本日の早朝、雪で地上がうっすらと斑なだけでなく、水たまりが完全に凍っていました。久しぶりに自宅近くをウォーキング。目に入った田園風景は、実り盛んな時期に比べると様相が全く異なっていました。既に荒々しく掘り起こされている土に加え、畑の多くには、引き抜かれ切り落とされた野菜とその枝葉、すなわちカブラ、人参、大根、白菜、等々の残骸が、白、クリーム、茶色のマーブル状の異様な姿に映りました。
本来なら籠に収穫され、箱詰めの後にそれらは出荷されるはずでした。成長の不揃い、土中の石などによる曲がり、支柱や柵、日当たりなどによる傷と変色、などが原因です。規格に合わなくて商品としての価値がない、「難もの、キズもの」としばしば呼ばれます。私たち素人からすれば、それらは立派な作物です。サラダ、煮物、鍋などの最適材料(新鮮さ、味、栄養、大きさ等)だと感じます。でもプロのお百姓さんに言わせれば、それらの事情は全く違うのだそうです。
それぞれの野菜としては同じでも、その基本に加えて「規格適合性とみばえ」が価値(ブランド)を創り出し、価格を維持します。そしてそれらの規格外品は価値を下げ、値崩れを起こす害悪とみられます。従って、良い種子を見極め入手し、床土を準備、施肥、種蒔きと発芽誘発、苗育てとその後の生育の世話、それに収穫までの過程で、いかに満足のいく(規格品としてブランドを維持する)収穫率を上げるのかが、プロの課題・プロたる所以だそうです。言われてみれば当然のことですが、そのおかげで丸々と太った野菜をタダで頂くこともしばしばですが・・・。
プロのお百姓さんや年輩の素人百姓の人達とたまに談笑しますが、異口同音に次のように言います。「同じように耕し施肥した畝に、同じような種を、同じように蒔いて、水のやり方も世話の仕方も同じようにしたつもり」でも、毎年、「生育の良い時もあれば悪い時も、また同じ畝でさえも良く伸びるのとそうでないのが現れる」のだそうです。
何でも自分の専門の勉強や実践に結びつけて物を言うのも恐縮ですが、野菜(植物全般でも)を育てることは、スポーツの選手を育てたり、職人さんを育てたりする、相対的に長期の「支える活動」(指導やコーチング)に似ています。
どのような種子・苗も世話をしなければ確実にマイナスの影響が必ず現れます。けれども、たとえ世話を懸命に(最大限の情熱をもって)行っても、同じ効果が全ての種子・苗に現れないし、同じ畝・土の範囲でも異なります。育ちが悪い・遅いからといって性急に肥料をやり過ぎれば、根元から肥料負けを起こして枯れていきます。だから、必要だとわかっていても肥料の与え方に「気長さ」と「毎回手続き更新」のような工夫が要求されます。少し大きくなれば株分けして、それぞれが縦と横に伸びられるように根元から独立させてやります。さらに、同じ畝や鉢にずっと植えておくのでなく、古い土や床から新しいところに場所を変えてやり、吸収すべき周囲環境の養分に対する適応力を引き出していくことが行われます。
人間の運動の学習を指導したり支援したりする営みは、動物を育てたり芸を仕込む・仕付けるのと同じように考えられてきた気がします。運動学習の研究の一部は確かに動物を被験体とする運動学習の研究から導かれているし、動物調教のいくつかの方法にすでに具体化されています。しかし、指導や調教の中間過程や結果として生じた「規格外、ブランド価値を高めない」人、コト、ものに対しては、お百姓さんの野菜作りの「結果処理」と同じようになってしまっているような気がします。しかし一方では、育てる側(お百姓さんやコーチ・指導者・調教師など)の仕事内容、個人としての喜びや楽しみ、やり甲斐等が共通に語られることも、重要な点です。
農業の方が「等結果」をもたらすべく「毎年、工夫する」ことが当たり前だが、なかなかそうはならないことが常識になっている、と思われます。相手にするのが植物だからというだけではない、と私は感じます。場所や施肥、水分、日照など環境要因を緩やかに変え、評価スパンを長めに見ている、と思われます。「人間の運動の学習を指導したり支援したりする営み」を対象に研究するという立場で現在欠けている観点は、このことがらではないかと私は思います。
【善】