1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から17年の時が流れた。もうすっかり「復興」がなされ、人々の脳裏からはすっかり忘れ去られているのかも知れない。しかし、昨年3月11日の「東日本大震災」は、「絶望の淵に沈む」程の地震被害の記憶を十二分に呼び戻してくれた。
マグニチュード9の巨大津波地震は甚大な被害をもたらした。あれから丸10ヶ月が経過した。厳しい寒空の下で、生活機能が十分とは言えない仮設住宅での生活を強いられている人々をはじめ、被災地の人々はどのような生活を送っているのだろうか。
ところで、巨大津波は、福島第一原子力発電所を呑み込んでしまった。「想定外」の事故だった。しかし、軽々に「想定外」が語られてはならない。津波被害がそうであったように、原発事故に関しても、既に「警告の書」は出されていた。田中三彦『原発はなぜ危険かー元設計技師の証言ー』や七沢潔『原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー』などがそうだ。
原発事故とその後の深刻な事態は、いたずらに「想定外」を連発したり、脆くて無責任な「安全神話」を造り出して来たことなどと相俟って、私たちを途轍もないほど「安全文化」崩壊の瀬戸際に追い込んでしまった。
昨年3月11日以降、多くの「原発」関連の書籍が復刊、増刷されている。例えば、田中三彦『原発はなぜ危険か』(岩波新書)、小出裕章『放射能汚染の現実を超えて』(河出書房新社)、高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)、舘野之男『放射線と健康する』(岩波新書)などだ。これらの書籍から学ぶべきことは、唯一の被爆国としての「核」に対する姿勢を保持することの重要さであるし、原発事故が、改めて「核」の問題の深刻さをまざまざと世界中に見せ付けることとなったということだ。
また、歴史社会学的アプローチとして著され、原子力と日本の戦後成長
の関係について考察される開沼 博『「フクシマ」論 原子力ムラはな
ぜ生まれたのか』(青土社、2011/6/30)では、「いつか必ず田舎は都会に
なれるという幻想」と「都会の都合に合わせて田舎が田舎のままに固定
化される現実」を抱えて「翻弄される地方・地域の問題」が明らかにさ
れている。
こうした問題とどのように「向き合い」、どのように「引き取って」い
くのか。新しくて大きな課題が浮かび上がってきている。 mm生