本日の朝日新聞に、大阪市立桜宮高校バスケ部の「顧問暴力・体罰」問題に関し、2つの小記事がありました。1つは運動部の指導の刷新を目指す市教育員会が、同市に本拠を置くプロバスケットチーム「大阪エヴェッサ」に協力を求めるというものです。同チームが部活現場に指導者を派遣し、ヘッドコーチの元NBAシカゴ・ブルズで活躍したB.カートライト氏も練習の節目に訪問。「練習の組み立てなど、部活動全般にわたって指導」と記事にあります。他の1つは、同高校バスケ部の保護者有志の方々(30名位)が、集会を開かれたという記事です。「勝てるチームにして欲しいという気持ちが、何よりも優先していたのではないか」、「技術の向上も必要だが、人間的な成長を第1に」、を柱とする声明が読み上げられたという知らせです。
それぞれの立場から今回の問題事件・事故の教訓を見出し、これからの改革の方向と内容とを可能な限り模索していこうという動きです。けれどもこの1週間のニュース・記事をみれば、同じことが繰り返されています。過去のことがらかもしれませんが、多くの都道府県教育委員会で体罰の有無について調査に乗り出し、数々の報告がなされています。それらを読めば、拙速、特効、確実かの議論を越えて、この「暴力・体罰問題」の本質の根深さが身に沁みてきます。
最近8日の朝日記事でもBKCの位置する滋賀県公立33校で、44人の教師らが体罰を加え、計168人の児童・生徒が被害を受けていることが明らかにされました。それによると、中学・高校の部活動中が最も多いのですが、授業や学校行事中も20件含まれている、とのことです。私立学校はこの調査対象外になっていますから、部活や行事のユニークさ厳しさ等が売りになっていればいるほど、この傾向が大であることが示唆されます。
同紙連載の「暴力とスポーツ下」(2月7日)においても「戦前からのウミ取り除け」と題して、1925年の「陸軍現役将校学校配属令」による軍の将校や下士官の旧制中学・師範学校への配属、彼らによる軍事教練(体操、武道とともに体育に当たるものを構成)を学校体育・スポーツのもつ暴力容認体質の形成・存続への大きな要因として取り上げています。それが効率的に選手を生産する方法となって、一度染みついた威圧と服従による指導法がなかなか消えない、と指摘しています。
度々指摘される「日本のスポーツの土台は学校が担ってきた」ということをもう一度、私たちは考え直してみる必要がある、と私は思います。戦後日本のスポーツ復興は1964年の東京オリンピックで、それが競技力向上に拍車をかけました。企業がスポーツ選手を抱え、大学がスポーツ選手を抱えると同時に育て、その双方に選手を送り込むために原石を鍛え、磨き、選別するのが、中等教育段階の指導者の果たす大きな役目でした。そしてそれらの指導者は戦後新制大学の教員あるいは専門的指導者の養成課程を経て、育成されてきました。スポーツがここまで国際化され、組織・技術、科学、人材に至るまで何が優れているかの世界標準がこれほど明白な世界はありません。少なくとも、結果としての成果をみる見方についてはそうです。
何故に日本のスポーツが、あるいはもう少し限定的に「体育教師」が、暴力を振っても容認されてきたのか。部を強くして学校を有名にするという実績・功績に対してそうだったのでしょうか。
ここではいちいち資料で跡づけられませんが、20年ほど前からの一時期中学、高校が荒れた時、同じように「行き過ぎた」教師の暴力・体罰の報道がしばしばみられました。この時の教師というのは、そのほとんどが体育教師あるいは部活指導の中心となる教師(稀に他教科の担当)でした。教科指導や学校行事をまっとうに行う前提としての「生活指導」が極めて弱体化、希薄化した時期には、中には無茶苦茶な生徒が現れ、勝手し放題のことも度々でした。その前面に立ち向かっていったのはそのような教師たちだったと思われます。他の先生からは子どものコントロールの仕方をよく心得ている、頼りがいのある同僚でした。その半面、スポーツ指導のなかで「許されていた」あるいは経験済みの方法を「荒れる生徒」に無反省に適用していった痕跡が、多くみられました。
中学・高校内での教員としてだけでなく、都道府県のスポーツ競技団体の役員の多くは部活指導者の体育教師達で占められています。夜間だけでなく午後から行われる競技組織団体の各会合に頻繁に顔を出すことが、一体どうして可能なのでしょうか。部活指導や生活指導、それに学校行事運営等を通じて、学校内での体育教員たちの様々な連携があり、他の教科担当の教員との共存共栄関係がある程度確立、存続、無変化のままにあることが、見過ごされているのではないでしょうか。
大学は指導者の養成だけでなく、彼らの教え子である学生あるいは学生アスリートを再び「指導者の卵」として預かるところでもあります。最初の方に述べた「戦前からのウミを取り除く」のは、ひょっとして大学に向かって言われていること、また内部の教学のどこかにそれらが潜んでいるということ、なのかも知れません。「学校」「競技界」「選手」のために、と当たり前に言われ、行われていること一つひとつにチェックをかけることが必要、と私はつくづく感じます。
【善】