[ Fri ] の記事一覧

2018.09.21

学生インタビュー(その1)

どうも、嶋村です。毎回スポ健に関係のないことをタラタラ書いている僕ですが、まあさすがに少し学部に寄せた記事を書いた方がいいかなと思ったので、今回は学生さんのインタビューしました(決して僕がサボりたいわけではない 笑)。インタビューを受けてくれたのは4回生の桜井基生くんです。それではどうぞ。

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1. 簡単な自己紹介(スポ健を選んだ理由など)
スポーツ健康科学部4回生、伊坂ゼミ所属の桜井です。私は付属校の立命館高校出身なのですが、1年生の秋ごろには既にスポ健に進学すると決めていました。それは自身が高校野球をしていて野球の技術指導を受ける中で、より科学的なアプローチで野球のプレーについて考えてみたいと感じたのが一番の理由でした。

2. 何を研究しているか、卒業後はどのような進路に進むか。
現在は当初から思い描いていた通り、野球の打撃パフォーマンスを向上させるための科学的なアプローチについて、「バットのスイング速度の向上」をテーマに指導教員である学部長の伊坂先生からご指導を受けながら卒業論文に取り掛かっているところです。私は2回生の夏から1年間カナダのバンクーバーに交換留学をしていたこともあり、卒業後はアメリカの大学院に進んで、そこで野球のパフォーマンス向上について研究を続ける予定です。

3. 研究の面白さは何か。
まだまだ研究について何も分かってはいないのですが、今まで自分が経験則や常識に従って”主観的に”考え、分析していたプレーの技術的な面について、計測データによって”客観的に”評価できるところに面白さを感じています。ただ、こういった面白さの感じ方は自分がプレー経験のあるスポーツを研究する場合にしか当てはまらない少し特殊な例だとは思いますが。笑

4. P の授業に関してどのように思うか。
英語Pはスポ健の授業の中でもトップクラスに大変な授業なのですが、とても大事な授業だと思います。ロジカルに考えて何らかの調査・研究をし、それを英語でプレゼンする。決して簡単な事ではないですが、私自身は英語が好きなこともあって楽しんで取り組むことができましたし、留学を真剣に考えるきっかけにもなった授業です。今は嶋村先生のPの授業にES(Educational Supporter)として参加し、受講生の補助をしていますが、改めてPの授業の難しさを横で見ながら実感しているところです。彼らが少しでも良い成績を取れるように全力でサポートしていきたいと思います。
 
5. 後輩、これから立命のスポ健を目指す人へのメッセージ。
スポ健は比較的規模の小さな学部なので、先生方や他回生の学生とも距離が近いことが良いところだと 
 思います。自分が望めばそうした人たちのサポートを受けながら、やりたいことを思う存分できる環境が
整っています。スポ健の後輩、そしてこれからスポ健を目指す人たちにはぜひ自分の可能性を狭めずに、
大きな夢に挑戦するチャレンジ精神を大切にしてほしいです。
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ということでした。桜井くんは非常に優秀な学生さんで自分の目標に向かって頑張っておられます。大学院は海外を考えていらっしゃるそうで、これから大変なこともたくさんあると思いますが健闘を祈っております。

ちなみに今日の写真は桜井くんの研究の1コマです。

ではでは、また来週。

2018.09.07

願い事を一つだけ

みなさん、こんにちは。いつも遅めの更新、嶋村です。今週は台風 21 号に北海道の地震と大阪北部の地震や西日本の豪雨災害に続いて本当に天災が多い年になりましたね。平成最後の夏はなかなかタフです。台風は関西直撃だったわけで、僕の住んでいる京都市も結構あちこちで被害が出ていたようです。京都の人は「京都は千年の都やさかい大丈夫どす~」なんて高を括っていることもあるかも知れませんが、嵐山の渡月橋の欄干が倒れたり平野神社の拝殿が全壊したりと、今回の台風は京都にも大きな損害をもたらしていました。早く元通りになって欲しいものですが。。。


さて僕はといえば、奥さんと子供を連れて鈴虫寺に行ってきました。正式名称は華厳寺というらしいですが、一年中スズムシを飼育しているために鈴虫寺と呼ばれているそうで、心願成就で有名らしいです。説法をしてくださったお坊さんによるとお地蔵さんを祀るお寺は全国的にも珍しいそうです。鈴虫寺のお地蔵さんは「幸福地蔵」と呼ばれており、願い事をなんでも一つだけ叶えてくれるらしいです(お坊さんによると三つ例外がありますが)。僕もお願いしたいことがあったのでしっかりお願いしておきました。ちなみにお願いするときは名前と住所をしっかりとお地蔵さんに伝えないといけません。というのもここのお地蔵さんは願いを叶えに願った人の家まで来てくれると言われているからです。なので草鞋を履いています。みなさんも京都に来られた時には、是非行ってみてください。


まあ今週はこんな感じですね。。。ではまた。


2018.08.31

コジコジはコジコジ。。。

みなさん、こんばんは。いつも遅めの更新、嶋村です。


最近とてもビックリしたというか、悲しかったニュースがあります。それは、漫画家のさくらももこさんが乳がんで亡くなられていたというニュースです。まだ 53 歳だったそうで若すぎると思います。


僕は昔から「ちびまる子ちゃん」などさくらさんの漫画がとても好きだったのでとても残念です。とっても。


さて、さくらももこさんという名前から連想されるのは多くの人にとって「ちびまる子ちゃん」だと思いますが、実は他にも色々作品があります。例えば、僕はちびまる子ちゃんの小学校時代の友達の永沢くんが中学生になった時のエピソードを集めた漫画を持っていました。非常に毒の利いた内容で大人でも「ウフフ」となってしまう内容でした。


初期の「ちびまる子ちゃん」の内容もシニカルな内容がしばしばあり、僕はとても好きでした。もちろんちびまる子ちゃんの優しさや彼女を取り巻く人々の人間らしさ・暖かさが非常にうまく描かれてもいました。最近はあまりアニメを見ていません。。。


さて、そんな僕が好きな作品は「コジコジ」です。コジコジの正体が何かはわかりませんが、メルヘンの国で学校に通っていて、学校ではさまざまなコジコジの仲間が立派な「メルヘンもの」になれるよう一生懸命勉強しています。しかし、コジコジはとてもマイペースで立派なメルヘンものになる為の勉強を全くしません。遊んで食べて寝ているそうです。。。しかしこれにはコジコジのポリシーみたいなものがあります。


僕が好きな「コジコジ」のエピソードは、アニメの1話でも描かれていますが、コジコジと学校の先生のやり取りです。youtube の公式チャンネルでも見れるようなので見てみてください。とにかく僕はコジコジがとても好きです。先生とのやりとり中で先生は最後にコジコジに「将来何になりたいのか」と質問します。それに対して「コジコジはコジコジだよ、コジコジは生まれた時からこれからもコジコジだよ」と言います。こういうスタンスって僕はいいと思います。ブレない自分。みなさんも悩んだときはコジコジを見てみてください。「わたし」は「わたし」、「あなた」は「あなた」、承認欲求に疲弊することも、嫉妬に心が支配されることもありません。


というわけで今日はちょっとコジコジを描いてみました。あんまりうまくないですね(笑)ではでは。


2018.08.24

若手の先生方と。。。(後音楽的な話)

みなさん、こんばんは。嶋村です。こんなに遅くなってしまいすみません。なんか博士をとった後結構いろんな人に祝ってもらって、毎日じゃないけどそれに近いくらい飲んでます。。。というわけで昨日は昨年までいた hitomi 先生と研究室 502 の先生方にお祝いしてもらいました。とても楽しく過ごさせていただきました。まあここでは書けないような(笑)色々な話ができてよかったです。僕の専門はスポ健とは関係ないですが、それにもかかわらずとてもよくしてもらっています。ありがたいことです。


というわけでこの1週間は誘われて飲みにいくか博論のリバイズをしてるかで特に新しいことがありません。。。なのでネタがないわけです。しかも夏休みですから、学校で何かあるわけでもないですし、どうしようという感じです。


夏休み前に一部の学生に「困ったら学生生活に関するインタビューするわ~」って言っていた学生にお世話になってもいいし、なんかマニアックな音楽雑誌風に僕が好きな音楽紹介をやってもいいし、僕が学生時代に読んだ小説のレビューをしてもいいし。。。(笑)


というわけで、何も思いつかないしこれといった準備もしてないので、おすすめの1曲を紹介して終わります。完全にやっつけ仕事で申し訳ないのですが。。。ただ僕の音楽の趣味はかなりクールな(だと言われている)のでこれから新しい音楽を開拓したい人には参考になるでしょう。


え~、今回紹介するのは Bonobo というイギリスの音楽です。元々は Simon Green という人のソロプロジェクトですが、最近はバンド形式でライブしています。今年 2 月に日本に来たので奥さんと見に行きました。とってもよかったです!ジャンルはダウンテンポと呼ばれる電子音楽ですが、ライブではバンドでも演奏できるようにアレンジされているのでオリジナルの録音とライブの演奏の違いを楽しむことができます。今回のおすすめは去年でた Migration というアルバムの中からタイトルトラックの Migration をおすすめします。いい感じのダウンテンポなリズムにピアノの旋律がマッチしていて後半のドラマチックな展開にここ数年の Bonobo のアルバムの中でもかなり完成度の高い曲ではないでしょうか。。。ライブのアレンジもとてもいいので興味のある方は各種動画サイトでご確認ください(笑)


う~ん、なんか Rock’in ○n 的なブログですが、もし誰かが気に入ってくれたら時々音楽の話をします。。。怒られたらやめます。。。

2018.08.17

近況報告

どうも嶋村です。皆様夏休みはいかがお過ごしでしょうか。先週までなんだか変な感じでブログでしたが、今週からまた読みやすい内容でいきたいと思います。まあとは言っても特に書く内容もこれといってありませんので、今日は私事を三つ。。。


その 1 :

相変わらず走っています。今月は暑い日が続いていてなかなかペースが上がらず一回で走れる距離も 10 キロから 14 キロくらいでなかなか思い通りのペースで走れていないのですが、今日はハーフを 1 キロ 5 : 01 のペースで走ることができて割といつもの感じが戻って来ました。理想的には 4 分台の後半で走れたらいいのですが、まだちょっとしんどいですね。ただ距離は割と稼いでいて先月は 207 キロでしたが、今月はひょっとすると 300 キロを少し超えれるかも知れません。頑張ります。



その 2 :

博士論文の口頭試験(oral defense) が終わり博士になりました。本当は 2016 年の夏に終わっていないとダメだったのですが、子育てや仕事や怠慢な性格やなんやかんやで遅くなり 2 年遅れて Ph.D. をゲットしました。まあちょっと論文を直して色々ペーパーワークするのですが、まあ終わったようなもんです。Dr. Shimamura ですw


その 3 :

Iphone X にしました。7 を気に入って使ってたんですが、先日コンビニでお会計するときに携帯を持ったまま財布を弄っていたら、携帯が手からスルリと落ちて、ガシャーン。。。というわけで急遽携帯屋さんに行って機種変更して来ました。。。なにやってんだか。まあ新しいのになったのでよしとします。。。


以上、私の近況を 3 つでした。

2018.08.10

京の七夕と言語学の話(たぶん最後。。。)

どうも、金曜日の嶋村です。先日、京の七夕というイベントに行ってきました。前回のブログでも少し話しましたが、堀川や岡崎や二条城といった京都のあちこちで開催されている(いた)ようです。「そもそもなんで八月に七夕やねん」というツッコミもありそうですが、旧暦の七夕ということで今年は 8 月 17 日が旧暦の七夕になるそうです。


僕が行ったのは鴨川の会場で、三条大橋から四条大橋までずっと川沿いにお店が並んでました。県人会が運営する露店が並んでいて各都道府県の名産がお酒と共に楽しめるようになっていて、酒好きの僕としてしては多少飲み過ぎてしまいました。。。




さて前回から引き続きまた言語学の話をしたいと思います。多分今週を最後にしようかな。。。どうかな。。。ネタがないからな。。。


前回は empiricism と rationalism の話をして、僕が研究している言語学は後者だよって話をしたと思います。ちょっと抽象的な話をします。文法とは何でしょうか。これまで話した通り、文法とは母語話者の文法性に関する直感を反映しているものです。すなわち、ある所与の文が文法的か非文法的かを直感的に判断できるものです。例えば、なぜかは分からなくてもある言語の母語話者にその言語の文 S が与えられれば、母語話者はそれが文法的かどうかを判断できます。これをモデル化すると文法は関数だということができます(f とします)。よって文 S が f へのインプットであり、その文法性を f がアウトプットとして出力するというものです。例えば、ある文 S が文法的な場合、その文のインデックスを返すような関数だとしましょう(文 S に自然数 n が付いている)。つまり文 S1 が文法的な場合、f は 1 をアウトプットとして返すという関数です。なので S1 という文は、f(S1)=1となれば文法的です。よって、f(S2)=2、f(S3)=3 … は文法的という感じです。この関係は自明なので、習慣的に獲得することが可能であると思います。しかし、例えば S156780は f(S156780)=10だったらどうでしょうか。これはかなり恣意的ですが、仮に世界はカオスだとするとこういうデータが出てくる可能性を排除できません。しかも自然言語は前回もお話したように無限の文の集合でありますから、子供が言語獲得する際にいつこのようなデータに出会うかわかりません。しかし、子供はだいたい5歳までに言語をある程度習得します。仮に言語の全てが経験から獲得されるなら、 f(S156780)=10 と言われた場合、子供は、それまで想定していた f(Sx)=x という文法を修正することを求められます。しかし、先ほども述べた通り、このようなデータにいつ出会うかはわかりません。では我々はいつ言語を習得するのでしょうか。


今日は少しややこしい話でしたが、なぜ僕のような言語学者が rationalism を採用するかを少しはわかってもらえたかと思います。次回はもう少しカジュアルな感じにできればと思います(笑)


ではでは。

2018.08.03

P の会議と言語学の話その三

どうも嶋村です。相変わらず暑い日が続きますが、みなさんどうお過ごしでしょうか。


今日は P を担当する先生が集まって会議がありました。前期に関するふりかえりなども含めて、おそらく学生の皆さんが気にしているだろう成績のことを中心に話し合いをしました。成績発表はまだですが楽しみ(?)に待っていてください。。。


さてさて、今回も言語学の話ということで、3回目の今日は、前回まで話していた「知っているけど知らない言語知識」ですが、なぜそのようなものを我々人間は持っているのかに関してちょっと深く考えていきたいと思います。前回も話したように人間は第1言語の文法知識をだいたい5歳くらいまでにある程度完成させることがわかっています。ところで「言語知識はどのように獲得するのか」という問いに対して大抵の人は「親や周りの大人から学ぶ」と答えるのではないでしょうか。


このような考え方は、哲学的に言えばいわゆる「経験主義(empricism)」に則しています。例えるなら、「オギャー」と赤ちゃんが生まれた時、その子の脳は新品のノートのように何も書かれていません(いわゆる「タブラ・ラーサ」)。しかし様々な経験を積むことで、そのノート(脳)にそれらの経験が記されていきます。ゆえに言語知識に関してこの考え方を採用すれば、例えばある子供が日本語を話す環境に生まれれば、その子の脳に日本語の経験が蓄積されていき、それがいつの日か日本語の文法として成立するという考え方です。


一方で人間の知識は生得的であるという考え方もあります。もちろん全てが生得的であるというわけではありませんが、我々知識の中核は生まれながらにして備わっているという考え方で、哲学的には「合理主義(rationalism)」と呼ばれます。


どちらが正しいのでしょうか。子供がどのように言語を獲得するか少し考えてみましょう。先ほども言いましたように子供の言語(文法)獲得は比較的早い段階で完了します。しかも実は親から教えてもらうわけではありません。「教わる」という行為は通常意識下で明示的に行われるものですが、これまで話してきたように我々の言語知識は暗黙的なものです。すなわち、「太郎は花子にケーキを食べさせた」は OK で「太郎は花子をケーキを食べさせた」はおかしいと判断できるけどなぜかはわからないというものです。中身がわからないもの(明示的でないもの)をどのように獲得できるのでしょうか。実際のところ、言語獲得において子供は親からの「~ではないから〜しなさい」という明示的な指示に従わないことがわかっています。つまりある所与の文構造の文法的間違いを自分で修正できるまで修正しないのです。


さらに問題なのは、我々の生み出す言葉(文)の数は無限であるということです。例えば、今僕が書いている文も、今僕が初めて生み出した文です。日本語の語彙の数は人によって差はあると思いますが、いずれにせよ有限です。その有限手段を使って生み出される文章はどれくらいあるのでしょうか。例えば、1日に 100 文作ったとしましょう。さて毎日 100 文作って、100 歳まで生きたとしましょう。ここでは 5 歳から毎日 100 文発話したとします。そうすると 100×365×96ですから3,405,000 文も作ることになります。これだけの数の文法的な文を生み出す装置が我々の脳にある言語知識(文法)なわけです。もちろんもっと数の多い場合も考えられるわけです。さらに我々は会話もしますから人が発話した文も解釈しないといけません。そうすると我々の脳が生み出したり解釈したりする文はすごく多いということになります。よって我々の文法知識はこのような膨大な量の文を処理できるものでなくてはなりませんが、そのような複雑な作業ができる装置を子供はなぜ親から教わることもなく、割と早い段階で獲得できるのかを考えないといけません。


さて、以上の議論に鑑みて、みなさんは「経験主義」的な立場を支持しますか、それとも「合理主義」的な立場を支持しますか。僕が専門としている「生成文法」は後者の立場をとっています。すなわち、言語知識の中核的な部分はすでに生まれた段階で持っているという見解です。もちろん僕が日本語を母語として話すのは日本に生まれたからであり、言語知識の全てが生得的というわけではありません。しかし、全ての言語に共通するような、いわば共通の言語の設計図のようなもの持って我々は生まれてくるのだという考え方を採用しています。次回はこの話をもう少し詳しくしていきたいと思います。っていつまで続くんだ~(笑)


では、良い週末を。ちなみに京都では「京の七夕」というイベントが開催されているので、よかったら週末は京都にお出かけしてみてはどうでしょうか。写真は二条城ですが(誰か知らない人が写ってしまっています。。。)、京都のあちこちでやっているそうです。

2018.07.27

テスト監督と言語学の話その二

皆さん、こんにちは。金曜の嶋村です。本当はもう少し早くブログを更新できたらいいのですが、ネタがないやら忙しいやらギリギリにならないとできないやらでいつも遅めの更新になってしまいます。。。


さて大学は今テスト期間ですが、僕も昨日と今日でテスト監督のお手伝いをしてきました。立命では教員がテスト監督を分担して担当することになっております。今日は3回生の人が多い授業のテストだったので去年 P の担当をしていた学生さんがたくさんいました。テスト前にもかかわらず監督の先生方や学生さんに写真撮影で協力してもらいました。ありがとうございます。なんだかテスト前とは思えないくらい和やかな雰囲気ですね。テスト、みんな通ることを祈っております。



さて前回に引き続き言語学ネタで今週も書きたいと思います。前回では我々が持っている言語知識は潜在的であるということを言いました。つまり明示的に現れることがないような知識であり、それを我々は知っているんだけれど、なぜそうなっているかは説明できないものです。今日はもう少しその話をします。先週は疑問文の文法性の話をしましたが、例えば他にも以下の使役構文の格助詞(に・を)に関して同じことが言えます。


(1) 太郎は花子に走らせた。

(2) 太郎は花子を走らせた。


(1) と (2) の文では「太郎」が「させる人」であり「花子」が「させられる人」です。前者を Causer と呼び、後者を Causee と呼ぶことにしますね。さてこれらの2文から分かるように Causee は直接目的語を表示する「を」または間接目的語を表示する「に」を伴って現れることができます。ところが、使役化される動詞が (1)/(2) のように自動詞(「走る」など)ならいいのですが、目的語をとる他動詞(「ケーキを食べる」など)にすると「に」しか使うことが出来なくなります。* は非文法的な文を表します。


(3) 太郎は花子にケーキを食べさせた。

(4) *太郎は花子をケーキを食べさせた。


なぜこのようなことが起こるのでしょう。ちなみにこれと似たような現象がフランス語にもあります。フランス語で「に」に相当するものには、前置詞 à を使います(代名詞でない場合)。そして、「を」に相当するものは、代名詞でない限り顕在的に現れません。なので英語と同じですね(「彼を」は him ですが、「ジョンを」は John です)。フランス語の使役構文は英語の make に相当する faire を使って作られます。faire + 自動詞 partir 「出発する、去る」は、Causee を直接目的語として表示し、Causee は間接目的語として現れません。これは少し日本語と違いますね。日本語はどちらでもいいので。。。


(5) J’ai fait partir Jean.(私は Jean を出発させた。)

(6) *J’ai fait partir à Jean.(私は Jean に出発させた。)


似ているのは他動詞の場合です。すなわち、Causee を直接目的語として表示できないのです。


(7) *J’ai fait manger le gâteau Jean.(*私は Jean をケーキを食べさせた。)

(8) J’ai fait manger le gâteau à Jean.(私は Jean にケーキを食べさせた。)


まあ他にも色々日本語とフランス語の使役構文の違いがあるのですが、ここから言えることはどうやら他動詞をベースに使役構文を作ると Causee を「に」で表示できないということのようです。このような決まりが我々の言語知識には働いていますが、問題はなぜか?ということなんです。もちろん単純に『一つの文の中で「を」を2つ(以上)使ったらダメなんだよ』と言っちゃえば済む話ですが、これは、


(9) 太郎があの車を持っている人を知っている。


みたいな文があるので、早速この説明はダメになります(「文」という語の定義も大事になってきます)。もちろんいろんな説明方法が考えられ、できれば日本語とフランス語の使役構文にも通用するような説明を考えたいと思うのが我々言語学者です。そして、その説明理論は何かしら検証可能な予測や帰結をもたらしてくれるようなものでなければいけません。さらにこのような知識は子供が習得可能であるものでなければいけません。みなさんはこれまでお母さんやお父さんに『使役構文は他動詞の場合、させられる人や物に「を」をつけてはいけないんだ~!』って教わりましたか?たぶんそんな人は日本中探してもいないんじゃないでしょうか?けれど初見でこれまで見てきたような文の文法性判断ができますよね?やはり不思議ですね。一体私たちの言語知識はどうなっているのでしょうか?


前回から2回に渡って話したことですが、私たちの言語知識は知っているけどどうなっているかは説明できない暗黙的な知識です。そして言語学の研究からわかっていることなんですが、子供はだいたい3歳から5歳までには第1言語の文法に関する知識をある程度完成させます。これってすごいことですよね。


今日はダラダラ書いてしまった感じがしますが、来週はもう少し話を抽象的にして、我々の言語知識がどのようなものであると考えられるかを僕の専門の立場からお話ししたいと思います。


って、決してネタがないから伸ばしているわけではありません(笑)


2018.07.20

祇園祭と言語学の話その一

みなさん、こんばんは、ちょっと遅くなりましたが嶋村です。暑い日が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?


先週末から祇園祭が始まり、今週の火曜に山鉾巡行が行われました。残念ながら授業があったために山鉾巡行には行けませんでしたが、宵(々)山だった日曜にちょっと行って来ました。露店がたくさん出ていてうちの娘も楽しんでいたようです。最近は後祭があるらしく、来週も山鉾巡行があるようです。露店は出ないようですが。


さて、奥さんから僕のブログが京都の紹介みたいになっているという指摘があったので今日は僕の研究の話をしてみたいと思います。まあいろいろ細かい話をすると大変ですので、少しずつ専門外の人にもわかるようにお話したいなあと思っています。なので数週間に渡って話そうかなぁ(笑)いや、決してネタがないからってわけではないですよ。多分。。。まあスポ健のブログなのに誰がこの話を読んで喜ぶんだって話ですが。。。


とりあえず1回目の今日は、僕が研究している言語学の基礎的な話を少しします。この前一年生の授業で話した内容と若干被りますが、そこはご勘弁。


今皆さんが読んでいらっしゃる文は僕が初めて生み出した文です。このように日本語を操って文を生み出す力は我々が持っている文法知識に依ります。皆さんはどのように日本語の文法を獲得されたか覚えていますか?僕は覚えていません。おそらく「親から教わった」とか「大人が話しているのを真似して覚えた」という意見が世間一般で受け入れられているいわゆる「常識」なんだと思います。そして、そこで文法として受け入れられている決まりごとは、例えば、『「食べれる」じゃない「食べられる」だ!』とか、『この段落の1行目の「読んでいらっしゃる」を「読んでいらっしゃられる」にするとおかしいぞ!』とか、まあ枚挙に遑がないですが、こういう「なぜか」はあまり気にしないけれど「規範的にダメだからダメなんだ!」というものが多いのではないかと思います。ちなみにもしこの話を誰かにして、最初の例は「いや、ら抜き言葉は間違いだぞ!」とか「二重敬語なんてけしからん!」という輩がいれば、そういった連中は自分の議論が循環していることに気がついていない奴らです(笑)つまり:


「食べれる」は、間違いである。なぜならそれは「ら抜き言葉」だからだ。なぜ「ら抜き言葉」は間違いか。なぜなら「ら抜き言葉(その一事例である「食べれる」も含めて)」は間違いだからだ(あるいは、世間一般で間違いとされているからだ)。


という具合です。ちなみに世間にはこういう(くだらない)決まりごとがたくさんあります。こういうのを「慣例」や「しきたり」と呼ぶらしいです。。。ちなみに言語学ではこういう文法規則を「規範文法」と言います。まあ、くだらないですが社会的な意義において規範文法が全く意味がないとは言いませんので悪しからず。


さて我々言語学者は言語に対して規範文法的な見方はしません。我々は実際に言語がどのように使われているかに注目して研究しています。そしてそのような知識は実は潜在的な知識です。例えば、「ら抜き言葉」に目くじらを立てる人もそうでない人も、「太郎くんが何を買いましたか?」と「太郎くんが買ったのは、何をですか?」は両方とも日本語として OK だと感じると思いますが、「太郎くんが何を買った人に会いましたか?」は日本語として OK だが、「太郎くんが買った人に会ったのは、何をですか?」はかなりおかしく聞こえるのではないでしょうか?このような事実は日本語を母語として話す人にとって画一的に当てはまる文法性の判断ではないかと思います。この意味において今見た文法性の判断は実際に我々が日本語をどのように使うかを記述したものです。僕が研究する言語学ではこのような記述的事実がなぜあるのかを理解しようしています。規範に目を向けず実際どう使うかに焦点を当てた文法を記述文法と言います。そして記述文法は我々にとって知っているけれど(つまり文法的かどうか判断できるが)なぜそうなっているのか説明できないものです。このような知識を我々は言語獲得の際に親から学んだのでしょうか?ちょっと考えてみてください。


というわけで、また次回。


2018.07.13

熱中症と鴨川の話

どうも、こんにちは、嶋村です。


突然ですが、熱中症になってしまいました。以前の投稿で毎月結構な距離を走っていると書いたと思います。今週の水曜も走りました。ハーフを走るつもりでスタートしたんですが、17 キロらへんで疲労感を異常に感じて、頭もフラフラしてきたので、途中で走るのをやめて歩いて家に帰りました。ところが家に帰って休んでも全然回復しないし頭も痛いし熱も高くなって、結局今日の朝まで寝込んでしまいました。。。まだちょっと微熱で頭がぼーっとしてますが、いつまでも寝ているわけにはいかないので大学に来ております。先週の雨とは打って変わって、今週は暑い日が続いてますが、みなさんも熱中症には気を付けてください。


ところで先週、連日の豪雨で鴨川が大変なことになっていると書きましたが、先日雨が上がってから三条大橋に行ってみるといつも僕が座っているところの岸が完全になくなっていました。。。




西日本のあちらこちらで甚大な被害が出ていて、亡くなられた方も多いようです。ご冥福をお祈りするとともに、被災地の早い復興を願っています。


では大学も夏休みまであと少しですが頑張りたいと思います。