みなさん、こんばんは、嶋村です。今日は前回に引き続き英語教育の話をしようと思いますが、その前にちょっと別の話を。。。
まず今日は卒業式と卒業パーティーだったそうですね。まあ僕はゼミも持ってないし、おめでたい場所に行っても余計な一言でおめでたい雰囲気に水を差す性格なので、自宅待機しております(笑)とりあえず卒業される学生さん、おめでとうございます。これからの人生色々大変だと思いますが、自分が納得いくようなものになるように過ごされることを願っております。僕も色々もがいている最中です。
さて、卒業される学生さんは新たなスタートを切りますが、昨日自身の人生のサイクルに一区切りをつけた人がいました。プロ野球選手のイチローさんですね。僕はスポ健ではおそらく No. 1 にスポーツ好きではないのですが、まあ父親の影響で野球は時々見ます。父親は東京出身なので、嶋村家は基本的に巨人ファンです。そんな私が興味がある数少ないスポーツの野球ですが、イチロー選手の活躍でおそらく僕が最初に知ったのは中学3年生くらいの時で、彼が初めて年間 200 本以上ヒットを打った時でした。その後メジャーリーグに行っても NHK の衛星放送でしばしば中継を見ていたのを思い出します。僕自身は 39 歳になり 40 歳も見えてきましたが、ものすごく長い時間一流の選手として活躍されてきたのだなあと思うと、その努力やストイックな姿勢に感銘を受けざるを得ません。引退に関して「後悔はない」という事らしいですが、自分が今の研究者のキャリアの一線から退く時に同じようなことが言えるようになりたいと昨日の引退会見を見ていて感じました。ま、僕の言語学の仕事なんて大したことないですが、一応気持ちの問題ね(笑)
閑話休題、英語教育の話ですね。今日は英語教育と「グローバル化」の話をしたいと思います。ところで英語教育の話でブログを書いてみようと思ったのは、実は奥さんが買ってきた雑誌でこの話題の特集が組まれていたからです。集英社がクォータリーで出している kotoba という雑誌があり、最新号の特集は「日本人と英語」という内容でした。様々な英語教育に関する専門家のインタビューや対談が掲載されています。たくさん面白い記事があったのですが、その中で九州大学の政治学者、施さんのインタビューはとても面白いものでした。彼によると現在日本で見られる政官財一体によるグローバル化の推進とは、「土着」から「普遍」への一方通行的な変化を推し進める流れであるそうです。日本において言語的に言えば「土着」とは日本語で「普遍」とは英語です。しかし、施さんはこのグローバル史観は非常に浅薄であると警鐘を鳴らしています。というのも歴史的に近代化とは全く逆の流れ、すなわち「普遍」から「土着」へ推移してきたというのです。例えば、中世西欧諸国のエリート層の言語はラテン語であり、一部の人々しか解することができませんでしたが、ラテン語により高度な知の体系が記述されていたそうです。しかしそのラテン語が土着の言語(ドイツ語、フランス語など)に翻訳される事で一般庶民の社会参加が可能になり近代化が進んだという事だそうです。先日杉田玄白の解体新書の翻訳の話が NHK で放送されていましたが、日本の近代化も過去の偉人たちが外国の書物を一生懸命に翻訳し、それが世の中に広まることによってもたらされたのだと思います。話を元に戻すと、施さんが訴えているのは、今我々が目撃している英語教育の改革への流れは一部のエリート(グローバル企業や投資家)による力が一般国民の民主的な民意を超えた結果であるということだそうです。英語を話せる人材は必要ですし、もしその人材が賃金の安い国から雇えれば企業としては助かりますよね。日本も海外からの労働者を受け入れようとしているそうですが、そのような政策への反動は世界中で見られているのはみなさん後存知の通りですね(Brexit とか)。
僕が以上のような議論を読んで感じたのは、やはり今の英語教育の改革とは政治・産業界からの詭弁的な説明による教育のことを全く無視したトップダウン的な改革ではないのかということですね。現場の人間から言わせてもらうと、今行われている英語改革はおそらくなんの結果ももたらさないでしょう(この辺の話はまた来週)。グローバルな人材とかコミュニーケーション能力とか見た目はファンシーな言葉がしばしば使われますが、結局国民がこれらの用語の明確な定義をわかっていないと思います。例えば「グローバル化」って何ですかと質問されても、正確に定義することなんて難しいのではないでしょうか。先日紹介した文科省のホームページには東京オリンピックのことが書かれてありました。あるいは、インバウンド需要でたくさんの海外からの観光客が日本を訪れるということを言及してもいいかもしれません。しかしこれら全て上辺の話で、本当の真意が別にある、すなわち施さんのいうようなところにあれば我々一般市民は騙されるいるということになります。あるいは英語教育改革によって教育産業を儲けさせることになるかもしれません(笑)
またコミュニーケーション能力といっても結局企業で必要とされている英語能力なのだとすれば、別に英語を話せなくてもいいのではないでしょうか。最近はさまざまアプリが開発されており、ややもすれば英語を話せなくても意思疎通が可能な時代になってきました。結局のところ「英語ができる」というのが、世間の人にとって「ペラペラ」ということを想起させてしまうことに問題があるのではないかと思います。僕から言わせれば「ペラペラ」なる必要はありません。どんな形であれ、たとえアプリ使った意思疎通であれ、コミュニーケーションは出来ます。どっかの企業のお偉いさんが、「うちは会議は全て英語だ」と言ったって、通訳を介せばいいじゃない、あるいはアプリを使えばいいじゃないと思ってしまいますね。じゃあ、なぜ学校教育でなぜ英語を勉強する必要があるのでしょうか。英語を勉強しなくてもいい時代になるのなら、僕の大学における存在価値は(今のことろ)無くなってしまうわけです(笑)
続きはまた来週。あ、ちなみに今日も何か新しい写真があるわけではありません(苦笑)。。。