当然、今に始まった事ではなくて、
2013.02.12
教員の2月
当然、今に始まった事ではなくて、
[ 2025年05月 ] の記事一覧
2013.02.12
2013.02.11
先週は、修士論文の口頭試問の期間でした。修士2年間の総まとめとして書き上げた「修士論文」が、主査と副査の先生方によって内容と修士の学位に相応しい学力をつけたかどうか試験されます。
スポーツ健康科学は、学際分野であるので、領域の異なる先生も審査に加わります。同じ領域の学識豊かな先生からの鋭くかつ厳しい質問に対して、また他の分野の先生からの思わぬ切り口の質問に対しても、これまでの研究の成果から的確かつ論理的に説明することが求められます。
口頭試問を受ける院生にとっては相当なプレッシャーですが、この関門をくぐらなければなりません。今回担当したところでは、各自精一杯のプレゼント、筋の通った質疑応答をみることができ、2年間の成長を頼もしくみることができました。終わってからの「解放された顔」は何とも言えないものがありました。ただし、公聴会、投稿論文作成などを含め、残された期間で、さらにチャレンジを続けて、自らを高めてくれるでしょう。
<<今週のちょっと、もっと、ほっとな話>>
ある財団の助成に関わっていますが、今回、スポーツ健康科学部に関係するPDの2名(Oga鰆、East田)の採択が決まりました。研究には費用がかかりますが、その費用を獲得するためには、研究としての魅力と実行力、そして貢献が問われます。二人の研究成果に大いに期待しています。
【忠】
2013.02.10
本日の朝日新聞に、大阪市立桜宮高校バスケ部の「顧問暴力・体罰」問題に関し、2つの小記事がありました。1つは運動部の指導の刷新を目指す市教育員会が、同市に本拠を置くプロバスケットチーム「大阪エヴェッサ」に協力を求めるというものです。同チームが部活現場に指導者を派遣し、ヘッドコーチの元NBAシカゴ・ブルズで活躍したB.カートライト氏も練習の節目に訪問。「練習の組み立てなど、部活動全般にわたって指導」と記事にあります。他の1つは、同高校バスケ部の保護者有志の方々(30名位)が、集会を開かれたという記事です。「勝てるチームにして欲しいという気持ちが、何よりも優先していたのではないか」、「技術の向上も必要だが、人間的な成長を第1に」、を柱とする声明が読み上げられたという知らせです。
それぞれの立場から今回の問題事件・事故の教訓を見出し、これからの改革の方向と内容とを可能な限り模索していこうという動きです。けれどもこの1週間のニュース・記事をみれば、同じことが繰り返されています。過去のことがらかもしれませんが、多くの都道府県教育委員会で体罰の有無について調査に乗り出し、数々の報告がなされています。それらを読めば、拙速、特効、確実かの議論を越えて、この「暴力・体罰問題」の本質の根深さが身に沁みてきます。
最近8日の朝日記事でもBKCの位置する滋賀県公立33校で、44人の教師らが体罰を加え、計168人の児童・生徒が被害を受けていることが明らかにされました。それによると、中学・高校の部活動中が最も多いのですが、授業や学校行事中も20件含まれている、とのことです。私立学校はこの調査対象外になっていますから、部活や行事のユニークさ厳しさ等が売りになっていればいるほど、この傾向が大であることが示唆されます。
同紙連載の「暴力とスポーツ下」(2月7日)においても「戦前からのウミ取り除け」と題して、1925年の「陸軍現役将校学校配属令」による軍の将校や下士官の旧制中学・師範学校への配属、彼らによる軍事教練(体操、武道とともに体育に当たるものを構成)を学校体育・スポーツのもつ暴力容認体質の形成・存続への大きな要因として取り上げています。それが効率的に選手を生産する方法となって、一度染みついた威圧と服従による指導法がなかなか消えない、と指摘しています。
度々指摘される「日本のスポーツの土台は学校が担ってきた」ということをもう一度、私たちは考え直してみる必要がある、と私は思います。戦後日本のスポーツ復興は1964年の東京オリンピックで、それが競技力向上に拍車をかけました。企業がスポーツ選手を抱え、大学がスポーツ選手を抱えると同時に育て、その双方に選手を送り込むために原石を鍛え、磨き、選別するのが、中等教育段階の指導者の果たす大きな役目でした。そしてそれらの指導者は戦後新制大学の教員あるいは専門的指導者の養成課程を経て、育成されてきました。スポーツがここまで国際化され、組織・技術、科学、人材に至るまで何が優れているかの世界標準がこれほど明白な世界はありません。少なくとも、結果としての成果をみる見方についてはそうです。
何故に日本のスポーツが、あるいはもう少し限定的に「体育教師」が、暴力を振っても容認されてきたのか。部を強くして学校を有名にするという実績・功績に対してそうだったのでしょうか。
ここではいちいち資料で跡づけられませんが、20年ほど前からの一時期中学、高校が荒れた時、同じように「行き過ぎた」教師の暴力・体罰の報道がしばしばみられました。この時の教師というのは、そのほとんどが体育教師あるいは部活指導の中心となる教師(稀に他教科の担当)でした。教科指導や学校行事をまっとうに行う前提としての「生活指導」が極めて弱体化、希薄化した時期には、中には無茶苦茶な生徒が現れ、勝手し放題のことも度々でした。その前面に立ち向かっていったのはそのような教師たちだったと思われます。他の先生からは子どものコントロールの仕方をよく心得ている、頼りがいのある同僚でした。その半面、スポーツ指導のなかで「許されていた」あるいは経験済みの方法を「荒れる生徒」に無反省に適用していった痕跡が、多くみられました。
中学・高校内での教員としてだけでなく、都道府県のスポーツ競技団体の役員の多くは部活指導者の体育教師達で占められています。夜間だけでなく午後から行われる競技組織団体の各会合に頻繁に顔を出すことが、一体どうして可能なのでしょうか。部活指導や生活指導、それに学校行事運営等を通じて、学校内での体育教員たちの様々な連携があり、他の教科担当の教員との共存共栄関係がある程度確立、存続、無変化のままにあることが、見過ごされているのではないでしょうか。
大学は指導者の養成だけでなく、彼らの教え子である学生あるいは学生アスリートを再び「指導者の卵」として預かるところでもあります。最初の方に述べた「戦前からのウミを取り除く」のは、ひょっとして大学に向かって言われていること、また内部の教学のどこかにそれらが潜んでいるということ、なのかも知れません。「学校」「競技界」「選手」のために、と当たり前に言われ、行われていること一つひとつにチェックをかけることが必要、と私はつくづく感じます。
【善】
2013.02.09
2013.02.08
春を思わせる暖かな陽気に気が緩んだのか(or 修論を出し終えたのを確認し緊張が解けたせいか)、体調不良(といっても喉ですが)に陥っているのに、連日のように体罰問題がマスコミに取り上げられ、体育学部出身者として、教員として忸怩たる思いをしております。日本体育学会も声明を出しましたが、何十年も前から(新聞のデータベースで確認)言われていることは同じです。いったいこの間、指導者養成機関(大学)は何をしてきたのか。教育原理では何を学んだのか。教科教育法は教師としての責任有る行動についてしっかりと自覚をもたせる指導をしてきたのだろうか。諸科学の進歩に比較して人間科学?の難しさをつくづく感じます。
もっとも、極論かも知れませんが、教育が万能ならば法学も警察も裁判所も不要となるはず。体罰はいけないと建前論だけでは何も解決しない。教師は評論家であってはいけない。生徒、部員と手を取り合って一緒に泣ける関係が大切であると思っています。クラブの私物化、閉鎖性、学校における治外法権的な体育教員室、コーチとしての学外評価の追求、成果主義の犠牲者、管理職のタニマチ感覚、OB会の懐古趣味、スポーツを人間形成としてではなく売名手段と考える風潮等々多くの誘因があげられますが、指導者のストレスも理解してあげる必要があります。その為にもオープンな人間関係が築かれていなければなりません。(老ブロガー・ハル)
2013.02.07
2013.02.06
2013.02.05
2013.02.04
びわこくさつキャンパスの正門をくぐると、視界が一気に開けます。目の前にすり鉢をくりぬいた形のクインススタジアム(400mの陸上トラック)が眼に飛び込んできます。
このクインススタジアムが現在改修中です。走路部分をすべてはがして、路盤の水平を取り直し、その上に砕石、アスファルト舗装、さらにはゴムチップを引いて、そしてその上に3,4層の塗装(舗装)を手作業でしていきます。写真は、ゴムチップの上に一層目の舗装を職人さんが行っているところです。現場の方にお聞きすると、この職人さんたちは、グラウンドの舗装をする専門家で、全国のグラウンドの舗装を手がけておられるとのこと。写真の方々は、北海道から来ておられました。この舗装作業の大敵は「雨」で、雨が降り始めたら作業中止、もちろん雨の日は作業できません。ですので、職人さんたちの休みは、日曜日ごとではなく、「雨の日」が休みです。したがってグラウンド改修の日は、お天気しだいです。雨を呼んでしまう私はできるだけ近づかなければグラウンド完成が早くなる!?と思いつつ、職人さんたちにもお休みを、と思うとたまには見に行かなくては!?と悩む日々です。
<<今週のちょっと、もっと、ほっとな話>>
昨日、筋電図の新しい手法で研究されている渡邉先生(中京大学)に来てもらいセミナーを行ってもらいました。若手研究者のエネルギッシュな活躍を示してもらい、当方の院生も刺激をもらいました。近いうちに、院生も逆の立場になってくれることを願いつつ、セミナーに参加していました。
【忠】
2013.02.03
大阪桜ノ宮高校バスケ部顧問の「暴力・体罰」問題が報道された時、様々な思いから本ブログの2回前に「ヒューマニズムに思う」と題した記事を寄せました。それから2週間余り、中学・高校の他競技の部活においても「暴力・体罰」が多く起こっていることが、被害を受けたり目撃したりした人達から証言されています。ごく最近では、我が国柔道の女子トップレベル(ナショナルチーム)の指導を引き受ける「監督」までもが、選手達に暴力を振っていたことが彼女等自身によって告発されています。
その指導者の記者会見では、行為の事実と非正統性を率直に認めた潔さが強調されました。一方、「早く、強くさせ、勝たせたい気持ちが入り込み過ぎた」結果の勇み足だったとの強調と、「私の他には体罰を見かけたこともない」と妄言する「罪を一身に引き被る」姿勢の強調とが、私には感じられました。中高校生の部活とオリンピックでメダルを狙うレベルの選手とが、同じような「指導問題」に悩まされているのか、今さらながらに、私は愕然としています。
日本のスポーツの普及、すなわち競技人口の増加、競技会の開催、その競技水準の向上、およびその組織的活動の中心たる選手と指導者、連盟・協会の役員等々の継承・発展が、戦前・戦後を通して、学校体育・スポーツを中心に展開されてきたのは、周知の事実です。そして平成も四半世紀を数える時期に、このような「反ヒューマニズム」の教育・文化・社会活動がまだ横行し、「見て見ぬ振り」状況が放置されているかについては、報道の通りだと思えます。
これに対して、きっちり物を言っているスポーツ関係者も多くいます。国内トップ、国際的レベルの選手・指導者の意見表明も新聞・ネット等のニュースでいくつもなされています。ある識者がTV解説で「そもそもスポーツに対する見方、考え方が日本では異なっているのではないか!?」という基本的疑問を投げかけていました。
教養科目の1つ「スポーツと現代社会」の参考文献には、2つの国際憲章が教材として取り上げられています。1つは1975年、ヨーロッパ評議会(CE)の体育・スポーツ担当大臣会議が開催され、「ヨーロッパみんなのスポーツ憲章」が採択されました。個々人にとってのスポーツのもつ価値、並びにスポーツを国策の大きな柱の一つとして推進することの重要性について、国を越えた文書化が行われたものです。2つはユネスコ第20回総会(1978年11月21日)「体育・スポーツ国際憲章」の採択です。その第1条では「体育・スポーツの実践は全ての人にとって基本的権利であること」、また第2条では「体育・スポーツは全教育体系において生涯教育の不可欠の要素を構成する」と宣言しています。
上の2つの憲章はフランスの「人権宣言」(1789年)に端を発する欧州の「近代法の考え方と人権思想」の延長線上にあると思われます。他の文化活動と同じくスポーツ活動を「自由権及び生存権から構成される公的権利」として位置付けているのが特筆されることです。だいぶ遅れてからですが、すでに我が国においても「スポーツ基本法」が新たに制定され、スポーツの国際舞台に人を送るにふさわしい国策を策定する体制づくりに着手しています。
競技においても、それぞれの国の基本的人権の尊重に対する国策としても、スポーツにいかなる価値をおいているかは「浮き彫りに」なりつつあります。スポーツの「指導(者)問題」はスポーツ実践環境の根幹にかかわる問題ですから、先の法と権利の関係に従えば、種々活動組織の設置者、管理・監督者に様々な義務が課せられるのは当然です。そう言えばすぐ国や自治体を想定しがちですが、今回の事態は、スポーツを推進する競技団体の主体性や自治・浄化能力が厳しく問われていることとなります。
既に欧州、亜細亜、北南米の国々において、「暴力・体罰」問題で騒がれているのと同じ競技あるいは他のいくつかの競技で、トップレベルの指導を引き受けている「日本の競技界出身の指導者」達がかなりの人数活躍し成果を示すに至っています。これらの落差は一体どのように理解すればいいのでしょうか。
スポーツは内容的には既に「国際ルール」が基本的です。「日本的」なものが「ポジティブ」になるか、あるいは「ネガティブ」なキャンペーンの材料になるかは、相手となる国々が主導します。結果(例えば、勝敗順位、メダル数)だけでなく過程(例えば、選手育成、指導者育成、科学研究等)も重要だという場合、これらの外国で活躍する指導者へのアプローチが重要なことがらだ、と私には思えます。
【善】