朝日新聞8月30日付け、社説余滴欄は、担当者稲垣氏の署名入りで、「五輪は政治の下僕じゃない」という短記事を掲載しました。すでに周知のように、ロンドン五輪サッカー男子3位決定戦、日本と韓国のライバル対決に際して、その日の韓国大統領の竹島(韓国名・独島)への上陸、試合後に勝利した韓国選手の一人が「同島の領有に関する政治的主張」が書かれた紙を掲げランしたことから、政治的対立の延長のようなとげとげしい印象だけが残ったようです。
けれども、現地で取材していて、それとは違う空気を感じていたことを、記者は本記事に書いています。「試合後、選手たちは歩み寄って健闘をたたえあい、最近までJリーグにいた韓国選手はかつてのチームメートとユニフォームを交換していた。双方のサポーターも拍手を送った。」そして、韓国サポーターの弁、「五輪の4強に韓国と日本が進んだこと自体、すばらしい」を紹介しています。
韓国サッカー協会が五輪精神に照らして「二度とこういうことがないようにする」との文書を日本協会あてに送ったのが、韓国内で「謝罪文だ」と批判され、協会会長が国会で釈明することとなった経緯を、「残念というほかはない。」と結んでいます。
実際、「サッカーの本場」ヨーロッパのファンが認める、質の高いサッカーや個人のプレイ技術を、今大会中、両チームの選手は存分に発揮していました。五輪憲章もさることながら、サッカーファンが求める、本気での「サッカー対決」の結末とは、現地で感じるものが大切にされなければならないと、わたくしもつくづく感じます。
五輪競技大会や世界選手権で、自国の国旗を頭上に掲げ、満面に笑みを、全身に達成感を露わにして優勝者や準優勝者がウィニング・ランを行う姿は、今や当たり前の光景になっています。また、メダリストが表彰式後に家族、恩師、関係者などに駆け寄り、握手や抱擁とともに、獲得したメダルをその人達の首に掛けてあげる姿も、しばしば見かけました。これらは、日本人選手だけでなく世界各国共通の光景となっており、したがって「スポーツの現在」の典型的姿の1つだとも言えます。
「絶対に負けられない」、「必ずや勝ちたい」、「様々に世話になった人達を思って戦いたい」、「国内の大会や代表選で落ちた他の選手の思いを背負って戦いたい」、これらは大会中にインタビューや記事を通して聞いた、選手たちの試合前、試合後の言葉です。
ここには、スポーツの最高峰の試合に向けてのそれまでの準備の途方もない量と質、それとともに競争の激烈さが背後にあると想像されます。そしてそのことが、競技場やフィールド、コートで筋書きのない多くのドラマを生み出していることは明らかです。
そのような思いで多くの人が注目すればするほど、今まさに「フィールドやコートの中で、競技や運動目的で対立・対戦」しているプレイヤー、チームメンバーの人たちとは異なったレベルで、「スポーツのもつチカラ」に熱い視線を送っている人たちがいます。
直接的なファンやサポーターでなく、「間接的なファン」とも言える「政治とビジネス」がそれに当たると考えられます。もはや、「間接的」あるいは「サポート・バット・ノーコントロール」という素朴な時代ではなくなっています。
我が国の東北大震災後に、多くのスポーツ選手が悩んだことを語っていました。「こんなに大変な時期、ボールを投げたり蹴ったりすることを自分たちがやっていて、いいのだろうか?」と自問したことです。また、「頑張った良い試合を観てもらえること」「実際に現地でスポーツを通して直接ふれあうこと」がこれほど多くの人たちに受け入れられかつ励ましになっている様子について、新たな発見と自分たちの行っているスポーツの重要さを再認識したことでした。
フィールドやコート周辺でサポーターとの交流を通して選手やコーチが感じていることをはるかに超えて、グローバルな時代においては、「政治」と「ビジネス」への利用価値の厳しい見定めがスポーツに対しても行われています。それをスポーツの内部関係者(特にプレイヤー)が「熟慮」「配慮」を欠いて一足飛びに「3つか4つの水準」を飛び越えて「自己アッピール」してしまうと、今回のような事件は容易に出現してしまうと、わたくしは仮定します。
国を代表するから「負けられない、あるいは恥ずかしい試合は出来ない」と思い、勝利すれば「国旗をもって代表した国をアッピールし、様々な水準のサポートへの感謝を表す」、これらはスポーツ界として確立され、現在では、誰もが認めあう行為です。
以前に書いたブログ内容とも関連しますが、スポーツの世界で「純粋で継承・発展させるもの」があるならば、政治やビジネスから「下僕」にされない方策が必要と思われます。多くの五輪代表選手が、自分の行っている競技が「もっと多くの人に注目され、スポンサーや公的な資金が多く獲得されれば」、普及と高度化(スポーツの発展の大きな2つの柱)につながることを訴えています。見方を逆にすれば、スポーツマンの教育という観点からは、スポーツの価値を伝えることができかつ安易に利用されない「知恵と工夫」に支えられた人材が、長期的視野から排出されることが大切になっている、と冒頭記事は述べようとしたのかも知れません。
【善】