W杯の観戦で、毎晩、寝不足の人も多いことでしょう。授業中の居眠りなど、学びに支障を来していませんか?(笑)
今日は、いよいよ我が日本代表チームが決勝トーナメントに進出できるかどうかを占う一大決戦、オランダとの戦いです。スポーツ健康科学部内でもこの試合に合わせて、学生の有志が企画・準備したパブリックビューイングが行われ、第1期生が団結し、日本代表チームに魂とエネルギーを送るイベントが開催されます。
フランスが2試合で1点も奪えず、イングランドがまだ1勝もできず、さらには無敵艦隊のスペインが敗れたり、まさかのドイツがクローゼの退場で伏兵セルビアに敗れたりするなど、波乱含みの今大会、世界ランキング4位のオランダと戦う我が日本代表チームにも明るい兆しが見えます。
普段、サッカーにあまり関心のない人もこのときばかりは、代表チームの試合を観戦したくなることでしょう。居酒屋やスポーツバーなどでは見知らぬ人同士が肩を組んだり、みんなと一緒になって"ニッポン!ニッポン!"と叫んだり、一喜一憂しながら、我が日本代表チームを応援したくなります。
このような行為の源泉は何なのでしょうか?特に日本代表チームのことを"我が"と第一人称として呼びたくなるのはなぜでしょうか?
その鍵を握るキーワードの1つが、"アイデンティティ(identity)"です。
アイデンティティとは、広義として、"同一性"や"個性"という意味で用いられ、時には、「国・民族・組織などのある特定集団への帰属意識」を意味するものとしても使われます。忠誠心を意味するロイヤルティ(loyalty)と混同されることがありますが、阪神タイガースのファンがチームのことを、"うちのチーム"と呼んだり、立命館大学のことを、学生を始め、教職員が"うちの大学"と呼んだりしていることを考えれば、何となくイメージしやすいことでしょう。
その他にも、ナショナル・アイデンティティやローカル・アイデンティティという言葉があるように、国や出身地、居住地域に対しても、自分との同一性や、帰属意識、愛着心のような気持ちを抱くことでしょう。
つまり、自分自身のことだけでなく、ある特定の対象物に対しても自分自身との結びつきや、「内側と外側」を区別する言葉として、現在、アイデンティティは日常的に用いられています。そのため、"我が日本代表チーム"という言葉を用いたり、"ニッポン!ニッポン!"と叫んでみたり、また普段、学校の式典では国歌を歌わない人が、みんなと一緒になって"君が代"を歌いたくなるのは、ワールドカップという舞台で、我々の心の中にある様々なアイデンティティをくすぐられているからに他なりません。
ただ、このアイデンティティという言葉は、そもそもエリクソンという人が「青年期の発達課題」という研究で、「自分は何者で、何をすべきかという個人の心の中に保持される概念」と位置づけ、自我同一性(自己同一性)と捉えた言葉です。
つまり、今の君たちのような学生諸君が、「自分とは、何か?」「どのような職業に就き、社会の中で自分らしく生きていくためには、どうしたらよいのか?」という問いかけをしながら、「自分らしさ」を築き上げることを意味します。先週のブログのトピックでもあった"キャリアデザイン"にも通じる点があります。
エリクソンは、このアイデンティティが正常に発達すれば、自ら獲得した能力を社会に還元したり、社会の中でそれを役立てようと、役割意識や責任感を持ったりするようになると述べています。この性質のことを、"忠誠性"と呼び、逆にアイデンティティがうまく形成されないと、役割拡散や排除性が強まるといわれています。
このアイデンティティの詳細な説明については、ippo先生に譲りますが(ippo先生、よろしく!)、今回、有志の学生たちが企画したパブリックビューイングは、単にW杯サッカーをみんなで観戦したいということだけでなく、スポーツ健康科学部の学生が一致団結したり、一体感を味わったりできるような機会を設け、学生間の結びつきや絆を醸成したいという気持ちの表れであり、またこれまで自分たちが経験し、築き上げてきた価値観を、何らかの形にして大学というある種の社会に対して働きかけたいという彼らのアイデンティティそのものを映し出したものといえるでしょう。
残念ながら、今日と明日、東京に出張のため、みんなと一体感を味わうことができないのですが、皆さんがエリクソンのいう発達課題を克服し、これまで培ってきた経験、知識、技術、価値観、さらには、ネットワークを立命館のために、また草津市や滋賀県のために、さらには日本や世界のために捧げるようになることを願ってやみません。