[ Tue ] の記事一覧

2019.04.23

スポーツ健康科学部オリター団

こんにちは。かわいです。


スポーツ健康科学部では、新入生の大学生活へスムーズに移行していけるようサポートを行う学生たちがいます。オリター(オリエンテーション・コンダクターの略)と呼ばれる彼らは、「日々一回生のためになることは何か」を考え、春休みから準備とトレーニングを重ねてきました。大学に入学してすぐ、右も左も分からない中、先輩のオリターさんに助けられたことで、自分もオリターになりたいと脈々と受け継がれています。


基礎演習のクラスで新入生たちのサポートに取り組むオリターの学生さんたちは2回生で、彼らをさらに土台として支えるのが3回生の執行部です。執行部の3人(写真)もまた、どうすれば2回生のオリターたちが1回生をよりよくサポートできるかに真剣に取り組んできました。写真にも仲の良いチームワークが現れています。


 (kawai)20190416-02


1回生へのメッセージをもらってきました。


〜1回生へのメッセージ〜
出会いは成長の種。
大学生活での新しい出会いを自らの成長の種とし、みんなで成長できる4年間にしましょう!
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今年度のオリター団の目的は、「学部の先輩という立場から、学部 1 回生の大学生活がより有意義なものとなるよう支援を行い、社会の発展に貢献するという学部が掲げる人材育成目的に沿った学部 1 回生を輩出するきっかけづくりをすることを目的とする」と掲げられています。


教員として、彼らの取り組みにはいつも頼もしく思い、また、全力で取り組んで成長している姿に大いに刺激を受けています。うまくいかないことも経験するかもしれませんが、誠心誠意、全力で1回生のサポートに取り組んでいってほしいと思います。


かわい

2019.04.16

はじめまして

はじめまして。

新入生の皆さん、進学おめでとうございます。


火曜日担当となりました「かわい」です。

大学生の学びと成長をテーマに研究しています。

このブログでも、スポーツ健康科学部、立命館大学生の挑戦を紹介していきたいと思っています。


 (kawai)20190416-01

鴨川に散歩に行きました。綺麗な桜が咲いていました。



それでは、これから1年間、よろしくお願いします。


かわい

2019.04.09

フィールドに立ち続ける

半年以上前から関わらせていただいている活動があります。
障がいのある子どもたちの身体活動に特化した放課後支援活動の立ち上げのお手伝い。
さまざまな放課後支援活動がありますすが、身体活動に特化したプログラムは珍しい。
それは、子どもたちの特性が多岐にわたるため、用意する活動内容も一様には定められないことにあります。また、全員が安全に体を動かすためには、それぞれの特性に応じた空間づくりも必要になります。そのため、必然的に静的なプログラムに比べ、限られたスタッフで運営することが難しくなります。

これらの課題に対する、空間の工夫、運動の内容、モチベーションの維持などについて何度もミーティングを持ち、使用するアイテム、評価表、保護者もともに感じられる楽しさや上達の資格かなどを含み、プログラム内容を検討してきました。
先日は、プログラムに使用する新しい施設を見せていただきました。ボルタリングの壁、天井から吊るされたロープ、鏡張りの壁、取っ手付きバランスボールなどなど、さまざまな工夫が凝らされており、その場にいるだけで、子どもたちの笑顔が目に浮かびました。

このような活動に参画させていただき、私にも変化がありました。
ミーティングを繰り返すうちに、長く指導現場から離れていた私の中で、なにかがウズウズ、あるいは、モヤモヤする感覚が徐々に強くなり始めました。それが、「現場に立ちたい」という思いだと気づくのにそう時間はかかりませんでした。
そんな折、本学部の事務の方のお子さんとプールに行く機会を得ることができました。
1回目は、3月の上旬で、3人の子どもたちと楽しい時間を堪能しました。特に、泳法指導をしたわけではありませんが、遊びを通した関わりの中で得るものが多くあります。

どんな動きが楽しいんだろう?
それぞれの子の「うれしい」「楽しい」「いやだ」という表現はどういう形だろう?
次に何をしたいんだろう?
泳げるようになりたいのかな?遊びたいのかな?
どこを触られると嫌なんだろう?

次々と疑問がわき、それに対する私の感覚も鋭くなっていきます。
大学の授業とは異なる、私にとっての現場・フィールドの大切さを実感しました。
担当するスポーツ指導実習では、基本的な指導方法を教授することはできているつもりですが、このリアルタイムの生の感触、あるいは、実感は、現場に立ち続けなければ伝えることができないと改めて思いました。いつまで水の中での指導ができるのかはわかりませんが、できる限り実践を続けながら教壇に立ちたいと思います。

プログラムに関与させていただき、またそのタイミングでお子さんたちとの時間をくださったKさんに感謝です。今日もまた夕方からプールです。

2019.04.02

未来を創る

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。
高等学校までとは異なる大学生活のスタートに、わくわく・どきどきしているのではないでしょうか。
自身で科目を選択し、卒業までのプロセスを創っていくあり方自体が新しいことだと思います。
戸惑うことも多くあるでしょうが、仲間や教職員たちと充実した大学生活を送ってほしいと思います。
私の願いは、あらゆることに疑問を持ち、自分で思考し、選択する姿勢を身につけてほしいということです。

2回生のみなさんは、新しい仲間を迎えるにあたり、さまざまな企画に忙しいことと思います。
昨年の今ごろとはまったく異なる環境ではないでしょうか。
大学生活にも慣れ始めた今、新入生の姿からもう一度、気持ちを新たに新学年をスタートさせてください。

3回生のみなさんの多くは、大学生活の折り返し地点です。
ゼミの配属も決まり、いよいよ、さらに自分で考えなければいけないことが増えてきます。
進路のこと、卒業論文のこと、地に足をつけて、一歩一歩前に進んでほしいと思います。

4回生のみなさんの多くは、すでに多忙な日々を送っているのではないでしょうか。
就職活動、進学準備など、それぞれの道を見据えながらの大学生活最終年度となります。
悔いのない生活を送ってほしいと思います。

私たち教職員は、みなさんの未来創造のために、私たち自身の未来創造のために、ともに歩みたいと思っています。どうぞ、困ったときには、研究室に、事務室に、気軽に立ち寄ってください。

2019.03.26

人間ドックとモチベーション

毎年、2月上旬に人間ドックに行くことにしています。
これまでは、疾患の早期発見を目的として、その意味では目的を達成してきました。
今年も2月はじめに人間ドックを受診。
詳細な結果は2週間後に届きますが、簡易な計測での身体組成や肺活量など、その場でわかる項目がいくつかあります。この5年ほど、ほとんど変化のない身体組成は、今年もほぼ同じ数値でした。

しかし…
肺活量に変化が!去年までは、4300あたりをキープしていたのですが、今年は3970という値でした。自分で思っていた以上のショックを受けていることに気づきました。
同僚のS先生が、肺活量の測定値を上げる裏技を教えてくださったのですが、見かけの値ではなく…

その日までも、「健康水泳」と称し、週に3回程度は気持ちよく泳いでいました。
人間ドックを境に、何十年ぶりかにメニューを作成し(もちろん肺活量アップをねらった内容)、週に5回泳ぐことにしました。基本的には、住まいの近くのプールですが、閉館に間に合わないことも多くどうしようかと悩んでいました。そこで思いついたのが、常に水泳道具一式を車の中に入れておき、時間に合わせて、帰宅途中にあるいくつかのプールに立ち寄り泳ぐということでした。結果、3つのプールをかけ持ちして、あちこちで泳いでいます。

最低距離を1500に設定していますが、もっと泳ぎたい欲求と時間との葛藤に揺れ動きます。
500をすぎるあたりから、「水に乗る」という感覚となり、1200あたりでは、泳いでるというよりは水と一体になっている感覚に変わり、時間の許す限り泳ぎたくなります。ランナーズ・ハイならぬ、スイマーズ・ハイなのかもしれません。

人間ドックのひょんな結果からこんな感覚を味わうにいたり、きっかけの面白さを実感しています。また、この時間を確保したいという欲求が、効率的な動きを意識することにつながっており、思わぬ副産物からは、意識と行動の連鎖の面白さを感じます。

2019.03.19

国体・全スポ

「国体」を聞けば、ほとんどの人が「国民体育大会」とお分かりになるでしょう。
では、「全スポ」ということばはいかがでしょうか。
「全スポ」とは、「全国障害者スポーツ大会」の略称なんです。

毎年、国体の後に開催される。知的な障がい、身体的な障がい、精神的な障がいのある人たちが参加するスポーツの祭典です。この両大会が、2024年に滋賀県で開催されることはご存知でしょうか。滋賀での開催は、国体が第79回目、全スポが第24回目にあたります。その準備が、なんと開催9年前の2015年から始まっています。

これまで、国体と全スポは、どの開催権においても別々の組織として準備委員会が立ち上げられ、運営されてきました。滋賀県は、そのあり方を見直し、国体と全スポをひとつの組織とし、準備や運営にあたることにしました。もしかすると滋賀県での大会開催の前にもそういう開催県が出てくる可能性もありますが、この考え方・方向性は、ある意味時代に即した当然の形とも言えますが、これまでの歴史を考えると画期的ともいえます。

勝敗を決めるスポーツには、審判の存在が不可欠なのですが、障がいのある方が行うスポーツ(実のところ、障がいのある方「だけ」が行うスポーツなんてものはなく、おかしい言い方なんですが…)の審判の数が不足している現状です。たいていの開催県は、3年前から審判の養成を始めるのですが、滋賀は5年前の次年度・2019年度からその養成に関する支援・補助事業を開始します。①サウンドテーブルテニス、②フライングディスク、③車いすバスケットボール、④グランドソフトボール、⑤ボッチャ(2021年度から)の5競技は、この競技審判としての資格が必要になります。資格取得のための研修会などは頻繁に開催されてはおらず、県外で行われることも多く、また、資格取得後もその維持のために研修会等への出席が必要となるため、取得者が少ないのが現状です。このような事情も鑑み、滋賀県では早い時期での取り組みを決定しました。今後、各競技団体からの募集や県開催の研修会などのお知らせも始まると思います。

興味のある方は、ぜひこの機会に審判資格の取得を!

2019.03.12

それぞれの道2

以前、卒業生がそれぞれの新しい道を歩み始める姿をお伝えしました。
翌週にも書こうと思っていたのですが、別のテーマを取り上げ、延び延びに。
つい数日前、また新しい報告を受けたので、「それぞれの道2」にしました。

一昨年、進路に悩みに悩んだ末、プロ契約ではなく社員契約で就職したラガーマン。
一年間仕事をしながら、練習を続ける中、時間の不足を感じ始めるとともに、もっと
高い場所で競技を続けたいと思い始めたようです。
昨年の2月に退社し、その後ニュージーランドのチームで外国の選手たちにもまれる生活を
しばらく続け、その間、自分のプレイするビデオを送り、アピール。
結果、プロ契約のオファーがあった数社から自身の希望するチームとプロ契約しました。

時折、大学のチームで練習を続ける以外は、一人で身体能力を維持してきました。
大学に来るたびに研究室に足を運んでくれ、先週はいよいよ始まるプロ生活の門出をお祝いし、
食事をともにしました。私の知らないプロの世界の話しを聞くことができ、ワールドカップは
彼の解説で観戦するという特典まで約束してくれました。

もう一人、新しい道へ。
昨年の卒業生で、このブログでも何回か登場した、卒業論文を学会誌に投稿した彼です。
一年間勤めた会社をこの4月に退社予定。教員資格取得を目指すようです。
教員になることはあまり念頭になかったため、在学時には資格を取得していませんでした。

「卒業論文を執筆したことがすべてではありませんが、卒業論文の執筆が教員になる希望を
大きくしました」とメールをくれました。お姉さんを癌で亡くし、葛藤し続け、時には自暴自棄になった自分を見つめたい、家族のあり様を考えたいと書いた卒業論文でした。
論文の別刷りを送ったお礼の電話をお母さまからいただき、いろいろなお話しをしたのが昨日。
とてもご心配されながら、でも、我が子の決意を応援したいとおっしゃっておられました。

闘病中も学校に通い続けたお姉さんを見てきた彼。
高校生から親元を離れ、寮生活をし、競技を続けてきた彼。
お姉さんのように、重篤な疾患を抱えながら登校する子どもたちも受けられるような体育の授業ができる教員になりたい。そんな思いも含まれているように感じました。

就職を軸にすると、卒業は一つの終わりであり、仕事は一つの始まりです。
また、就職は一つの始まりと同時に次のステップへの一つの終わり、あるいは、通過点なのかも
しれないと、新たな道を選択する彼らを見ていて思います。
もちろん、転職や進路変更をしなくても、それぞれの仕事の中での区切りが、終わりであり始まりでもあるのだと思います。

一つひとつの仕事、プロジェクトなど、それぞれが、始まりであり、終わりであり、また始まりになるような、その一つひとつに後悔しないような、丁寧な仕事をしていきたいと思いました。

2019.03.05

削除することの難しさ

あっという間に3月になってしまい、なんとなくソワソワし始めるのは私だけでしょうか。
すっかり学生の足も遠のき、研究室も静かなものです。
ゼミの4回生の多くは、卒業旅行三昧のよう。一体、何回行くのと思うほど、走り回っています。

そんな中、今週は、久しぶりに4回生の2人が研究室に来ることになっています。
無事に合格した卒業論文を学会誌に投稿するために一緒に推敲することになっています。
2月はじめから、一生懸命、卒業論文を基に投稿原稿を執筆しているのですが、苦戦している様子です。
何に苦戦しているかというと、卒業論文とは異なる学会誌の字数制限の枠にうまく収まらないようです。
卒業論文では、頁枚数制限があり、字数を「増やす」ことに四苦八苦する学生が多くいます。
(この2人の学生は、この範囲ではなかったのですが)

一方、学会誌の論文では、字数を「減らす」ことに四苦八苦しています。
  どこを削ればいいんだろう?
  どこかをバサッと削る?全体を少しずつ削る?

あれこれ試行錯誤しながら、文章を「減らした」結果、
  えっ、削ったら字数が減りすぎた…
  全体的に、考察が薄っぺらくなってしまった…

はじめての経験に2人とも苦労しながら、何度もやり直しながらの1か月でした。
「難しいです」とのメールと共に「でも、がんばりたいです」と送られてきます。
ある一定の条件の中で文章を書くことの難しさを体験していることは、とても大事なことだと思います。
整理する思考と文章力が求められ、これはきっと仕事でも、生活の中でも役立つと思います。
受理されるかどうかは別として、3人でもうひと踏ん張りしようと思います。


2019.02.26

大阪のおばちゃんに学ぶ

大阪のおばちゃん(と書いている私もその一人)は、時々やっかいです。
ずけずけものを言う。なんだか、厚かましい(よく言えば親しげ)。

私が共に歩いている青年は、かっこいいほどボーイッシュ。
おかげでよく男性と間違われる。

駅でトイレを使おうとしたら、後ろから首根っこをひっつかまれて、
「ここは女性トイレやで!何してんの、あんた!」とお叱りを受ける。

女性専用車両に乗車していたら、
「ここは、女性専用やで!あんた乗ったらあかんやろ!」と怒られる。

消え入りそうな声で、「一応、女なんです…」と答える。
おばちゃんたちは、「ごめんな~、ごめんな~、ほんまごめん」と平謝り。
さらに、「そうやんな、よう見たらかわいい顔してるわ。肌もきめ細かいしなあ」と。
かばんの中をごそごそ探し、たいていは飴ちゃんをくれ、ひっきりなしに話しかけてくる。

何度もこういうことが続き、また間違われたらいやだな~と憂鬱な顔をしていた彼女。
これまでも、たくさんの嫌な目にあってきたので、余計に憂鬱になるのだろうと思います。
さまざまな特性が、時々、彼女にいたずらをして、パニックを引き起こさせます。

彼女の特性を罵倒する人も少なからずいます。
罵倒され、パニックを起こし、駅のホームで蹲る彼女を何百人の人が横目で見て通り過ぎる。
まるで、自分が透明人間になったようだった、罵倒した人より、通り過ぎる人が怖かったと、当時のことを振り返ります。そんな経験も幾度となくしてきたので、大阪のおばちゃんの行動に動揺するのも無理はないと思います。

でも、駅でのそんな経験があったからこそ、思考の転換を提案してみました。
多くの人が、いろいろなことを傍観し、見て見ぬふりをし、口を閉ざす。
そんな中、言い方は別にしても、女性トイレだぞ!専用車両だぞ!と、口を開く人がいる。
もしかしたら、罵倒されているシーンに出くわしたとき、罵倒している人に対して、
「あんた、何やってんねん!おかしいやろ!」と、口を開いてくれるかもしれない。
ちゃんと正義の味方はいると思う方が、気持ちいいね、どうだろうと伝えてみました。

「そうだね~、おもしろい考え方」と、気持ちはすっきりとしたようで、メソメソは終了。
その後も、間違われることがしばしば生じていますが、「よく間違われるんですが、女です」と伝えているようです。

また、銭湯では、受付の人が判断に困っている姿がありありとわかり、先手を打って、「わかりにくいと思うので、女性ですと先に言いますね」と、気遣っています。

大阪のおばちゃん、結構やっかいなこともあるのですが、大阪のおばちゃんから学ぶことも多いですよね。

2019.02.19

受容するとは…

大学3年生のときに発達障がい(アスペルガー症候群)と診断された青年と共に歩き始めて10年が経ちました。
さまざまな特性があり、一般就労が難しく、少しのアルバイトをしながら絵で生計を立てようとしています。
少しずつですが、絵の評価も得られるようになり、二人でお話させていただく機会もたまに出てきました。
そういう場で、よく訊かれることがあります。新聞などでの表現も同じことが使われます。

どのようにして、障がいを「乗り越えた」のか?
どのようにして、障がいを「受容した」のか?

これらの質問や記事の書かれ方に、いつも違和感を覚えます。

そもそも、私たち(私と青年)は、「障がい」だとは考えておらず、大多数の人のあり方で定義される日常生活の様式や常識では生きにくい「特性」があると考えています。一つひとつの「特性」とは向き合えても、「障がい」という得体のしれないものとは向き合いようがないと実感してきました。そのうえで、

「少しずつ絵が評価され始めること=障がいを乗り越えた」なのでしょうか。
裏返せば、「絵が評価されることはないが、描き続けている=障がいを乗り越えていない」なのでしょうか。

さらには、障がいは
乗り越えるものなのか、
乗り越えられるものなのか、
乗り越えなければならないものなのか、

という疑問がわいてきます。みなさんは、どうお考えになられますか?

次に「受容」についてですが、これも同じように違和感を覚えます。
障がいを「受容」するとはどういう状態を指すのでしょうか。こういう文脈で使われる「受容」ということば。障がいのある当事者、あるいは、その身近な人が、自ら「受容」ということばを使うことはほとんどありません。たいていは、第三者が「あの人は、障がいを受容できていない」「障がいを受容して次のステップへ」などという使い方をします。まるで、障がいを「受容」することが正しいこと、あるいは、受容することが人生に積極的であることの指標のように使われます。

私たちは、青年の特性を受容はしていません。
「特性」は、「あるもの」として、認め・受け止めてはいます。
「受け容れる(受容)」と「受けとめる」は、似て非なるものだと考えています。

一つひとつの「特性」を「受けとめる」。
一つひとつの「特性」とていねいに向き合う。
一つひとつの「特性」との上手なつきあい方を模索する。

このようなステップを踏みながら、特性に翻弄されない、特性に乗っ取られない、特性に壊されてしまわない。「受けとめる」からこそ、特性をよく観察し、特性とよく対話し、特性とけんかもしながら生活できていると思います。

みなさんは、自身の嫌いな部分、自信が持てないこと、コンプレックスなどを、「乗り越える」あるいは「受容する」のでしょうか。一度、考えてみてはいかがでしょうか。