道や単に住宅街で人と車が鉢合わせになった時の歩行者優先の意識が低いように感じます。僕はアメリカに住んでいた時、どんなにイカつい車に乗った怖そうなおじさんでも歩行者がいようがいまいが信号なしの横断歩道で一旦停止するのを見てきました(もちろんたまに例外はいますが、一旦停止しないところを警察に見られると必ず停められます)。ちなみにアメリカではスクールバスが停車して子供たちが乗り降りする場合は、バスがいる車線も対向車線もスクールバスが再出発するまで全ての車は一旦停止しなければなりません(わざわざ、バスから Stop サインが出てきます)。アメリカは日本以上に車社会ですし、ハイウェイではめちゃくちゃ飛ばすヤツもいますが、歩行者優先に対する意識というのはかなり高いように思います。別にだからアメリカの方が素晴らしいとか言う気はないし日本にもいいところはたくさんありますが、こういうところは日本でも見習って欲しいなあと思います。


まあ自転車にしても自動車にしてももう少し俯瞰的に状況を把握する必要があるのではないかなと思います。たまに自転車で歩道を突っ走って人と人の間のギリギリのところを通っていくバカがいますが、そういうのが事故につながるかも知れないんですよね(そもそも自転車は例外はありますが原則として車道を走るべきなんですがね)。僕は車は運転しませんが、自転車には乗るので改めて気をつけようと思います。


ではまた来週。

2019.05.03

令和になりました

みなさん、こんにちは。今僕はこのブログの原稿を平成最後の日に書いております。そしてこれが掲載されるのは令和になってからです。こんな平成最後の日なんですが、雨だし、寒いし、そして授業です。。。世間はお休みですが。国の元号が新しくなるという日でも授業するなんて、立命館大学の教育に教育に対する強い意気込みを感じますね(笑)。


ゴールデンウィーク中僕は特に予定がなく、街をぶらぶらしたりしているだけなのですが、京都自体が観光地なのでまあなんやかんややっています。この前岡崎公園に行って来たのですが、フリマ+音楽フェス的なことをやっていました。奥さんと娘で行ったのですが、アマチュアバンドがたくさん出演し、フリマでは食べ物やお酒を含めいろいろあって楽しかったです。今週末は実家に帰る予定です。


さて、休みになると保育園がお休みになるので、娘が必然的に家にいることになります。うちの娘は4歳になるのですが、かなり難しい性格です。そして結構攻撃的です。。。最近は公園のブランコがお気に入りで、いつでも「お外に行きたい!」となり、公園に行ったら行ったで今度は先客がいたら力尽くで奪い取ろうとするのでこっちはそれを止めるのに必死です。。。めちゃくちゃ疲れます。まあそんなわけで娘がずっと家にいる休みは休みで結構悩みがあるんですね。まあ小さい子どもを持つ親はだいたい同じような悩みを抱えているでしょうけどね。


まあ元号が変わるくらいで10連休にもするなよって話なのかも知れませんが。。。


というわけで、これ以上書くこともないので、この辺で。というかネタがないので、もしこれを読んでいる人で書いて欲しいことがあれば教えてください。。。

2019.04.26

大学のキャンパスの話

みなさん、こんにちは。お元気ですか。今日はなんだか曇りの天気でこの後雨になるようですね。今日は学生さんとのアポイントメントが何件かあり大学におりますが雨が降る前に大学を出ようと思います。ところでブログのメンバーが新しくなりましたが、実は日曜日も英語の先生が担当なんですよね。。。「ほな僕要らんやん」って思ってるんですが、どうなんでしょうね?


さて僕は今学期から週1回で三重大学に教えに行っています。三重大学は僕がアメリカから帰国して初めて教えた日本の大学で、まああの当時はアメリカから帰ったすぐで今よりも若かったので(って言っても4年前ですが)、結構学生さんにキツめの対応をしていたので、当時の学生さんには悪いことをしたなあと思っております。。。立命に来てからは、まあ根本的な性格は変わってないのですが、多少丸くなったし、フレンドリーな学生さんも多く割と僕と話してくれるので自分もだいぶ変わったんじゃないかなって思っております。「え、ほんまかいな!?」っていう声も聞こえてきそうですが。。。


まあとにかくそんなわけで三重大に週一で通っているんですが、やはり国立と私学は雰囲気が違いますね。まあ国立でも色々あると思うんですが、三重大はその立地もあってなんというか全体的にゆったりとした感じです。もちろん学生さんは活気に溢れているのですが、なんというかキャンパスの雰囲気なんですが、広い土地に割と素朴(笑)な建物が点在している感じで、海沿いということもあり時間があればゆっくり散歩したくなる感じです。実際三重大にいた時は散歩してました。キャンパス内に緑も多く僕はあの雰囲気が割と好きです。僕は大学生時代は京都御所の横にある京都の割と中心にある私学に通っていたのですが(立命のライバルなんですかね?笑)、大学院(修士)は豊中にある阪大に行ったので、その時も雰囲気の違いに最初戸惑った記憶があります。私学 vs. 国立という簡単な図式で語ることはできないんでしょうが、大学のキャンパスにはそれぞれカラーがありますよね。まあ実際阪大に入った時は「なんだこのイケてないキャンパスは?」と悪態をついていたわけですが、アメリカの大学院に行ってさらに田舎のキャンパスになったし、まあ BKC もアレなんですが(笑)、通っていれば愛着も湧いてきます。阪大の豊中キャンパスでは、同じ研究をする仲間が結構できたし(あと奥さんとなる人にも会ったし)、結構いい思い出があります。アメリカの時は勉強だらけで辛かったですが、友達もできたし研究さえしておけばよかったのでいい思い出です(ちなみに今日の写真はコネチカット大学時代の言語学科が入っている建物です)。BKC も多分僕が立命を去る時には楽しい思い出に詰まった名残惜しい場所になるのではないかと思っております。で、個人的には大学時代の今出川キャンパスにはあんまり行きたくないんですよね(笑)。ま、人生ってわかりませんね。


というわけでまた。

2019.04.19

ミニプレゼンの様子

こんにちは、嶋村です。今週からブログ担当が新しくなりましたが、今年度も僕は引き続きブログを担当します。。。


授業も2週目ということで、今週の P の授業では学生さんにちょっとしたプレゼンをやってもらいました。今日の写真はその様子です。僕が前期に担当している P3 の授業では、ディベートとパネルディスカッションの二つの討論の仕方を学びます。論文を引用したり、データを提示したり客観的に自分の主張をサポートできるかが大事になってきます。学生の皆さんには頑張って欲しいと思います。


僕はと言えば、最近心身共に体調があまりよろしくなく、持病の病院もサボっていたりするのでそろそろ真剣に自分の健康というものに向き合わなければならないなあと感じております。スポーツ健康科学部にいるのに不健康な私です(笑)。最近ちょっとイライラしちゃって周りにきつく当たってしまったんじゃないかなと思って反省中です。あと、ジョギングの花粉症のせいでサボり気味。。。まあ季節の変わり目は色々不安定になりますが、皆さんも体調には気をつけてお過ごし下さい。


こんな話で終わるのもなんなのですが、これと言って特に書くことがないので、今週はこの辺で。。。来週から頑張ります。

2019.04.12

ブログを書くということについて

みなさん、こんにちは、嶋村です。4月になり暖かくなってきたかなと思えば、今週は寒の戻りなのか寒い日が続いています。新学期も始まり僕も今週から授業ですが、みなさんはどうお過ごしでしょうか。僕は先週末友達とお花見に行ってきました。場所は奈良の某所でお祭りが開催されていました。京都ほど人も多くなくいい感じの混み具合で良かったです。一緒に行った友達は高校からの付き合いで、まあそんなに頻繁に会うわけでもないし会わない時期もあったんですが、なんだかんだで 20 年以上の付き合いです。みんなそれなりに歳をとりました。


さて、先週までは英語教育について言いたい放題書いたので、今週からはもうちょっとライトな感じにしたいと思うのですが、適当なネタがありません。ところで、僕はこのブログをイヤイヤ書いている風の感じを醸し出しているのですが、そうは言いつつも実は一番長いブログを書いているんじゃないかという気がしてきました。。。まあ理由としては書くんだから内容に責任を持って書きたい(文責というやつですね)、それからきっちりとした内容で何かを伝えて納得してもらいたい、あるいは理解してもらいたいと思っていて、そうすると割と長くなるわけです。いや別に他の先生のブログがそうじゃないと言っているわけではないですよ(笑)。ただ僕は他の先生ほどこのブログを読んでくれるであろう人達と共有する素敵な(スポ健関係の)イベント事がないので、そうすると自分の考えを伝えたりすることが多くなるのですが、その時にいちいち事例を出してサポートしないといけないし、何かしらの文献を引いてきたりすることもあるので、そうやって文章を作っていくと長くなってしまうんですよね。。。まあ僕の博論も 200 ページ以上あるし、人文学系の性なのかも知れません(笑)。けど、自分の考えたことを文章にするのっていいですよね。書いてるうちに新しいひらめきがあることもあるし、頭の中の整理ができます。


というわけで、特に書く事がないので、この辺で今週は終わりにしたいと思いますが、まあ学校も始まったし、ネタは多分ちょこちょこ出てくると思うので、適宜印象に残った出来事をこれからも書いていきたいともいます。ではまた来週。