2018.08.16
[ research ] の記事一覧
2018.08.11
アジアスポーツマネジメント学会 in Manila
8月2日から4日まで、アジアスポーツマネジメント学会(AASM)が開催されました。
今回のホスト国はフィリピンで、マニラのDELA SALLE UNIVERSITYが会場となり、
アジア諸国を中心に世界から27大学が参加しました。
AASMは日本からの参加者が多い学会の一つです。
今回は、極めて多く、日本スポーツマネジメント学会の原田宗彦会長がシンポジウムにご登壇された他、
院生含めると日本からは20人ほどの参加者になりました。
特筆すべきは、基調講演でご登壇された、
スポーツマネジメントの父と呼ばれるDr.Chelladuraiです。
なんと今年で91歳!
カナダからおひとりで移動されてきたことも驚きでしたが、
現在もなおSkypeのようなシステムを使い、授業やゼミを通じて、
博士課程の学生の指導もされ、
基調講演も最新のデータをパワーポイントに落とし込み発表されていました。
Dr.Chelladuraiは、私が博士課程で所属していた研究室、
早稲田大学の松岡教授の指導教員だったこともあり、
なんだか祖父に会ったような、それでいて神々しく、お会い出来て大変光栄でした。
私自身は、AASMに初参加でした。
そして、修士課程以来の「立命館大学」で口頭発表をしてきました。
APUの影響だとは思いますが、タイランドや台湾他、他国の研究者から
「Ritsumeikanは、私たちの国で有名です。スポーツマネジメントの学部もあるのですね」
という趣旨のお言葉をいくつかいただきました。
久しぶりに一人で関西空港からの移動になりましたが、
AASMの理事や継続的に参加されている国内の先生方、
そして所属していた研究室の院生に大変よくしていただきました。
発表の際も、冒頭少しスピードが速かったのか、
共同研究者に名を連ねる院生が「ゆっくり」というジェスチャーを遠くから送ってくれたおかげで、
落ち着いて発表することができました。
学会中、日本は“2020 Olympic and Paralympic Host”と紹介されました。
研究者たちの日本におけるスポーツマネジメントへの関心も高まっています。
そして、この度、順天堂大学の小笠原悦子教授が、
アジアスポーツマネジメント学会の会長に選出されました。
同時に2019年度のアジアスポーツマネジメントのホスト国は日本で、
8月7日から9日に順天堂大学(本郷・お茶の水キャンパス)にて開催されることがアナウンスされました。
AASMは、各大学の修士課程の学生の発表も非常に多く見られる国際学会です。
今回参加した修士課程1年生の院生たちは、
来年度、日本で開催されるAASMで発表をするという目標ができたようです。
是非スポーツ健康科学研究科の皆さんもご一緒に参加、そして発表しましょう。
ゆ
写真はDELA SALLE UNIVERSITY
撮影:ゆ
写真の無断転載はご遠慮ください。
AASMについてはこちらから http://asiansportmanagement.com/
#発表はスポ健ポロシャツで
#室内が寒すぎる
#マニラのほうが南草津より涼しい
#今年の発表はあと2つ
#終わってすぐに次のプレゼン準備
2018.08.10
京の七夕と言語学の話(たぶん最後。。。)
どうも、金曜日の嶋村です。先日、京の七夕というイベントに行ってきました。前回のブログでも少し話しましたが、堀川や岡崎や二条城といった京都のあちこちで開催されている(いた)ようです。「そもそもなんで八月に七夕やねん」というツッコミもありそうですが、旧暦の七夕ということで今年は 8 月 17 日が旧暦の七夕になるそうです。
僕が行ったのは鴨川の会場で、三条大橋から四条大橋までずっと川沿いにお店が並んでました。県人会が運営する露店が並んでいて各都道府県の名産がお酒と共に楽しめるようになっていて、酒好きの僕としてしては多少飲み過ぎてしまいました。。。
さて前回から引き続きまた言語学の話をしたいと思います。多分今週を最後にしようかな。。。どうかな。。。ネタがないからな。。。
前回は empiricism と rationalism の話をして、僕が研究している言語学は後者だよって話をしたと思います。ちょっと抽象的な話をします。文法とは何でしょうか。これまで話した通り、文法とは母語話者の文法性に関する直感を反映しているものです。すなわち、ある所与の文が文法的か非文法的かを直感的に判断できるものです。例えば、なぜかは分からなくてもある言語の母語話者にその言語の文 S が与えられれば、母語話者はそれが文法的かどうかを判断できます。これをモデル化すると文法は関数だということができます(f とします)。よって文 S が f へのインプットであり、その文法性を f がアウトプットとして出力するというものです。例えば、ある文 S が文法的な場合、その文のインデックスを返すような関数だとしましょう(文 S に自然数 n が付いている)。つまり文 S1 が文法的な場合、f は 1 をアウトプットとして返すという関数です。なので S1 という文は、f(S1)=1となれば文法的です。よって、f(S2)=2、f(S3)=3 … は文法的という感じです。この関係は自明なので、習慣的に獲得することが可能であると思います。しかし、例えば S156780は f(S156780)=10だったらどうでしょうか。これはかなり恣意的ですが、仮に世界はカオスだとするとこういうデータが出てくる可能性を排除できません。しかも自然言語は前回もお話したように無限の文の集合でありますから、子供が言語獲得する際にいつこのようなデータに出会うかわかりません。しかし、子供はだいたい5歳までに言語をある程度習得します。仮に言語の全てが経験から獲得されるなら、 f(S156780)=10 と言われた場合、子供は、それまで想定していた f(Sx)=x という文法を修正することを求められます。しかし、先ほども述べた通り、このようなデータにいつ出会うかはわかりません。では我々はいつ言語を習得するのでしょうか。
今日は少しややこしい話でしたが、なぜ僕のような言語学者が rationalism を採用するかを少しはわかってもらえたかと思います。次回はもう少しカジュアルな感じにできればと思います(笑)
ではでは。
2018.08.09
まだまだ暑いですね。
2018.08.05
オープンキャンパス(2日目)
2018.08.03
P の会議と言語学の話その三
どうも嶋村です。相変わらず暑い日が続きますが、みなさんどうお過ごしでしょうか。
今日は P を担当する先生が集まって会議がありました。前期に関するふりかえりなども含めて、おそらく学生の皆さんが気にしているだろう成績のことを中心に話し合いをしました。成績発表はまだですが楽しみ(?)に待っていてください。。。
さてさて、今回も言語学の話ということで、3回目の今日は、前回まで話していた「知っているけど知らない言語知識」ですが、なぜそのようなものを我々人間は持っているのかに関してちょっと深く考えていきたいと思います。前回も話したように人間は第1言語の文法知識をだいたい5歳くらいまでにある程度完成させることがわかっています。ところで「言語知識はどのように獲得するのか」という問いに対して大抵の人は「親や周りの大人から学ぶ」と答えるのではないでしょうか。
このような考え方は、哲学的に言えばいわゆる「経験主義(empricism)」に則しています。例えるなら、「オギャー」と赤ちゃんが生まれた時、その子の脳は新品のノートのように何も書かれていません(いわゆる「タブラ・ラーサ」)。しかし様々な経験を積むことで、そのノート(脳)にそれらの経験が記されていきます。ゆえに言語知識に関してこの考え方を採用すれば、例えばある子供が日本語を話す環境に生まれれば、その子の脳に日本語の経験が蓄積されていき、それがいつの日か日本語の文法として成立するという考え方です。
一方で人間の知識は生得的であるという考え方もあります。もちろん全てが生得的であるというわけではありませんが、我々知識の中核は生まれながらにして備わっているという考え方で、哲学的には「合理主義(rationalism)」と呼ばれます。
どちらが正しいのでしょうか。子供がどのように言語を獲得するか少し考えてみましょう。先ほども言いましたように子供の言語(文法)獲得は比較的早い段階で完了します。しかも実は親から教えてもらうわけではありません。「教わる」という行為は通常意識下で明示的に行われるものですが、これまで話してきたように我々の言語知識は暗黙的なものです。すなわち、「太郎は花子にケーキを食べさせた」は OK で「太郎は花子をケーキを食べさせた」はおかしいと判断できるけどなぜかはわからないというものです。中身がわからないもの(明示的でないもの)をどのように獲得できるのでしょうか。実際のところ、言語獲得において子供は親からの「~ではないから〜しなさい」という明示的な指示に従わないことがわかっています。つまりある所与の文構造の文法的間違いを自分で修正できるまで修正しないのです。
さらに問題なのは、我々の生み出す言葉(文)の数は無限であるということです。例えば、今僕が書いている文も、今僕が初めて生み出した文です。日本語の語彙の数は人によって差はあると思いますが、いずれにせよ有限です。その有限手段を使って生み出される文章はどれくらいあるのでしょうか。例えば、1日に 100 文作ったとしましょう。さて毎日 100 文作って、100 歳まで生きたとしましょう。ここでは 5 歳から毎日 100 文発話したとします。そうすると 100×365×96ですから3,405,000 文も作ることになります。これだけの数の文法的な文を生み出す装置が我々の脳にある言語知識(文法)なわけです。もちろんもっと数の多い場合も考えられるわけです。さらに我々は会話もしますから人が発話した文も解釈しないといけません。そうすると我々の脳が生み出したり解釈したりする文はすごく多いということになります。よって我々の文法知識はこのような膨大な量の文を処理できるものでなくてはなりませんが、そのような複雑な作業ができる装置を子供はなぜ親から教わることもなく、割と早い段階で獲得できるのかを考えないといけません。
さて、以上の議論に鑑みて、みなさんは「経験主義」的な立場を支持しますか、それとも「合理主義」的な立場を支持しますか。僕が専門としている「生成文法」は後者の立場をとっています。すなわち、言語知識の中核的な部分はすでに生まれた段階で持っているという見解です。もちろん僕が日本語を母語として話すのは日本に生まれたからであり、言語知識の全てが生得的というわけではありません。しかし、全ての言語に共通するような、いわば共通の言語の設計図のようなもの持って我々は生まれてくるのだという考え方を採用しています。次回はこの話をもう少し詳しくしていきたいと思います。っていつまで続くんだ~(笑)
では、良い週末を。ちなみに京都では「京の七夕」というイベントが開催されているので、よかったら週末は京都にお出かけしてみてはどうでしょうか。写真は二条城ですが(誰か知らない人が写ってしまっています。。。)、京都のあちこちでやっているそうです。
2018.08.02
8月ですね
2018.08.01
「大学生のスポーツビジネスアワード2017」─二本の大賞を受賞!!
「BASEBALL BUSINES AWARD 2017 ─大学生のベースボールビジネスアワード2017─」で
2本の優秀賞をいただきました。
受賞盾を私の研究室に持て来てくれました。
留学するので、「この盾を研究室に飾ってほしい。」との意向からです。
今年は大賞を」と決意を述べていました。
受賞を目指して、ゼミ内に四つのチームを編成し取り組みます。
このアワードへの応募提案は、今、読売巨人軍の現状を踏まえ、直面している課題の
解決を目指す、実施可能性を展望した提案です。
この提案作成を通じて、ゼミ生たちはプロスポーツビジネスの特徴やその現状を
現実のものとして学ぶことができます。
開催されます。
行います。
テーマは、「ビジネスとしてみるプロスポーツ」。
Apollo
2018.07.29
卒業生からの嬉しいメッセージ
2018.07.27
テスト監督と言語学の話その二
皆さん、こんにちは。金曜の嶋村です。本当はもう少し早くブログを更新できたらいいのですが、ネタがないやら忙しいやらギリギリにならないとできないやらでいつも遅めの更新になってしまいます。。。
さて大学は今テスト期間ですが、僕も昨日と今日でテスト監督のお手伝いをしてきました。立命では教員がテスト監督を分担して担当することになっております。今日は3回生の人が多い授業のテストだったので去年 P の担当をしていた学生さんがたくさんいました。テスト前にもかかわらず監督の先生方や学生さんに写真撮影で協力してもらいました。ありがとうございます。なんだかテスト前とは思えないくらい和やかな雰囲気ですね。テスト、みんな通ることを祈っております。
さて前回に引き続き言語学ネタで今週も書きたいと思います。前回では我々が持っている言語知識は潜在的であるということを言いました。つまり明示的に現れることがないような知識であり、それを我々は知っているんだけれど、なぜそうなっているかは説明できないものです。今日はもう少しその話をします。先週は疑問文の文法性の話をしましたが、例えば他にも以下の使役構文の格助詞(に・を)に関して同じことが言えます。
(1) 太郎は花子に走らせた。
(2) 太郎は花子を走らせた。
(1) と (2) の文では「太郎」が「させる人」であり「花子」が「させられる人」です。前者を Causer と呼び、後者を Causee と呼ぶことにしますね。さてこれらの2文から分かるように Causee は直接目的語を表示する「を」または間接目的語を表示する「に」を伴って現れることができます。ところが、使役化される動詞が (1)/(2) のように自動詞(「走る」など)ならいいのですが、目的語をとる他動詞(「ケーキを食べる」など)にすると「に」しか使うことが出来なくなります。* は非文法的な文を表します。
(3) 太郎は花子にケーキを食べさせた。
(4) *太郎は花子をケーキを食べさせた。
なぜこのようなことが起こるのでしょう。ちなみにこれと似たような現象がフランス語にもあります。フランス語で「に」に相当するものには、前置詞 à を使います(代名詞でない場合)。そして、「を」に相当するものは、代名詞でない限り顕在的に現れません。なので英語と同じですね(「彼を」は him ですが、「ジョンを」は John です)。フランス語の使役構文は英語の make に相当する faire を使って作られます。faire + 自動詞 partir 「出発する、去る」は、Causee を直接目的語として表示し、Causee は間接目的語として現れません。これは少し日本語と違いますね。日本語はどちらでもいいので。。。
(5) J’ai fait partir Jean.(私は Jean を出発させた。)
(6) *J’ai fait partir à Jean.(私は Jean に出発させた。)
似ているのは他動詞の場合です。すなわち、Causee を直接目的語として表示できないのです。
(7) *J’ai fait manger le gâteau Jean.(*私は Jean をケーキを食べさせた。)
(8) J’ai fait manger le gâteau à Jean.(私は Jean にケーキを食べさせた。)
まあ他にも色々日本語とフランス語の使役構文の違いがあるのですが、ここから言えることはどうやら他動詞をベースに使役構文を作ると Causee を「に」で表示できないということのようです。このような決まりが我々の言語知識には働いていますが、問題はなぜか?ということなんです。もちろん単純に『一つの文の中で「を」を2つ(以上)使ったらダメなんだよ』と言っちゃえば済む話ですが、これは、
(9) 太郎があの車を持っている人を知っている。
みたいな文があるので、早速この説明はダメになります(「文」という語の定義も大事になってきます)。もちろんいろんな説明方法が考えられ、できれば日本語とフランス語の使役構文にも通用するような説明を考えたいと思うのが我々言語学者です。そして、その説明理論は何かしら検証可能な予測や帰結をもたらしてくれるようなものでなければいけません。さらにこのような知識は子供が習得可能であるものでなければいけません。みなさんはこれまでお母さんやお父さんに『使役構文は他動詞の場合、させられる人や物に「を」をつけてはいけないんだ~!』って教わりましたか?たぶんそんな人は日本中探してもいないんじゃないでしょうか?けれど初見でこれまで見てきたような文の文法性判断ができますよね?やはり不思議ですね。一体私たちの言語知識はどうなっているのでしょうか?
前回から2回に渡って話したことですが、私たちの言語知識は知っているけどどうなっているかは説明できない暗黙的な知識です。そして言語学の研究からわかっていることなんですが、子供はだいたい3歳から5歳までには第1言語の文法に関する知識をある程度完成させます。これってすごいことですよね。
今日はダラダラ書いてしまった感じがしますが、来週はもう少し話を抽象的にして、我々の言語知識がどのようなものであると考えられるかを僕の専門の立場からお話ししたいと思います。
って、決してネタがないから伸ばしているわけではありません(笑)