金曜日の学校保健論の授業。何時になく出席者が少なかった。同じ時間帯に「就職ガイダンス」があったようだ。何人かの学生からは、授業の教室に向かう途中で「就職ガイダンスに出席するため、授業休みます。」との「欠席通知」も貰っていた。
それにしても、出席している学生が随分と少ない。つい「授業担当者からすれば、授業軽視に他ならない」というような事も含め、苦言を呈してしまった。出席している学生からすれば随分と耳障りなことだったろう。
青年期の最中にある学生であれば、「先人たちの残してきた科学的ある
いは社会的な知識・技術を身につけること」や「友人・家族・その他の
人々との人間関係や対人関係を円滑に進めていくための社会的スキルを体
得していくこと」などの「発達課題」の達成にエネルギーを注ぐことにな
る。そして、労働から解放されてもっぱら学校教育を受け、知識・技術・
能力を獲得していくことができる時期ということになっている。肯定的な
意味合いで「モラトリアム」を享受することが語られる所以だ。その筋の
話からすれば、学校保健論についても、「幅広い教養」と「深い専門性」
を学習する良い機会ではある。但し、「それで、何の役に立つのか?」と問
われれば、答えに窮してしまう。
例えば、「学校保健を担う人々」ということで、学校医・保健主事・養
護教諭・栄養教諭・スクールカウンセラーを挙げ、それぞれの学校保健で
の役割を知ったところで何になるのか。思わず、「受験生ブルース」の
「・・・サイン、コサイン何になる。おいらにゃおいらの夢がある・・」
の歌詞が思い出されたりした。受講する学生の大半が「教職」を取ってい
る訳でもない状況では、なおさらだ。
少なくとも、それで人生が変わるほどのものではない。それに比べれば、「就職」は人生における「死活問題」でもあって、厳しいものがある。実際、4回生の専門演習を担当していて、まだ就職の決定していない学生は、気の毒なくらい焦燥感をもち、かなり深刻さを漂わせていたりする。そうした状況を見るにつけ、学生たちは早い段階から就職準備に取り掛かることになる。「悠長な」学校保健の「教養」や「専門性」は取るに足らない存在であるのかも知れない。しかし、自ら卑下してしまっては元も子もない。何時もに比べて出席状況が芳しくない分、出席している学生に対しては懇切丁寧に語り掛けるチャンスが生まれる。
学生には苦言を呈してしまったが、寧ろ、どれだけ内容豊かな教材を準備出来たのか、そして深い理解がなされるような授業であったのかどうかの反省こそが必要なのかも知れない。そして、何があっても、積極的に学生が遣って来るような授業の準備こそが必要なのだろう。 mm生