京のまちを彩る祇園祭は、今日、32基の山鉾が長刀鉾を先頭に、祇園囃子と"エンヤラヤー"の掛け声にのって、四条通、河原町通、御池通といった京都のメインストリートを巡行して、クライマックスを迎えます。
その日の夕方には、八坂神社の祭神を乗せた3基のみこしが、四条寺町の御旅所に向かう神幸祭があり、24日には、それらのみこしが御旅所から神社に戻る還幸祭が行われます。
以前、祇園祭の巡行は、私が生まれた1966年までは、豪華絢爛な鉾が多数巡行する「前祭(7月17日)」と、山のみの巡行で小規模な「後祭(7月24日)」との2回に分けて行われていたようです。
みなさんがご存じのように、時機を逸して、後悔の念を表す「後の祭り」という諺は、この祇園祭の「後祭」に由来するといわれています。そのほかにも、7月1日から1カ月間行われる祇園祭は、山鉾巡行が大一番ともいわれ、巡行以後、華やかさや見所がないことから、「後の祭り」という諺が使われるようになったという説もあるようです。
そもそも祇園祭は、平安時代前期の869年にまでさかのぼります。
京で疫病が流行し、その時、広大な庭園だった神泉苑に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立てて、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて、災厄が取り除かれるように祈ったことが起源とされています。
970年から祇園祭は毎年、行われるようになり、1467年から10年間続いた応仁の乱で、祭りは、一旦途絶えてしまいましたが、1500年に町衆の手によって再興されました。
左側の写真は、鶏鉾を飾るタペストリーです。
山鉾を彩るために欠かせないタペストリーは、当時、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたようです。これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾を飾る重要文化財が公道を巡行するため、山鉾は、"動く美術館"とも呼ばれています。
江戸時代にも火災に見舞われ、第二次世界大戦などを乗り越えて、祇園祭の伝統は、町衆の力によって現代まで守られています。
祇園祭は、京のまちの中心部で行われ、我々の目には、祇園祭の華やかさだけしか映りませんが、文化を保存し、伝統を守り抜くということは容易なことではありません。
日本を代表する文化人類学者の米山俊直先生が、祇園祭、またその祭りを彩る山鉾の美しさを支えるまちの文化と社会の在り方を、「祇園祭:都市人類学ことはじめ」(中公新書,1974年)という本にまとめていらっしゃいます。
この書の中には、伝統と文化の輝きを朽ち果てさせないために、様々な苦労をしている住民の様子がつぶさに描かれています。
35年以上の時を経てはいますが、この書を手掛かりに、画像を交えながら、"祭りのあるまち"の姿を少しご紹介したいと思います。
が...
今日は、日本スポーツ産業学会があり、実行委員の私は、ちょっと時間的に余裕がなく...
面白いテーマなので、必ずすぐにアップします。
こんばんは、大阪の町に投資してきます~