木曜日の「現代人とヘルスケア」の授業。テーマは、高齢者の健康問題の特徴を考えること。ここでのポイントは、高齢者を「発達主体」として見れるのかどうか?ということ。
発達可能性・可塑性も十分な子どもに比べ、年を経るとともに夢や期待が「萎んで」しまい、その最たる時期が高齢期ということになれば、高齢者を「発達主体」として見ることなど、なかなか難しいことだ。
例えば、ケン・ディヒトベルト/田名部・田辺訳『Age Wave』(創知社、1992)は、「6つの老化神話」は、老齢者に対して否定的なものであり、これらの決まり文句を根絶して、老化恐怖症から自由になることの大切さを語ってくれている。また、ダグラス・H・パウエル/久保・楢崎訳『<老い>をめぐる9つの誤解』(青土社、2001)もなかなか面白く、こうした「老い」を巡る「神話」や「誤解」そして「偏見」は、どうしても身近なところで目にする高齢者の姿に「引き摺られ」やすい。日本全国で総人口の23%を越える高齢者全体の姿を把握した上でのことではない。
1963(昭和38)年当時の調査では153人だった百寿者が今年5万人を超えた。この百寿者の方で元気に自立した生活を送っている状況がメディアでも取り上げられたりする。しかし、百寿者が皆そうであるわけではない。そうした方々は寧ろ稀であって、「エリートセンテナリアン」などと言われる。
高齢者は殊更、加齢とともに生物学的機能は衰え、毎日の生活の中での食事や排便・排尿、歩行などの日常生活動作の維持も難しくなるし、社会生活を行っていくための買い物、外出、金銭管理などの手段的日常生活動作も衰えて行く。こうした状態の中でこそ、静的な状態を指す「生きている」から動的な状態である「生きていく」こと(祖父江逸郎『長寿を科学する』岩波新書、2009年)が求められることになる。まさしく、QOLの中身が問われる問題だが、身体的レベルとしての「生命の質」を土台にして「生活の質」、「人生の質」が問われることになる。「発達主体」としての高齢者の健康づくりは、こうした発想の下でなされるべきだろう。
「高齢化率」が1970年に7%を超えた我が国が、1994年には14%を超えるという、世界一早いスピードで「高齢社会(長寿社会)」に直面しているという問題も大きい。・・・・。
そんな授業をした日の夜。老人介護センターでの夜勤オペレーターで不在の妻
を除いて皆で夕食を摂っていた時の話。小学校5年生になる双子の孫の1人・輝流の漢字テストが話題に上った。98点で、間違ったのは「租母」だけだったと言うが、その弁明が面白かった。「だって、家には祖父(おじいさん)はいるけど、祖母(おばあさん)はいないから正しく書けなかった。」のだそうだ。確かに、我が家で孫たちは「じじ、じじ」と私を呼ぶが、妻は「ばば、ばば」とは呼ばせず、名前の頭文字から「はーちゃん」で通している。皆、変に納得してしまった?! こんなことも「高齢者問題」か?! mm生