久しぶりに自宅スタートの早朝ウォーキングを行いました。いつものコースをとり、200m位で「トロッコ亀岡駅」、その先100m弱で保津川の「山本の浜」に出ました。遠くに近くに、すでに多くの人たちが歩き、ジョギングする姿が目に入ります。
この辺り、早朝に人びとが頻繁に行き交うだけでなく、休日や連休のときなども、嵯峨嵐山から足を伸ばす多くの観光客で賑わっています。そんないつものコースのスタート直後の地点の話題を、今日は少し紹介します。
トロッコ亀岡駅というのは、トロッコ嵯峨駅をスタートして亀岡まで7.3㎞を約25分で走る「嵯峨野観光鉄道」の最終駅のことです。現在のJR嵯峨野線の「嵯峨嵐山駅~馬堀駅」間で、線路が新しい直線的なルートにつけかえられたのに伴って廃線となった、旧山陰線の保津峡渓谷沿いの線路を利用して、1990年にJR西日本の子会社としてこの会社は設立されました。いまや、地元になくてはならない観光会社になっています。「DE10」というディーゼル機関車が、年間約90万人を四季折々の渓谷美に誘っているそうです。
後者の山本の浜というのは、保津川が保津峡の急流に差し掛かる手前、鵜ノ川と西川が合流する狭間にできる比較的広い淀みと河原の呼び名です。この浜の先端から下流に向かって立つと、流底や側面の岩に当ってできる白波の音と流れが遠くへ消えるように直線的に見えます。そこへ、「ギーッ、ギーッ」といくつもの木の棒が擦れるような音が後ろから響いてきます。やがて横眼に入って、段々音とともに速い流れに落ちていきます。いつもの保津川下りの光景です。
保津川は、京都市左京区の鞍馬よりも北方、広河原を源流とする大堰川(おおいがわ)の亀岡周辺での呼び名です。下手の嵯峨嵐山付近では桂川、上手の京都市右京区京北町の付近では上桂川です。淀川水系の中では、主要な河川の一つです。
この河川は、かつては上桂川に集められた京都北部の木材を筏流しとして運ぶと同時に、それを利用した重要な物流のルートでした。最終的に木材は、嵯峨や梅津の材木問屋へ行く前に、嵐山やその下流の貯木場に集め係留されたそうです。その後淀川に出て、大阪まで行くこともあったようです。
上桂から嵐山まで途中の難関は急流の保津峡で、筏の組み直しや急流下りの技を磨いて仕事する特別な集団を必要としたわけです。
物流や人の移動は、鉄道路線と道路(トラック)とが早い時期に主役になっていましたから、私が生まれた頃にはもはや筏はなかったでしょう。筏を船に変え、渓谷の自然と急流下りのスリル体験とを提供する、観光開発に重点が移っていたことは間違いないでしょう。今では日本国中だけでなく、外国での日本観光案内の中でも多く取り上げられています。
写真上はトロッコ駅の様子、下は、題名が少々艶っぽいですが、保津川下りに関する書物です。特に後者については、1984年、当時亀岡在住のシナリオ作家が、保津川下りが現在のように有名になるまでの紆余曲折について「語り部」たちを直接取材し、まとめられたものです。筏流しの小僧の時代から保津川下りの今日の基礎を築くまでを見て、関わってきた数名の人たちがトツトツと地元言葉で語られる内容がおもしろい。筏流しの時代から人びとの暮らしと自然との関わりを継承・発展させることが観光資源のもととなっていることや、特に自分の知らない郷土の話があったこと等、出版された当時に感動したのを覚えています。
このような感覚的な想起をして歩き始め、一万歩を少しオーバーしてフィニッシュしました。歩きやジョギングのコースをいくつも持ち、それぞれのチェックポイントに関する様々な逸話、歴史的由来等々、他の人たちも多く感じ、考えて廻っているのだろうな、と思いつつ汗を拭きました。
【善】