11月9日。戦後最悪の「労働災害」と言われた福岡県大牟田市の三井三池炭鉱・三川鉱での炭塵爆発事故が起こってから50年を迎えた。死者458人、一酸化炭素中毒患者839人に上り、半世紀たった今も、重い後遺症に苦しむ人がいるという。炭塵は坑内に浮遊する石炭の粉で、積もれば爆発の危険があることを解っていながら、清掃や散水などの初歩的な対応さえ怠り、その保安は杜撰だったという。事故調査にあたった専門家も「たまり放題」だったと結論付けるほどの状態で事故は発生したという。
手元に熊谷博子『むかし原発 いま炭鉱―炭都[三池]から日本を掘る―』(中央公論新社、2012年)がある。福島原発を巡って次々に起こるニュースに見入るなかで、この著者の頭に思わず浮かんだ言葉が、「むかし炭鉱 いま原発」だという。
著者は語っている。「福島の原子力発電所は、長い間、首都圏にエネルギーを送り続け、人々の生活を支えてきた。同じように、かつて日本全国の炭鉱から掘り出された石炭は、明治以降、日本の発展を支えてきた。そんな日本を動かすエネルギーをつくり出してきたのは、いつも地方の名もない無数の労働者たちであった。」(p.1)
しかし、タイトルは「むかし原発 いま炭鉱」だ。私も、このタイトル???が気になって購入した。「炭鉱というのは、日本のエネルギー政策の原点である。それゆえに、この国のあらゆる部分と、表にも裏にも密接につながっている。三池炭鉱は日本一の炭鉱だったから、そこには、今に至る日本の来た道がつまっている。」(p.6)
改めて日本のエネルギー政策を年代的にみると、炭鉱の衰退と原発の発展は「同時進行」していたことがわかる。1954(昭和29)年、「石炭過剰で貯炭700万トン。九州の休炭坑141。3万人が失業」。1955(昭和30)年、石炭合理化で「石炭鉱業臨時措置法」(スクラップ・アンド・ビルド政策)公布/原子力基本法制定。翌年には、原子力委員会が設置された。1960(昭和35)年には三池炭鉱の争議が10ヶ月続くが、1961(昭和36)年には国内出炭5540万トンで戦後のピークとなる。1962(昭和37)年に政府は「スクラップ・アンド・ビルド」政策を「閉山方向」へ転換。そうした中で起こったのが三川鉱での事故だった。1967(昭和42)年には、一酸化炭素中毒患者の救済を訴え、「CO中毒患者家族の会」の妻たち75人が事故のあった三川鉱で144時間の「坑内座り込み」までしている。屈強な炭鉱マンで48時間が限度だという坑内での命がけの行動だ。
著者によれば、こうした炭鉱と原発のつながった複雑な関係をみようとした時に、敢えて逆の「タイトル」としたのだという。そこには、「もう原発はやめてくれ」という思いも強い。何よりも、原発に連なる歴史を根源から見直すことになっている。 mm生